「誰も知ることのない明日へ」





 誰もいない暗黒の廊下を、一匹の鼠が一散に駆け抜けてゆく。


―――…
 少年…というよりは、最早青年期の入り口に足を踏み入れたばかりのような年齢であるが、少年は深夜にふと、自分を呼ぶ声がしたような気がして目を覚ました。開け切らぬ目を擦ってベッドサイドの時計を見ると、夜光塗料で現れる時刻は深夜2時。
 気のせいか、夢だろう、と勝手に心の中で片づけて今一度夢幻の園に戻ろうとする彼を、ききぃ、という小さな鳴き声が引き留めた。

 幻聴ではない。あれは鼠の鳴く声だ。

 鼠くらいこの古い石造りの校舎には幾らでもいるので、無視しても良かったのだが、どうしても気になってベッドから身を起こすと、彼の足下に丸まる、夜目にも鮮やかな黄色の鼠。

「………スキャバーズ?!」

 鼠はきい、と鳴き、ついてこい、とでも促すようにベッドから飛び降りて走り出した。ドアのところでまた立ち止まってきい、と鳴き、薄く開いた扉の隙間から走り出てゆく。

 少年は、天蓋のかかる隣のベッドに視線を投げ、其処に寝ている黒髪の親友が起きあがってこない事を確認すると、暫く躊躇い、結局はガウン代わりに制服のローブを纏ってベッドから抜け出した。
―――ポケットには、しっかりと杖を握りしめて。

 見え隠れする小さな黒い影と微かな鳴き声を頼りに追いながら走ると、いつの間にか寮の屋上に出た。軋む扉を開くと、まだ暖かい季節とはいえ、外気が氷の刃となって薄着の少年の身を切る。
 少年は周囲を油断無く見回しながら、壁に背を付けてかつて家族の一員とも呼んだことのある小動物に対峙した。右手は、杖を握りしめたまま。

 この、鼠が怖いわけではない。…いや、この呼び方はおかしいだろう。彼は鼠などではないのだから。視線を真っ直ぐに向け、感覚を周囲まで広げながら。少年はゆっくりと口を開いた。

「何の用だい、スキャバーズ…いや、ピーター・ペディグリュー?」

 よくよく見ると、かそけき光の下でも見て取れるほど、鼠は実に悲惨な姿をしていた…満身創痍の鼠はキイキイと鳴き声を立て、半瞬後にはむくむくと黒い影になって膨れあがり…
 月光の下、黒い影となって一人の男が出現した。弱々しい微笑みを浮かべ、少年に微笑む。

「久しぶりだね、…ロン。」
「ああ。」
 懐かしげに、慕わしげに呼びかけられ、少年が困惑半分、迷惑半分の口調で返事をする。それもそのはず、この学校に入学したとき、いや、彼の兄のものだったころも勘定に入れるともっと長く、彼はこの鼠、彼を自分のペットとして…ただの鼠として、飼っていたことがあった。
 格好の悪い時代遅れの愛玩動物に文句を言いながらも、彼はそれなりにスキャバーズを大切にし、誰にも言えない不平があったら零したり、愚痴を告げたり…物言わぬ相棒として、慈しんできた。
 しかし、その後の事件で少年は鼠が可愛らしい彼の相棒などではなく、闇の魔王に魂を売り渡し、少年の親友の両親を死に至らしめた原因を作った人物だと知ることになる。
 何重もの裏切りは手酷く、決して許せる種類のものではない。
…そして、未だ持って闇の魔王の手先であるこの男が、少年に何の用だというのだろう。
 罠か、陰謀か…と散々迷ったのだが、結局の所、彼の親友である黒髪の少年ならともかく彼の方を闇の帝王が狙うとも思えず、かといって親友を起こせば大事になるので用心はしつつも独り、追いかけてきたのだ。
…勿論、そこにはかつての物言わぬ友人への幾ばくかの情もあったのかもしれない。

