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私の、バカバカバカバカ。
は寮のベッドに入った後、ひたすらそれだけを呟き続けていた。
いくらルーピンが生徒に優しく、気さくであったとしても、彼もやはり教師だ。
その、境界線を越えて調子に乗って、挙句逆鱗に触れてしまった。
会わせる顔がないとは、まさにこのことだ。
ただの生徒である自分が、教師であるルーピンに気安くなど、本当はしてはいけなかったのだ。
それを、浮かれてボールに誘うなど。
「ああ、もう、舌噛んで死んじゃいたい気分。」
泣き腫らした顔のまま、ベッドの上では呟く。
ふと差し込む明かりに窓を見上げると、鬱蒼とした木立の向こうに見える月は満月まで、あと少し。
「…先生。」
中空で煌々と輝く頼りなげな月の光に何故かルーピンを連想し、はまた泣けてきた。
手が届かない、永遠に。
この大地の上からは、輝く月には。
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ルーピンも、自室からぼんやりと月を眺めていた。
このくらいなら、まだ変身はしない。ちりちりと体を刺す痛みは在るが、そんなものはどうでも良かった。
むしろ、今夜が満月なら変身して思う存分暴れ回りたい気分だ。
後の事なんて考えずに。
これは、罰だ。
誰も己を罰してくれる人間などいないので、ルーピンはひたすら月を見上げて己の中の衝動と戦っていた。
―――お前なんかに、負けない。
身を刺す苦しさにも、負けはしない。己の中の狼に、この素晴らしい世界を渡したりしない。
例え何も持っていなくても、この世の中はリーマス・ルーピンのものだ。
日の暖かさも、風の匂いも、大地の広さも。見られはしなくても、月の光でさえ。
理性のない人狼のもの、なんかではない。
彼女も。
あの柔肌に牙を、白い顔に爪を立てて引き裂いてやりたい、黒髪が鮮血に染まるところを見たい、と囁く獣を殺してやりたい。
ルーピンが狼のように無意識にぎり、と歯ぎしりをする。
こいつさえ居なければ、自分は遠慮なくあのとき彼女の後を追いかけて、腕の中に閉じ込めて、涙を拭ってやって、それから。
―――それ、から?
突然、何の不自然なところもなく進んでいた思考に違和感を抱く。
それから、自分はどうするつもりだ。
を腕の中に引き寄せて?
涙を拭ってやりたい?
黒目がちな大きな瞳が、露を含んでじっとルーピンを見上げていた。
石造りの廊下で、さぞ冷えたであろうのにひたすら、自分を待っていた。
なのに、細い身体も薄い肩も、知っていて突き放した。
あの泣き声は、人狼の衝動より余程手酷くルーピンの心臓を責め苛んでいる。
月の女神ように清らかに、哀れな狼の前に現れた娘。
決して手が届かないとどこかで知っていて、我慢しきれずに引き返せないところまでのこのこやって来てしまった。
柔らかな月光は、ルーピンにだけは決して差すことはないと。知って、いたのに。
「…なんだ。」
ルーピンは自嘲気味に呟いた。
「私は、彼女に惚れていたんだ……。」
年端もいかないたった一人の生徒に。
大人になって久しく忘れていた、化石の様な凝り固まってしまった熱い部分が再び溶岩になって溶け始める。
彼は、死火山ではなく休火山に過ぎなかった。
どんなに否定しても、いつかは。切っ掛けさえ有れば、いつでも復活できる熱を、心のうちに秘めた。
もう一度眠るまでこの想いを大事にしよう、と。
ルーピンは微笑んで呟き、己の胸に手を当てた。
彼の内にあるものが獣だけではないことを思い出させてくれた、永遠に手の届かない少女のことを秘めたまま。
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結局、立て続けに相次いだ事件によって、ボールは中止されることになってしまった。
