「ヤサシイウタ」
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ほぉ。 飲みかけのほうじ茶を片手に、市河は満足げなため息をつく。 もう、風もすっかりあったかくなっちゃったわねぇ。 「ババ臭い」と人には言われるかもしれないが、彼女は変化のない日常をそれなりに楽しんでいた。 毎日同じ時間に碁会所に出勤して。一日忙しくして、同じ時間に終了する。 彼女の生活に波が立つのは、月に何回かだけ。 「こんにちは、市河さん。」 そう、言いながら。柔らかな微笑を浮かべ、彼女の年下の王子様であるところの塔矢アキラが碁会所を訪れる時だけ、であった。 「いらっしゃい、いらっしゃいアキラくーん!」 そんなときの市河は、日頃からは比べものもつかないくらいハイテンションで陽気だ。彼女は彼を小学生の時から追っかけ続けているのだ。アキラー歴は年季が入っている。 天才囲碁少年だったアキラも、近頃ではすっかり青年らしくなった。 碁の腕も、面影も、眼差しも。体格だって成長している。おまけにどれをとっても一級品だ。 もう、市河は身長さえアキラに抜かれてしまっているのだ。 小春日和のような年月の中で、彼女が足踏みをしているうちに。 アキラは、どんどん先に。 「この分じゃ、彼女を連れてくる日もそう遠くはないかなぁ。」 自分でそう呟いたくせに、市河はちょっと笑ってしまった。アキラほど、「彼女を連れてくる」という言葉からほど遠い青年はいない。 よく言えばストイック、悪く言えば囲碁馬鹿。囲碁以外のことには目もくれない彼のために、今まで何人の女の子が涙で袖を絞っていることか。 『すみません、僕は…今、碁以外のことに興味が持てないんです。』 人づてに聞いた台詞は、彼が女の子に申し込まれた交際を断るときの常套句らしい。 「いいなぁ、私も、あと5歳若かったら、なぁ…」 市河と彼の年齢差は、ちょうど7歳。彼に初めて会った頃、彼女はもう今のアキラと殆ど変わらない年だった。 しかし、あと5歳本当に若かったとしても、自分がアキラに告白なんぞしないだろう事も、市河は知っている。今現在の心地よい、「年上のお姉さん」的ポストを崩してまで、彼女の座など欲しくない。 「だいいち、手に入らないわよ。アキラ君、私みたいなおばさんを相手にしなくたっていいもの。それに…」 本気でアキラのことが好きな訳じゃないのだ。アイドルを追っかけているようなミーハーさで、気軽さで。「アキラくん、アキラ君」と騒ぎ続ける。…続けている、だけ。 そういう、オブラートにくるんで、底にある気持ちを冷凍したまま。 市河は何も変わらずに、この碁会所に居続ける。 彼が気づいたのは、些細な切っ掛けだった。 その日、たまたま予定が何もなかったアキラは、いい天気に誘われるように家を出た。特にどこへ行こうというのではなかったが、ついいつもの碁会所に足が向く。 気が向いたときに、ふらふらっと立ち寄る、父の経営する碁会所。そこは彼にとって珍しく「居心地がいい」と感じる場所の一つだ。常連の老人達に指導碁をしたり、世間話に付き合わされたり。 呼び方は「アキラ君」から「アキラ先生」になったけれど、何一つ変わらない人たち。彼がプロになっても、足が遠のいても、いつでも暖かく出迎えてくれる受付の「市河さん」――――― アキラは、軽い足取りで碁会所に続く階段を上がっていった。 「あの、困ります。私はただの受付で…」 「そんなこと言わずに、一局打ってよ、お姉さん。」 「ですから、私はここを離れるわけにはいけませんし、……それに、そういう賭け碁はしたくありません。」 