 彼のこの甘さはどうだろう。
 これだから、余人は彼を愛するのだが。

 男が、くすり、と笑った。
「…何の用だ、今更…と、言ったところかな。」
「分かっているんなら話は早いな。」
 元主人とペットは、非友好的な成分を多分に含んだ挨拶を交わす。

「用件なら一つだよ、まずはハリー・ポッターと仲直りおめでとう、といったところかな。」
「……なんで、キミがそんなことを…。」
 笑いを含んだ声で近況を報告され、少年の声が固さを含んで緊張する。確かに、少年は親友であるハリーと二、三日前まで今や珍しくもなくなった大喧嘩をかましていたのだが。付け加えるなら、仲直りはしたというものの、まだ少し、違和感がないでもない。…そのこともあって、少年は彼に声をかけずにここまで抜け出して来たのだが。
 そんなことまで監視されているのか、と背筋を悪寒が走る。
「…知っているよ。だって、あの喧嘩は私が仕組んだものなのだから。」
「!!!」
 男の独白に、少年が目を見張る。
 確かに、ハリーとの諍いの原因は、彼の方に身に覚えのない非難からだったから。
…だから、意地を張って潔白を主張し、大喧嘩にまで発展したのだが。
「…なん、だよ…ソレ。『名前を言ってはいけないあの人』の新手の作戦か、陰謀なのか?!」
 やはり一人で出てきたのは、拙かったか。思わず背筋を冷や汗がつたい、杖を握りしめる掌にもじとっと嫌な汗をかく。言い訳はきかない。かつてのペットとはいえ、闇の魔王の陣営に組するものと二人、深夜の屋上で密談をしているのだ。こんな所を今、誰かに見つかったら……少年は己の甘さを悔やんだ。
 しかし青ざめる彼を余所に、男は哀しげに首を振った。
「…いいや、『あの方』は全くご存じない…私の動向なんぞにも、今更興味も抱いていらっしゃらないだろう。」
 男がどこか投げやりに呟く。…と、き、っと強い視線を少年に向けた。
「悪いことはいわない。この喧嘩を原因にして、ハリーとはもう、二度と関わるな。」
「…外堀を埋めようっていうのか?そうはいかないよ。ハリーは僕達の希望だ。」
 彼を守り、闘う。…どんなに不利でもキングを取られるまでチェスは終わらない。たとえ疑われても、何があっても。
…男が首を激しく振った。
「ダメだ、ダメなんだ!!お願いだからハリーとは手を切れ、ロン!」
「お前に馴れ馴れしく呼ばれる筋合いはない!!」

 怒りにまかせて、叫ぶ。男が一瞬沈黙し、懇願するような口調になった。
「…ロン。君も、君の家族も、私に…とてもよくしてくれた。…特に、君は。お願いだよ、私は君を助けたいんだ。」
 君が小さい頃から、ずっと知っているよ。
 シリウスがハリーの名付け親として彼をずっと見守っているように、僕だって君を大事に思っているんだ、ロン。
 男が、どこか泣きたいような表情で必死に説得を試みる。
「だけど、だけど…もう限界なんだ!庇うのは!!先の戦いで、君は素敵な活躍を見せた、勇敢だった…あの小さな赤毛の男の子が、いつのまにこんなに成長したんだろう、と思うと嬉しかったよ。でも、それがいけなかった。」

 瞳を閉じれば、今でも時々目に浮かぶ優しい光景。
 暖かい暖炉の火。
 その前でくつろぐ、仲の良い赤毛の家族。
 頼りない言葉で、子供っぽい不平を、兄への愚痴を、友達とあったことを、いちいち報告してくれる、そばかすの少年。
 その心優しい少年は、今や彼の仕える『あの方』の仇敵の、何より信頼する右腕だ。
 誇らしくて。…辛い。