そうして、ルーピンも任期半ばにしてホグワーツを去ることになった。
理由は一つ。彼が人狼であったから。
スネイプが口を滑らせ、学校中に知れ渡った真実。
ここに至って、やっとにもあの晩彼が言ったことが理解できた。
そして、ルーピンが何故自分のことを知られないように生きているのかも。
人狼は、皆に忌まれる存在だ。
あの後、ルーピンは殆どに会おうとせず、会っても他人行儀な口調で話しかけてくるだけ。
必要最小限のことだけを。
彼の過去からまた一つ、切り捨てられようとしている自分に、は密かに絶望した。
あの夜、彼女はルーピンにこの上なく残酷なことを願ったのだ。
満月に狼に変わる人狼に、満ちた月を何より恐れる彼に、満月の夜の舞踏会に出ろとは、お目出度いにも程がある。
「避けられて当然よね…。」
何度目なのかとうに数えられなくなっている涙を流しながら、はぎゅっと『闇の魔術の防衛術』の教科書を抱きしめた。
これが、ルーピンとの間の唯一の記念品になってしまうのだろう。
彼の声や筆跡の手紙も、気まぐれに摘んだ花の一つさえ、は彼に貰ったものはない。
想い出だけを抱いてこのまま卒業するのは辛すぎた。
「……どうせ、嫌われているのなら。」
呟いて、は部屋の窓から再び満月の近くなった月を見上げる。
彼女にとって、今では月光は恨めしいだけのものに過ぎなかった。
あの美しい月が、彼と彼女の間のか細かった糸さえ切ってしまったのだから。
しかも、ルーピンを彼女から永遠に連れて行こうとしている。
「…知っているわ、貴女は本当はルーピン先生が好きなのよね?」
だから他の女性が、男性であっても、他の人間誰もが彼に近づかないようにしたんでしょう、と月を睨みながら言う。
「だけど、…お陰で先生は孤独だわ。先生くらい、誰かを愛したい人は居ないのに。
でも、でもね。お生憎様、ルーピン先生はとっても優しくて…強いんだから。
だから貴女だけじゃなく、誰にでも愛されているのよ。きっと、きっとそのうち……誰か。
誰か本当に、心から…先生が、愛したい人を見つけるわよ。」
冴え冴えとした冷たい輝きの下、は胸の中で最後に酷く苦い結論を付け足した。
それは私じゃないけれど、と。
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シリウス・ブラックはハリーを見守るためにホグワーツ近くに居ると言い、
一緒に来ないかと誘われたが、ルーピンは苦笑してその提案を辞退した。
ハリーの側にいてやりたいし、いつでも駆けつけられるようにしてやりたいとは思うが、
一度は裏切り者と信じ、そう扱ってきた友人の好意にはそうそう甘えることはできなかった。
無論、シリウスがそんなことを気にする男ではないとは知っていたが。
何度も引き留めるハリー達に別れを告げ、ダンブルドアに暇乞いをして、ルーピンはふらりとプラットフォームに向かった。
ホグワーツ城は、姿あらわしの圏内にないし、味気なく一瞬で消えるよりも、
来たときと同じ行程を経て帰りたい、と感傷的な人間の部分が告げた。
人にも、場所にもなにも関わりは持たないと思っていたのに。
自分はずっと、生きながら死んでいるような影の薄い男だった。
…命に色があるということも、ここへ戻ってきてハリー達に教えられるまで、気付いていなかった。
ましてや。
誰かに対して、強い執着にも似た憧れを抱くことなど。
過去であっても、未来でも永遠に、あり得ないと。
「…。」
朝靄の中、ハリー達との最後の別れを終えて、
臨時の列車でロンドンへ向かおうとするルーピンがプラットフォームで発見したのは、
顔見知りの少女のひっそり佇む姿だった。
「どうしてここに…。」
言いかけて、苦笑した。抜け出してきたに決まっている。
が先生に叱られる前の表情で、おずおずと口を開く。
「先生、私…どうしてもお会いしたくて、お話ししたくて…。」
ルーピンが苦笑した。