「いいじゃない。勝ったらお茶しにいこう、って言ってるだけだよ。別に取って喰おうってんじゃないんだからさ。」 ふらり、と入ってきて、どこをどう間違ったのか受付の市河に目を付けたらしい男が、一局打って自分が勝ったら付き合え、と先ほどから市河に迫っている。図々しくも手を握ろうとしてきた男に後じさりながら、市河は心の中で助けを求めた。 『誰かぁ〜〜〜。』 こんな時、老人ばかりの常連さん達はおろおろするばかりで殆ど役に立たない。ちらほら現れるアキラの父である塔矢元名人門下の若い棋士も、こんな時に限って現れない。 「ねぇ、いいだろ?」 「駄目です。」 そんな押し問答が続く。男は一向に引き下がる素振りを見せない。客とはいえ、いい加減に返事をするのもイヤになっている市河に、男が更にずずい、と腕を伸ばしてきた。 場所は狭い受付カウンター。もう後はない。思わず身をすくめて目をつぶった市河の耳に、稟、とした声が響いた。 「僕がお相手しましょう。」 あ。 この声は。 「アキラ君!!」 思わず挙げた声はいつもより半オクターブは高くなかったか。市河の視線の先には、切れ長の目をいつもより更に細めた塔矢アキラが居た。 「なんだお前。俺とやるっての?」 「はい。彼女の代わりに、僕が打ちます。僕が勝ったらさっさと帰って貰いましょうか。」 男が挑戦的に振り返る。 「生意気な奴だなぁ。いいぜぇ。その代わり、俺が勝ったらこのお姉ちゃんは俺とお出かけだ。いいな?」 「…いいかも何も。」 たんたん、と軽い足取りで手近な碁盤に歩み寄り、ガタッと椅子を引く。 「負けませんから。」 一瞥して、腰を下ろす。その、強い視線に射竦められたのは男だけだったか。誰も一言も発せずにいる中、男がゆっくりとアキラの対面に腰を下ろした。 「…置き石は幾つにしますが?」 「馬鹿にしてんのか、てめぇ!どれだけ打てるかしらねぇが、ナメてんじゃねぇぞ。俺は強いからな!」 ―――馬鹿はお前だって。 その瞬間、碁会所の中にはそんな雰囲気が流れた。多少なりとも碁が打てる人間にとって、囲碁界のサラブレッドである塔矢アキラはアイドルに等しい。知らない方がおかしいくらいだ。 ふぅ、と軽く息をつくアキラ。 「…では、互先で。」 伸ばした指の先で、白石がじゃらりと音を立てた。 「……クソ、ここまでか…」 男が悔しそうに呟くまで、ものの五分あったかなかったか。 「僕の勝ちですね。」 淡々とした口調で勝利を宣言するアキラ。 「今日は、調子が悪かったんだ!!」 捨て台詞ともいえない文句を残して、男は足早に碁会所を出ていった。ぱちぱちぱち!と市河が手を叩く。 「すごい!アキラ君やっぱり天才!!かっこいい!!」 「いえ…」 「ありがとうありがとうありがとう!!!助かったわ〜!!」 「余計だったかもしれないけど、市河さん、困ってたみたいだから。」 ちょっと照れたように呟きながらアキラは碁石を片づけ始める。市河が慌ててその手を遮った。 「あ、いーわよいいわよ片づけなんて!あっちで座ってて!お茶入れてくるから!!」 「いや、そんな。」 「アキラ先生、いいじゃないか。いっちゃんの恩人なんだから。」 「そうだよ。良かったなぁ、いっちゃん。王子様が助けに来てくれて。」 常連達が口々に冷やかす。 「そーよ。誰も助けてくれないんだもん。やっぱりアキラ君は違うわよね〜。」 困ってる人を捨てておけないなんて優しい!とまで言われてアキラは流石に恥ずかしくなる。 「じ、じゃあここ、お願いします。」 言い置いて、逃げるように隅の方の空いている席に向かっていった。 