「……スキャバーズ?」
 思わずネズミだった頃の名前を呼ぶ。男がくしゃ、っと表情を崩した。
「『あの方』が、『あの方』が…!君に目を付けられたんだ、君はハリーと同じ憎むべき存在として数えられるようになってしまった!!」
 先日、彼の主は麾下の者に指令を出した。ハリー・ポッターの滅殺を。…その、傍らにいる赤毛の少年も。恐ろしい真実を吠えるように告げる。
…しかし、彼の少年は、気にも留めた風はない。
「それのどこがいけないんだ!!」
 むしろ、誇りたいくらいだ、ハリーの役に立っているんだから!少年が叫び返す。
「どこが?全てだよ!!ハリーと仲がいい所為で君はあの方に目を付けられる、あの方の攻撃目標にされる!純血の君は、ハリーにさえ関わらなければ安全な確立は高いんだ!!!」
 死ななくても、危ない目に遭わなくても済むのに。
 もう、居ても立っても居られなかった。
 赤毛の少年は、今や魔法界からも追われ、闇の陣営でも疎まれる男の、唯一の心の拠り所だった。
…たとえ、組する位置は違っていようとも。
……もう二度と、帰れない場所でも。

「お願いだよ、君には死んで欲しくない、助かって欲しいんだ、生きていて欲しいんだよ!!ハリーとさえ関わらなければ、…そうだ、君の好きな、あの可愛い女の子。名前はなんと言ったかな…そうそう、ハーマイオニーだ、彼女とも、幸せに暮らしていけるよ!!」
 だから。
 お願いだから。
 これ以上関わらずに、どこか遠くへ逃げて。お願いだから。
「彼女はほぼ、マグルの生まれだろう?彼女の所へでも逃げれば、君は無事だよ!今なら、いま、なら……」
「…スキャバーズ……お前……」
 ぼろぼろと。遂に涙を零して泣き始めた男に。少年はただ、呆然とする。
 そう。男は。少年にこのことを伝えるためだけに、闇の魔王の目を盗み、少年を逃がしに来たのだ。

 勝手な言い分だと思った。
 ずっと敵対し続けて。今更。
 しくしくと泣き続けるこの男は、自分が見たくないから、という自己満足だけで少年の意志とは関係なく彼を逃がそうとし、泣き落としにかかっているだけだ。
 よしんば彼の言うことを聞かなくても、だから言ったのに、といって泣くだけだろう。彼を殺せと言われたら。躊躇いつつも仕方がない、闇の帝王に言われたのだから、と刃を自分に向けるだろう。
 しかし。
 少年の心は。…全てを理解してなお。ずくん、と痛んだ。
 目の前に居る、卑小で情けない、男を前にして。
 同情だと言われても、馬鹿にするなと言い捨て、見捨てて背中を向けることが、どうしてもできなかった。
 足が動かなくて。少年は立ち尽くし、言葉を探した。


 恐ろしいほど重い、沈黙が世界を支配した。


「………ピーター。」
 生まれたときの名前を呼ばれ、男が弾かれたように顔を上げる。少年は俯いたまま言葉を紡ぐ。…表情は、見えない。
「ありがとう。」
 思っても見なかった言葉に、先ず男の瞳が揺れた。少年は、言下に彼の言葉を拒絶するものと、思いこんでいたから。
「…でも。」
 少年が顔を上げる…いや、もう既に少年とは言い難いくらい、彼は背が高い。男は自然見上げる形になり、少年の背後から指す月光に眩しげに目を細めた。
 いや。
 眩しかったのは
 月の光より。
「ロン…」
 少年は、以前に見覚えのある、限りなく優しい微笑みを浮かべ、男を見つめていた。
 男に向けての微笑みを。
「…僕のことを、そんなに心配してくれて、…驚いたし、戸惑った……でも。」
 嬉しかったよ。
 唇の動きが信じられず、男が夢か、と呟く。
「でも。……ゴメン。行けない。」
 少年が、ゆっくりと首を振った。
「その申し出が、もう…そうだね。あと5年早かったら。もしかしたら、僕の心も少しは動いたかもしれない。」
 あのころの僕は、馬鹿だったし。ほんの少し、自嘲と苦笑を過去の少年に向かって漏らす。
「だけど。…今は。もう。選んでしまったから。」
 "I-have-resolved-that."と一語一語切るようにゆっくりと動く唇を、呆けたように男は見つめる。
「僕は、ここにいる。」
 正面を見据えて。"I'm here."と告げる声は。決して大声でも、叫びでもなかったのに。火矢のように飛んで男の心臓を突き刺し、燃え広がった。


