| Sanctuary. |
パチッと小気味の良い音を立てて白石が盤上に陣を穿つ。 「ああーっ!!」 瞬間、制止するように対座で上がった慌て声に、白の打ち手三谷祐輝は勝ち誇った顔でニッと笑った。 「さ、コレで中央のお前の石は死んじまったぜ、進藤。どーするよ?」 「う…うううっ」 口惜しいような情けないような顔でしばし盤面とにらみ合いをしていた進藤ヒカルだったが、やがてがっくりと肩を落とした。 「…負けました…」 「ま、トーゼンだな」 二人手を伸ばして盤面を崩す。硝子製の碁石はぶつかりあって、不思議に透明な音を立てた。 「ちぇーっ、もうちょっとだと思ったのになぁ」 「バーカ、誰サマが相手だと思ってんだ」 「いや、でもほんとに進藤君も強くなってるよね」 二人の横で観戦に興じていた(と言うか3人きりの部活では単に対局相手がいないのだが)筒井公宏が、フォローのように言って時計を見上げた。 「今日はこれで終わりにしようか。そろそろ下校の時間だよ。」 「えっ、もうそんな時間?」 驚いて目をやった窓の外は、いまだ昼の明るさを残しながらも西の空が赤く染まり始めている。夏の気配をたっぷりと含んだ風が、理科室のカーテンを大きくふくらませて校庭から響く蝉の鳴声を一瞬遠くへさらっていった。 7月に入った夕方の空気は、賑やかで…そしてどこか切ない色をしている。 流れて行く季節の中で、刻々と浸透していく日常の風景。今ではもう、放課後ここに3人(時には紅一点の藤崎あかりもまじえて4人)集まることが、いつの間にか当たり前になっている。 「忘れ物しないようにね。特に進藤君。明日はたま子先生ずっと理科室使うって言ってたから。」 戸締りをしながら優しく注意を促した筒井の後ろで、当の忘れ物大王進藤ヒカルがうーんと一つ伸びをして、三谷の肩に手をかけた。 「腹減ったなぁ。なぁ、帰りにラーメン食ってこーぜ」 「またラーメンかよ」 「いーじゃん、三谷だって好きだろ。ね、筒井さんは?」 「うーん、残念だけど僕は一応受験勉強があるから」 「そっかぁ。ま、いいや三谷行こうぜ!」 「だからなんでオレが行くもんだって決めつけてんだよ!」 「三谷はどーせヒマじゃんか」 理科室に鍵をかける筒井の後ろでぎゃぁぎゃぁ言い合いながら、それでももう二人の影は同じ方向に歩き出している。 そんなことも、いつも通りの当たり前の風景だった。 * 「あっ、三谷ちょっと待てズルイ! それ最後の1個のぎょーざじゃんかっ」 「お前もう3個食っただろ」 「三谷4つめじゃん〜〜〜〜!! ワリカンで一皿なんだからじゃんけん、じゃんけんっ」 「バーカ、さっき対局で負けたのは誰だよ」 事も無げに言って餃子を口に放り込んだ三谷に、あーーーっ! とヒカルがラーメン丼をガチャガチャ鳴らした。 「三谷、横暴っ!」 「っせーな。ラーメン奢りじゃないだけ感謝しろ」 「くっそ〜、次こそ勝ってやるからなっ」 「もっと強くなってから言え、そーゆーことは」 どさくさに紛れてチャーシューに伸びて来た割り箸をぴしゃっとはらって、三谷は卓に頬杖をついた。 「ちぇっ。そのうち絶対追いついてコテンパンにしてやるからな。そしたら三谷ラーメン奢れよ」 「指導料払え。」 ぶつくさ言いながらラーメンの残り汁まで綺麗に飲み干すヒカルを眺めて、三谷はふん、と鼻を鳴らした。 大会に出たいから、と無理矢理自分を囲碁部に引っ張り込んでおいて、一体どれだけの打ち手なのかと思ってみれば、この強引さだけは天下一品の進藤ヒカルときたらまるっきりヘボの初心者だったのだ。それはもう、呆れて口が塞がらないような手を平気で放ったりなんかしくさるし。 でも。 でも、と三谷は思う。 筒井に言われるまでもなく…確かにコイツは強くなった。当初とは比べ物にならないくらい、海王に惨敗した大会の頃よりもずっと。進藤ヒカルは強くなっている。 対局していればその成長は明らかだ。毎日、確実に力をつけている…手強い一手も格段に増えて。 「あっ、今日ジャイアンツ戦じゃん。松井打つかな、松井」 ラーメン屋の隅に置かれた小型テレビに見入っている能天気そのものなバカ…だけど。 「…お前さ、ホントにもっと強くなれよ…もっと」 呟きのように小さな声に、それでも能天気野郎はパッと振り向いた。 「何? なんか言ったか三谷」 「なんでもねーよっ」 視線を合わせたくなくてふいっと横を向いてしまった三谷に、ヒカルはへへっと笑った。 「うん、なるよ、オレもっと強く。」 「っ…! 聞こえてんじゃねーかよ!!」 「へっへー。そんで筒井さんにも勝って、三谷にも勝って……」 不意に、考え込むようにとぎれた言葉。三谷は眉を上げる。 ―――オレにも勝って…それで? 遠い目は、何を見ているのか。 「打倒海王、だろ」 「うん!」 三谷の言葉に、我に戻ったように勢いよくヒカルが顔を上げる。ピカピカの、満面の笑顔。怖いものなど何もないような、能天気で…真っ直ぐな。 幸せそーなツラしてやがる、と三谷は思う。 …ひょっとして。自分もそんな表情をしているのだろうか、と。 「そん時にはオレが大将かもなー」 「ふざけんな、バーカ」 「あ、でも筒井さん冬の大会には出らんないって言ってたから部員もう一人集めないと」 「なんとかなんだろ。」 「なんとかったって三谷アテあんのか? お前オレくらいしか友達いねーじゃん」 「…ん、だとぉ!」 ぎゃぁぎゃぁと、下らないことで騒ぎながら…二人同じ場所で同じ未来を見ている。 そんなことも、いつも通りの当たり前の風景。 ずっと、そんな当たり前の日々が続いて行くのだと―――… その時まだ、三谷はそう信じていた。 end
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