黙々と棋譜を並べていると、手元に湯飲みが置かれた。 「はい。お茶。」 「…ありがとうございます。」 顔を上げなくても誰かは分かっている。湯飲みに続いて置かれた小皿の上に、ちょこんと二つ高級そうなチョコレートが乗っているのも。いつだったか、何の気無しにアキラが「美味しい」と言ったため、彼女はこのチョコレートをわざわざ買い置きしているらしいのだ。「構いませんよ」と言っても「ううん、私が好きだから。」と笑ってはぐらかされて終わり。 「市河さん、本当に気を遣わなくていいんですよ?」 湯飲みを取り上げて、中身がアキラの好きなほうじ茶であることに気がついてまた苦笑する。客が誰でも飲めるように置いてあるポットの横にあるティーバックは緑茶だったはずだから、市河は彼のためにほうじ茶の用意もしてあったことになる。 「いーの!アキラ君こそ、気を遣わないの!」 「はぁ…。」 最も、アキラが来るときは、いつもこのレベルのサービスなのだが。いつもいつも変わらずにむき出しの好意をぶつけてくる市河に、多少面映ゆい思いをしながらアキラは湯飲みに口を付けた。 「でも、本当にありがとうね。ちょっとあの人、図々しくて気持ち悪かったから…」 「よくあるんですか?あんな事。」 市河の言葉の微妙な響きを感じ取って、アキラが訪ねる。 「まぁ…いないでも…ないけど。いやよね。碁会所をなんだと思ってるのかしら。」 「そりゃいっちゃんが美人だからだよ!」 アキラが口を開くより早く、近くにいた常連の一人が揶揄する。 「そうそう。今はやりの女優さんににとるよ。ほらあの、『癒し系』とかいう。」 「ありがとねー。お世辞でも嬉しいわぁ。」 勝手な軽口を叩く老人達に、市河が振り向いてひらひらと手のひらを振ってみせる。 ああ。いいな。 ふと、そんな言葉が胸をよぎった。日溜まりのような。暖かい空気。緊張感も進歩もないけれど、優しくアキラを包み込んでくれる。香ばしいお茶を一口含むと、体の中から暖まるような気がした。 「アキラ先生、指導碁をお願いしてもいいですかな?」 常連の一人が近寄ってくる。 「ああ、いいですよ。」 それを機に、アキラは再び囲碁の世界に没頭した。 「すいませんー、そろそろ閉めますよー。」 市河の声に、アキラは我に返った。時計を見ると碁会所はそろそろ閉店の時間だった。今日はずいぶん長居をしたらしい。 「はいよー!アキラ先生、今日はありがとうございました。」 口々に言いながら三々五々と人が帰り始める。それにいちいち挨拶を返していたら、自然とアキラは最後まで取り残されてしまっていた。 「ありがと、アキラ君。今日は。大丈夫なの?こんなに長くいて。」 レジを閉めていた市河がアキラの元にやってくる。 「あ、はい。今日明日は、特に予定が入っていなかったので…」 そう。久々の連休と言ってもよい。しかし、それにしてもこんなに長いことここに居たのは初めてかもしれない。 「そっか。ふふ、嬉しいなぁ。一日アキラ君が見ていられるなんて、ラッキーだったわぁ。」 「……」 「じゃぁ、私、碁石とかの片づけするから。アキラ君、今日はありがとう。」 言いながら軽やかに身を返す市河の後を追うようにアキラが慌てて立ち上がった。 「あ、手伝います、市河さん。」 なんとなく、まだここを去り難い気がした。 結局の所碁石の片づけどころか戸締まりまで手伝って、鍵をかける市河と一緒にアキラは碁会所を出た。 「こんなに遅くまでありがとう。」 「いいえ。他にすることもありませんでしたから。」 バッグに鍵をしまう市河の後から続いて階段を下りる。