 しばしの沈黙の後。男は諦めたように苦笑した。その表情は、しかしいっそ明るい。
「男になって、しまったね…ロン。」
「…そうかな。」
「ああ、私の知っていた、あの赤毛のやんちゃなロニィ坊やが、こんなに素敵な青年に成長してくれて、…こんな事を言ってはいけないのだろうが。嬉しい。」
「ピーター…君も、こっちに帰ってこいよ。…厳しい、ことだとは思うけど…僕にできる限りのことはするから。」
 かつての物言わぬ鼠の雄弁さに、慣れない少年が居心地悪げに名前を呼ぶ。
 ついでのように、あっさり軽く提案される難しい選択。
 その道を選べば、裏切り者の男を庇う少年も大変な思いをするだろうに。
 それでも言えてしまうのが、彼がずっと見守ってきた少年なのだ。…こんな所だけは、いつまでも変わらない。
 男がゆっくりと、涙を落としながら。最後の別れを告げた。
「嬉しかった…嬉しかったよ。君が庇ってくれると言えば、本当に私を庇ってくれただろう。…でも行けない。私はハリーの両親を殺してしまった。」
 もしこう呼ぶことをまだ許されるのなら、彼等は私の親友だった。ただひたすら、男は泣く。
「…どうとでも。選ぶのは、君だよ。ピーター。」
 過去へ戻ることはできない。僕は僕ができることしかできないよ。少年も哀しく微笑む。男は泣き崩れた顔を上げた。
「取り返せる人生があればいいね。」
「ああ、そうだね。」
 君は間違っていない。男が呟く。
「お別れだ、ロン。……私は最後まで、君の無事を、祈っているよ。」
「………ああ、ピーター。こんなことを言うのは変だけど…元気で。」


 邂逅は終わり。
 再び出現した黄色い鼠が、ぼろぼろの外壁を伝って、何処かの闇へ消えていった。
 それを見送って。
 赤毛の少年もたてつきの悪い扉を引き開け、寮の中へと姿を消した。
 扉が、重々しい音を立てて、閉じられた。




 後に残るのは月光ばかり。
 世界が再び沈黙した。





END
















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□言い訳の後書き□

よかったら反転でお読みください。↓


実はとても書きたかった話です。ピーターとロン。 カップリング要素は全くないのですが。 3巻でのロンの態度がすっきりしなかったのでずっと気になっていました。 ハリーかピーターか、どっちか選べさぁさぁ!っていうかんじで。 まぁ、実際問題、重要な選択なんて案外時間が無くて勢いに押されてあんなモノなのでしょうが。 でも、ゆっくり何がよくて悪かったか、考えさせてあげたかったな、と(笑) あの別れ方は無いだろう、ねぇ、ロン。…と。 ピーターについても…実際、どうでしょう。命を見逃してくれたハリーは勿論、ロンにはもっと情があると思うんですが。 ただし、「いいやつ」ではなく書きました。…書き切れていませんが(^^; 嫌なモノは見たくないのです。そのためのヒロイズム。…よくある話です。 今回の話の場合、ピーターはロンのために彼を救いに来たのではなく、「自分自身のために」だけ。助けに来ました。(アップ後の日誌より転載)

 

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