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眼鏡をかけた花井がいつになく小難しそうな顔で本を読んでいたので、一体何を読んでいるのかと覗き込んだら『The Catcher in the Rye』だった。
「あ、それ、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』?村上春樹の方?」
聞くと、実は結構文学小僧で英語も得意な花井がそうだけど、村上春樹のじゃないと返事をした。
「オヤジのだけど。やっぱりいっぺん読んどかなくちゃってな」
「とかいって、カッコつけだけだろ?」
「そりゃお前だ、水谷」
同じく花井の机の前でケケッと笑いながら茶化す水谷を本の背でポクッと叩いてから、花井は阿部を振り返った。
「阿部が知ってると思わなかったよ」
「あー、たまたま、だよ。つーかそれ、意味わかんねェよ」
「いや、オレ今まだ読みかけだし。てか、阿部、お前題に『キャッチャー』ってあるから読んだだけじゃねーの」
「あのな、花井。お前オレをアホだと思ってるだろう。それさ、途中でホールデンが」
「言うなって、阿部!」
意味わかんないとか言うなよな、という花井に、でもお前なら分かるかもなと阿部が苦笑する。
なんか花井と阿部が高尚な話してる、と呟いて花井が机の上に伏せた本を取り上げて捲った水谷はうわ、字がいっぱいだよと顔を顰めた。
「花井も阿部もなんだかんだ言いながら勉強できるから羨ましいよな」
はぁー、と水谷が溜息を付く。
「オレもなぁ、田島や三橋よりはマシなんだけど」
その後でぼやいた台詞に、阿部と花井が一斉に反応した。
「や、水谷、それやばい、比較対象が」
「おお、下にあいつらしか居ないんじゃ焦った方がいい」
「……お前ら、容赦ないね」
仮にもバッテリーと調教師じゃねーの、と水谷が苦笑する。花井が、いやオレ、いつ田島の調教師になったよ!と反論した。ひとしきり言い合ったその後で、水谷が気を取り直したように阿部に向かって聞いた。
「そいや、阿部、お前めためた理系だろ」
「おお」
「クラス選択理系で出す?」
もうじき一回目の希望調査があるだろ、夏休み前に、と言われ、阿部は頷いた。
「多分な」
「そっか。オレはまだ迷ってるんだよ。…花井は?」
「あー、オレ多分文系だ。同じクラスは今回だけっぽいな、阿部」
「つか花井、お前さり気なく国公立コースとか入ってそうでイヤ」
阿部がじろりと花井を睨むと、花井はそこまで成績良くもないけど、と半端な笑いを浮かべたので、阿部はああ、嘘だなと思った。思ったが、黙っておく。クラスぐらい違っても、どうせ部室で会えるんだし。
今のところ、誰一人塾がとか予備校がだとか言い出さないのも幸いだった。いや、家では言われている人間も居るのかもしれないが、今のところは全員その手のことには沈黙を保っている。
「ま」
水谷が首にかけたヘッドホンから伸びるコントローラーを弄りながら腰を上げる。一度阿部も聞かせて貰ったが、阿部の聞いたことのない洋楽だった。そのまま、さらっと色のない声で水谷が言う。
「関係ないだろ、野球やってれば」
クラスメイトとして仲良くなる前に、まず部活で知り合った三人である。クラスという集団にも属しているのだが、どうしても先に野球部が来てしまうのは、あそこで過ごす時間が濃密すぎる所為なのか。
「そうだな、野球やってれば、イヤでも顔を合わすよな。お前とも花井とも三橋とも栄口とも……」
言いかけた阿部の言葉が失速した。
不意に三橋の事が懐かしく、顔を見たくなった自分に当惑したのだ。朝練で会ったばっかりだぞ、おいと思わず自分でツッコミを入れる。と、その時、無機質な鐘の音が騒々しいクラスの喧噪の中に響き渡った。
「あ、チャイム鳴った」
花井が本を閉じたのを契機に、花井の隣の席に腰掛けていた阿部も立ち上がる。
「次、世界史?眠いなー」
「お前はいつでも寝てるだろ、水谷!」
そうだな、と阿部はさっぱり意味が分からなかった小説の最後で、やっと少し共感できた一節を思い出す。『誰にもなんにも話さない方がいいぜ。話せば、話に出てきた連中が身近にいないのが、物足りなくなって来るんだから。』とか、書かれていたと思う。
哀れなヤツだなホールデン、と阿部は思った。お前は野球をやるべきだったんだよ、きっとな。
次の休み時間には、七組の教室に三橋の顔を見に行こうと思いながら、阿部は自分の席に戻って机の中から読みかけの野球雑誌を引っ張り出して読み始めた。
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+++END.
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