外に出ると、もう日はとっぷり暮れていた。 「そうだ、アキラ君。今日、まだ大丈夫?」 少々ぼーっとしていたアキラは、珍しくその問いを聞いていなかった。 「え?」 「いや、アキラ君もしこの後暇なら、今日は助けてくれたしイロイロ手伝ってくれたし、ご飯でも奢るから一緒に来ないかなーって思っただけ。」 市河は言いながら慌ててぱたぱたと手を振った。 「い、いやもちろん無理にじゃないのよ!奢るったって私じゃたかがしれてるしアキラ君忙しいのは知ってるしおうちにご飯あるかもしれないし……」 アキラにはそんなつもりはなかった。全然なかったのだが…赤くなってもごもごと言い訳をする市河の姿に、口元がほころぶのを感じながら「いいですよ。」と返事をしていた。 「え?え??いいの??」 「はい。あ…もし、ご迷惑でなければ。」 「迷惑だなんて!!私が誘ってるのに!!」 「……じゃあ、行きましょうか。」 「うんうん!!」 市河の車まで2人で歩きながら、彼女は興奮を抑えきれないようだった。 「ね、アキラ君、何食べたい??何でもいいよ!和食?洋食?イタリアンでも中華でも!!」 「市河さんにお任せしますよ。」 「ううう〜〜ん。」 市河は真剣に頭を巡らせた。入る店を任されたということは、逆を返すと市河のセンスが問われるということだ。 ―――アキラ君、お家じゃほとんど和食だろうから和食はパス、と。中華もあんまりロマンチックじゃないかなぁ…… 「…イタリアンでいい?」 上目遣いで恐る恐る聞かれ、アキラはこっくりと頷いた。 「ここのお店ね、時々友達と来るんだけど……すごく美味しいの。」 「そうですか。」 結局、市河は友人と何度か来たことがあるこざっぱりとした店に決めた。いつもは少し入るのを待たされるのでためらったのだが、今夜に限ってすんなり入れた。そう安くはないお店だけれど、せっかくのアキラと2人きりの食事の機会だし。今月買おうとしてた靴を諦めれば。 「何にする?何でも頼んでいいわよ。」 「…じゃあ……あの、市河さん。」 「なぁに?」 「これは、何でしょうか。」 「どれどれ?えーと、これはねー、卵と…」 大きなメニューと、ついでに注文を取りに来たはずのお店の人とも格闘しながら何とか注文を決める。 「いろんな料理があるんですね。」 「そうね。…アキラ君、こういうお店は初めて?」 「はい。あまり、外食はしないもので。」 照れ笑いしながらアキラが水に手を伸ばす。 「そうよねー、アキラ君のお母様、お料理上手だもんねー。」 「はぁ…」 そうではなくて。家族や、ましてや友人ともあまり一緒に出かけたことなどないアキラにとって、「外食」はお仕着せのメニューが出てくる会食やパーティ、もしくは仕出しや出前などに限られていたから。囲碁の対局の時など、昼食すら取らない彼だ。こんな風に、誰かと話しながら延々自分の食べたいものを決める、というような経験をほとんどしたことがなかった。そんなことを彼女に言っても仕方がないので黙っていたが。 「お待たせいたしました。」 そう待つまでもなく、一品目の皿が前に置かれた。 「市河さん、僕は自分の分は…」 「いいのいいの!今日はお礼だって言ったでしょ。」 支払いの段で少しもめたが、結局の所は市河が押し切って2人分の勘定を済ませた。 「すいません。ありがとうございます。」 「もう、いいって言ってるでしょー?今日は助けてくれたし、手伝ってくれたし…」 少し離れた駐車場まで言い合いながら歩いていると、ふと市河が足を止めた。 「うわぁ。可愛い。」 アキラがそちらに目を向けると、綺麗にディスプレイされたショーウィンドウが目に入った。 