「そんなに怖がらなくてもいい。私はもう先生じゃないし、君にディテンションを与える権利もない。」
がびくっと顔を上げる。あの、月夜のことを思い出したのだろう。だから、ルーピンはゆっくりと続けた。
「…だから、君がここにいることを咎める理由は何もない。…忘れないで見送りに来てくれて、嬉しいよ。」
「そんな…私、私先生に、結局何もできなくて…ごめんなさい。」
ルーピンは黙って肩をすくめた。
彼女が彼の慰留運動を率先してやってくれていたのは知っている。彼にはそれで十分だった。
ゆっくりと、諭すようにに告げる。
「ここに来たことは後悔していないよ。懐かしい場所にまた来られたし、…親友達にも再会できた。」
ハリーに、ジェームズの意志に出会えた。シリウスとの間の誤解も解くことが出来た。
ダンブルドアにせめて居場所だけは言い残して行けと厳命され、苦笑しながらフクロウを送る約束をしてきた。
彼は再びホグワーツに繋がった。
もう、過去はないと言い捨てることは出来ない。
自分で望んだことだけれど。
ふと思い出して、彼はに詫びた。
「一緒に踊ってあげられなくてごめんね。」
は首を振った。ぽろぽろと大きな瞳から涙の粒がこぼれ落ちる。
真珠みたいだ、とルーピンは場違いな感想を抱いた。
「いいえ、いいえ…!!十分です、もう…お話しする事なんて、二度とできないだろうと思っていたから…
酷いことを言いました、私…ごめんなさい。」
「いいんだよ、知らなかったんだから。」
「いいえ、気付くべきでした!…先生が満月が近づくたび、食欲をなくしているのも、
お姿が見えなくなるのも、知っていたはずなのに。」
三年生でハリー・ポッターと同級のハーマイオニー・グレンジャーが一番最初にその事実に気付いた、という噂を聞いて、
彼女はまた思い切り鈍い自分を呪った。三年生でさえ見抜いた事実を、誰より側にいながら見破ることもできなかった。
あのとき、は完全に自分にルーピンを慕う資格はない、と思い知らされたのだ。
ひたすら俯く彼女を前にしてルーピンは暫く何か考えこみ、やがて小さく笑うと一歩彼女に近づいた。
「、じゃあ…お詫び代わりに一つ私のお願いを聞いて貰っていいだろうか?」
がぱっと顔を上げる。
「わ、私、私先生のためにできることなら何でもします!」
もう先生じゃないって、だから、と苦笑しながらルーピンが手を伸ばして彼女の腕を取る。
少し痩せたな、と狼の感覚が伝え、またしても身の内に済まない想いが沸き上がってきた。
荷物を足下に放り出し、をプラットフォームの真ん中まで引っ張り出す。
「おいで、踊ろう。」
「え…きゃあ!」
いきなりワルツのステップの中に引き込まれ、は一瞬目を回したが、ゆっくりしたルーピンのリードに、
少しずつ緊張を解いて体を預け始める。
「あ、あの、先生…。」
「一度、こうやって踊ってみたかったんだよ、誰かと。」
上機嫌でルーピンはステップを踏み続ける。
彼がいち、に、と音楽の代わりに拍子を取る耳に届く微かな声が、
どんなオーケストラの奏でる曲よりも上等のようにには思えた。
「先生、リードお上手ですね。」
「うーん、ボールなんて出たことないから、あんまり自信はないんだけどね。」
ルーピンの足下は軽やかに弾むようで、音も立てない。
狼が跳ねているみたいね、と考えては小さな微笑みを漏らした。
ルーピンが狼だろうが何だろうが構わない。
多分これから先もずっと、自分は彼のことが好きなんだろう、と想像したからだ。
最後、列車が発つまでのホームで深々とした静かなステップを踏む二人の影を見たものは、誰もいなかった。
物見高い太陽も、嫉妬深い月でさえも。
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END...?
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