「こんな時間まで開いてる雑貨屋さんがあるんだー。」 ふらっと入り口に吸い寄せられようとして市河は慌てて立ち止まった。 「…ってごめんごめん、早く送って帰らないとね。」 はたはた、と慌てる市河に今日何度目か分からない苦笑を浮かべながらアキラは入り口に近づいた。 「ちょっと、見ていきましょうか。」 雑貨屋なんか、初めて入った。 品物の洪水を目の前にして、少々圧倒されながらアキラは呟いた。彼が日頃生きている白と黒の無彩色の碁盤の世界と違って、ここはなんとカラフルなことか。何となく、市河の後をくっついて歩く。市河はいろいろな物の前で足を止め、これ可愛い、とかあれもいいな、などと言っている。これだけ雑多な物の中から自分好みの物を見つけられるというのがそれだけでもうアキラには驚異だ。 「うーん、これ、可愛いんだけどな〜。」 市河が何度目かわからないつぶやきを漏らした。そのまま、足を動かす気配がないのでアキラはその手元をのぞき込んでみた。 キラキラと輝く色の洪水。アクセサリーの棚の前で、市河の手には小さなネックレスが乗せられていた。 「…似合いそう、ですよ?」 よく分からないけれど、市河の手に乗せられたオレンジの花の首飾りは彼女の雰囲気にぴったりな気がした。 「うー、うー、そーなのー。可愛いんだけど…」 しかし彼女は呟きながら、そのネックレスを棚に戻した。その未練たっぷりの仕草にアキラが首を傾げる。 「買えばいいのに。」 「うー、可愛いんだけど、お値段が可愛くないの〜〜〜〜。」 言われて値札に目を落としたが、そのお値段が可愛いのか可愛くないのか装飾品一般に興味のないアキラには分からなかった。さっきの自分の食事の代金くらいじゃないだろうか、と思いついたアキラが財布の中身を計算するより先に、市河がアキラの腕を引っ張った。 「さ、行こう。引き留めちゃってごめんね。未練が出る前に帰った方がいいわ、うん。」 からからと鳴る入り口のドアに送られながら店を出たアキラの頭の中に、さっきのオレンジの花が焼き付いていた。 アキラは自宅前で車を降り、運転席の市河に頭を下げた。 「ありがとう、市河さん。」 「ううん、私こそ、今日はほんっとに楽しかった!ありがとう、アキラ君」 「いえ、僕も…楽しかったです。気をつけて帰ってくださいね。市河さん。」 「はーい。またね、アキラ君。次の手合いも、応援してるね!」 走る車のテールランプを見送りながら、ほんとうに「また」一緒に出かけてもいいかな、と思っている自分に…アキラは気づいた。 パチ 「なぁ、進藤。」 パチッ 「んん、何、塔矢。頼んだってそこは待たねーぞ。」 パチ 「違うよ。そうじゃなくて…」 パチッ 「そーじゃなくて何なんだよ。」 棋院で暇つぶしの碁盤を囲む相手に向かって、アキラは碁盤から目を上げずにこう聞いた。 「進藤は、女の子と2人でどっかに出かけたりするのか?」 がらがっちゃん。 次の瞬間、アキラは何かが滑り落ちる音に顔を上げた。一緒に碁を打っていた進藤ヒカルが崩れ落ちている。 「塔矢、てめー、何見たんだよ。」 「え?別に、何も。」 がばっと顔を上げたヒカルの質問の意味が分からず、アキラがきょとんとする。 「何もじゃねーだろ何もじゃ!!ちょっとこっち来いよ、塔矢!!」 自分たちが注目を集めていることに気づいたヒカルがアキラを廊下まで引っ張り出す。 「何だよ、いきなりだな、進藤。」 「るせー。塔矢、お前なんだってお台場なんぞに居たわけ?」 「は?」 お台場? 呆然とするアキラを前に、ヒカルがどんどんと言葉を紡ぐ。 「いっとくけど、俺はあかりにあんなとこ行くのイヤだって言ったんだぜ。けど、あいつが水族館だとかビジュツ館だとかドーブツ園だとか混んでる遊園地だとかいっつまでも決まりやしねー買い物だとか胸くそ悪くなるようなレンアイ映画とかと選べっていうからよ、仕方なく……」 「ちょ、ちょっと待て、進藤。」 話が。見えな… 「だからって、アレは断じてデートじゃないんだからな!あかりはただの幼なじみ!!妙なこと言いふらすと承知しねーからなっ!!」 …見えた。 アキラは苦笑しつつ「そんなことは聞いてないし、僕は別にお台場には居なかったよ。」と返事をした。 「はぁ?!」 今度はヒカルが硬直する番だった。 「そうじゃなくて、進藤が女の子と2人で出かけたことがあるのなら、どんなところに行くものなのか聞きたかっただけなんだけど…何となく分かったから、もういいよ。」 じゃ、「彼女」によろしく、と言い置いて立ち去るアキラの後ろで、墓穴を深く深く掘り下げたヒカルが塩の柱と化してサラサラサラ…と崩れ落ちていった。 『一緒に出かけませんか?』 アキラからそんな電話を受け取ったのは、前回の食事から一週間ほどたった日のこと。 電話のこちら側で市河は、思わぬ誘いに硬直した。 「…え?」 「ですから、この間、奢っていただいたお返しをしたいんです。次の日曜日でも、空いていらっしゃいませんか?」 「え、あの、その。」 嬉しいけど、いやそのとても嬉しいのですが 「ああ、アキラ君、そんな、本当に気を遣わないでも…」 「いえ、どうせ大した予定もありませんし、今囲碁の方もちょっと落ち着いているので。…イヤ、ですか?」 「い、イヤじゃないイヤじゃないそんなとんでもない!!でもでも!!」 「じゃあ、構いませんか?」 「え、あ、は……」 ―――こんな、美味しい誘いを断れるわけが。 「はい!!」 ―――ない。 「あの」憧れのアキラの誘いだ。市河は有頂天になって受話器に向かって首をこくこくとふった。 「…良かった。じゃあ、…」 ―――水族館だとかビジュツ館だとかドーブツ園だとか混んでる遊園地だとかいっつまでも決まりやしねー買い物だとか胸くそ悪くなるようなレンアイ映画…… 頭の中でヒカルの言葉が渦巻く。 自分と市河なら。 「……市河さん、どこに行きたいですか?」 「え?私?わたし、アキラ君とならどこにでも一緒に行くわよ!!」 そう。どこにだって。 「じゃあ、スイゾクカンとビジュツカンとドウブツエンとユウエンチとカイモノとエイガ、どれがいいですか?」 アキラが一息に言う。棒読みなのはご愛敬だ。もちろんアキラの方はそのどこにも殆ど行ったことがない。具体的なイメージというのがいまいち湧いてこなかった。 「…ご、ごめん、アキラ君。もう一回言って…」 おかげで市河には聞き取ることができなかったようだ。アキラが一つ、ため息をついた。 「え?え?どうしたの、アキラ君?!呆れちゃった??」 彼のため息に市河が素早く反応する。 「いえ、違います。僕は、本当にこういうのに慣れていなくて…すいません。」 「いいのいいの!じゃあじゃあ、…今ちょうど、見に行きたかった展覧会があるから、それについてきて貰うっていうのは…どう?」 「いいですよ。」 アキラがほっとした声を出す。絵画や美術品なら黙って眺めていてもそう退屈はしない…はずだ。正直、遊園地や買い物で自分が間を持たせられるとは思っていなかったし。 「じゃあ、いつにするか予定を合わせましょうか。」 「うんうん!!」 電話を切って、アキラは苦笑した。心臓が派手な音を立てている。手合いより緊張したかもしれない。けれど、自分にも女性を誘うなどということができるのだ、ということがなんだかおかしかった。 アキラ君に誘われちゃった。 何着ていこう!!ああ、それより、どうか夢でありませんように!! 小躍りする、とはまさしく今の市河のことだろう。アキラとの約束はまだ先だというのに、夢見心地のままタンスを開ける。がさがさと中身を引っかき回し、部屋の中に洋服を氾濫させる。 「ああもう、なんか可愛い服買わなきゃ!!」 そう。 アキラは、どんな格好が好みなのだろう。可愛い系か、綺麗なお姉さん風にするべきか。 「買い物、買い物!新しいファンデでしょ、口紅…ああ、グロスかなぁ。アクセも欲しいし、あと服に、美容院も行かなきゃ!エステも…」 やりすぎだ、と言われようと、今の市河にとってアキラとのお出かけはここ数年で最大のイベントに違いなかった。 「アキラ君、お待たせ!!」 約束の日は快晴で。デートの行く末のようで、市河の心も浮き浮きしてくる。 「いえ。じゃ、行きましょうか。」 待ち合わせの駅構内、アキラは手に持っていた文庫本をぱたん、と閉じた。その表紙が『詰め碁百選・上級編』であることをしっかりチェックする。 「アキラ君て…」 「はい?」 首を傾げるアキラに市河が何気なく訪ねた。 「アキラ君て、小説とか読むの?」 「……いえ、あまり。学校で推薦された物くらいは、読んでいますが。」 「そうだよ、ねぇ〜。じゃ、読む本も碁関係ばっかりなんだ。」 「…ええ。」 「ホントに碁、好きなのねぇ。いいなぁ、そこまで何かに打ち込めるって。」 「そんなことはありませんよ。」 「んん、あるわよぉ。アキラ君、ほんとちっちゃな頃から囲碁が好きで…「好きこそ物の上手なれ」ってアキラ君のためみたいな諺よねぇ。」 羨ましいなぁ。 そんな風に言われ、アキラは照れた。 「そんな風に…ご立派なものじゃ…」 「いーのいーの。誉め言葉って言うのは素直に受け取って。アキラ君がどんなに努力して、頑張ってきたかはこの市河さんはちゃーんと知ってますから!」 どこに出たって証人になってあげるわよ!とばかりどん、と胸を叩く市河に、アキラが笑い出す。 「なな、なによぅ!笑わなくたっていいじゃない!アキラ君!!」 「い、いえ…ありがとうございます。でも、でも、一体どこでそんな証言するのかなぁって…」 「ん、んー、ホラ、「お見合い」、と…か…」 苦し紛れに言った己の一言の威力に、市河がトーンダウンする。 お見合い。 そう、アキラはいつか…誰か。彼を支えてくれるしかるべき女性と結婚するのだろう。何とはなし、アキラは見合いで結婚することになるのだろうなぁ、と市河は想像していた。 「お見合いですか…それじゃ、まだまだ先の話ですねぇ。」 そんな市河の心中を知ってか知らずか、アキラは微笑みながら返事をかえした。 「わ、わかんないわよぉ。そんなの。アキラ君、もててそうだし。」 「…そうでしょうか。全然、分からないんですけど。そんな実感もないし。」 「そりゃ、アキラ君は囲碁馬鹿だから。囲碁の女神様が居たら、そのまま結婚しそうな勢いなんだもん。」 できるだけ、冗談めかして言う。アキラは。囲碁が一番だから。 「ひどいや、市河さん。」 にこにこと笑うアキラには何の屈託もなくて。ほんの少しだけ、市河は切なくなった。 「…退屈じゃ、なかった?アキラ君。」 「いいえ。思ったより、ずっと良かったですよ。」 「そぉ?よかったぁ。」 にこにこ笑う市河に、アキラが相好を崩す。 「特に…あれが良かったです。ほら、市河さんが前でずっと立ち止まっていた…女性の肖像画。」 「ああ、あの絵!綺麗だったわよねぇ〜。ふふ、ずっと見に来たかったんだ。ありがと、アキラ君。」 ほくほく顔で分厚いパンフレットを抱える市河。アキラがすっと手を差し出した。 「重いでしょう?僕持ちます。」 「え?いいわよぉ。私が好きで買ったんだもの。」 市河は笑って取り合わない。差しだした手が半端になったので、アキラはそのまま袋に手を伸ばした。 「無理しないでください。僕が…」 「あ、いいって。」 掴もうとする手と、引っ込める手。袋を掴み損ねて、アキラはとっさに市河の手首を掴んだ。 「あ。」 少し狼狽えたが、思い直してそのまま引き寄せる。市河の手首は、アキラがちょっと力を入れれば折れそうなほど華奢だった。引き寄せた手から、パンフレットの入った袋を放させる。 「僕が、持ちます。」 「………ハイ。」 アキラに手首を捕まれた時点でドキドキものだった市河が素直にうなずく。その頬がみるみる真っ赤に染まった。 「じゃ、行きましょうか。」 袋を下げて、さっさと歩き出すアキラ。慌てて後ろからとことこついていく市河には見ることが出来なかったが… 彼の顔もまた、朱に染まっていた。 「お昼御飯、どうします?」 「んー、どこでもいいんだけど。」 左右に並んだ店屋に目を走らせながら市河が答える。 「僕も、ほとんど知らないんですよ…」 「そぉねぇ…おなかの具合、どお?凄く空いてる?」 「いえ、それほどでも。」 「じゃ、あそこにでもする?」 市河が指さしたのはこぎれいなカフェだった。もちろんアキラに異存はない。 「いいですよ。…でも、ああいうところで食事ってできるものなんですか?」 カフェって書いてありますよ、と言うアキラに市河が苦笑した。 「そうでもないのよ、最近は…さ、アキラ君、行こう?」 そのカフェでもアキラはまたメニューの見づらさに苦戦したが(そもそも、タコライスだのBLTサンドだのいう単語を並べられても、アキラに中身の想像のつこうはずがない)、今度もまた市河の助言によりなんとか注文を終え、グラスの水を口に含んで一息ついた。 「…すみません。」 「え?何が?」 突然のアキラの謝罪に、市河が隣の席でわたわたとする。 「いえ、せっかくこういうお店に入っても、僕は、何にも知らなくて…」 「え、え?いいじゃない。別に。そんなの大したことじゃないし。」 「しかし…」 呆れてしまいませんか、と尋ねるアキラに、市河が苦笑した。 「んー、じゃあ、さ、アキラ君。」 「はい。」 「もしもよ、私が初心者で、アキラ君と碁を打っていて…置き石とか棋力とか全然知らなくて、いちいち聞いたら、アキラ君、呆れる?」 「そんなこと、ありませんよ。知らないなら聞くのは当然でしょう。」 「ね?」 ぱちん、と片目をつぶられ、アキラがやっと表情を崩した。 「そうですね。でも、…次までにはもう少し勉強しておきます。」 「あはは、やぁだ、アキラ君、わざわざ勉強するような事じゃ…って…」 え。 次? 「だって、いつまでも市河さんに聞いていちゃ、情けないでしょう。今回で少しは覚えましたから、次はちょっとはましですよ……どうしました?」 硬直している市河に、アキラが問いかける。 「…アキラ君、次って。」 「次は、次ですよ?僕、市河さんとこうやって出かけるの、嫌いじゃありませんから。」 もしかして、迷惑ですか?と眉をひそめるアキラに、市河は力一杯首を振った。 「全然、ぜんぜん!!嬉しい!!…でも、いいの?」 「はい。良かったら、僕とまた、一緒に…」 その言葉が。 告白めいているという自覚は、アキラにはまだ、無かった。 続。 |