|
++++++++++
すっかり夏の暑さが堪えるようになった。
ふう、と息を吐いて、バーナビーは読んでいた文庫本から顔を上げる。虎徹には強がっているが、老眼がまた進んだ気がして、眼鏡を外して目頭を押さえた。
「うおーい、バニー」
「なんですか、虎徹さん」
眼鏡をかけ直して、ロッキングチェアから立ち上がった。自慢の金髪が、すっかりシルバーに変わってしまってもう随分経つ。
「おっ、来たね」
居間に出て行くと、ソファに座った虎徹が嬉しそうに手を振った。
「どうしました」
「今な、スカイハイがテレビに映ったんだよ、ほら」
言いながら虎徹が指差すテレビ画面を見ると、冒険家のキース・グッドマンが史上最高齢にして世界最高峰の山に登頂成功、というニュースが流れていた。バーナビーは呆れたように眼鏡を押し上げる。
「化け物ですか、あの人」
「しかし、スカイハイはすげえな。ヒーローから冒険家に華麗なる転身、もういい加減あいつもジジイなのにさ、まだ山とか登ってんだぜ。信じらんね」
こっちにも出てるよ、見てみろ、と手元の電子新聞の記事の文字をフリップで拡大しつつ、虎徹は感心したように唸る。バーナビーは冷たく言い放った。
「そりゃあ、虎徹さんとは鍛え方が違うんでしょうよ」
「うお、元KOHマジ容赦ねえ」
ぐさっと来たよ俺、と言いながら虎徹は胸を押さえる。
「ブルーローズは歌手、ロックバイソンさんはレストランチェーンのオーナー、ファイアーエンブレムさんは元々がヘリオスエナジーのオーナーでしたし、ドラゴンキッドは格闘技の流派を立ち上げましたよね、折紙先輩は……」
「あいつは思い切り良くスカイハイんとこに行ったよな」
殆どマネージャーのように、影に日向にキースを支えているのが折紙サイクロンらしいといえばらしかった。エージェントとしてとても優秀だったらしいのは、引っ込み思案だった彼を思い出すと不思議な気がする。
「スカイハイさんの冒険記とかブログみたいなの、あれ全部折紙先輩が書いているらしいですよ」
「えっ、あのベストセラーとかになってるやつ?」
「ブログのまとめ本なんかも好評らしいですね。スカイハイさんが空撮で撮ってる写真なんかも写真集にするとかで、印税生活で左うちわなんじゃないですか? ていうより、知らなかったんですか、虎徹さん」
「いや、知らんかった。楓の旦那がえらいことファンだってのは聞いてたが」
分からないもんだな、と虎徹が唸る。
「というか、スカイハイさんが引退する時に、二人で日本に行ったんだそうですよ。それで、世界一周したいって話になって、なし崩しに二人で旅に出たんだそうです」
それがそのまま次の仕事になったんだから、案外抜け目ないですよね、とバーナビーは続けた。
「駆け落ちか」
「それは僕たちでしょうよ」
ため息をつき、バーナビーはチャンネルを回す。
「そろそろ、HERO TVの時間じゃありませんか?」
「俺さー、今のキング・オブ・ヒーローきらーい。バニーみてえな品がない」
「はいはい、お褒めに預かり光栄ですよ、ワイルドタイガー」
ぶうぶうと子供のような文句を言う虎徹に、バーナビーが少し笑う。これが終わったら寝ましょうね、と言うと、割合素直に頷いた。
「なあ、ビール飲みてえ。冷たい奴」
「駄目ですよ、こないだ医者に止められたでしょう」
というか、虎徹の食欲が目に見えて落ちている。西瓜の汁をちょっと飲むか、桃を口にするくらいだ。元々痩せ形だった虎徹が、この頃はぞっとする程老け込んで見える事がある。
その度に、バーナビーは天に向かって祈る羽目になるのだが。
「えー、もう老い先短いじいさんなんだからさー、好きなもんくらい飲み喰いさせてくれよー」
なあなあ、と虎徹が畳み掛けて来る。
バーナビーは、苦く笑う事しか出来なかった。
■ □ ■ □
寝苦しい季節だが、冷房は芯から身体に堪えるのでつけない。虎徹が体調を崩してしまうからだ。
薄手の綿毛布を上掛けにして、年を取るとこういうもんが懐かしい、と主張する虎徹の為に導入した畳の和室で、布団を並べて横になる。
すっかり、眠りも浅くなった。朝は、早朝に目が覚める。
二人で手を繋いで、早朝の散歩もよくしたものだ。この頃は、体力が落ちたのか、虎徹が億劫がるので、殆ど出かけた試しはないが。
窓を開けていても入って来ない風に、息が詰まりそうな気分になっていると、向こうの布団から聞こえていた寝息がふと、止んだ。
はっとしてバーナビーは起き上がる。殆ど恐慌に近い思いで虎徹に近づき、その呼吸を確かめた。
心臓はまだ、動いている。
でも、時々こうやって、呼吸に間があくときが出て来た。
泣きそうになりながら、バーナビーはこてつさん、と小さく囁いた。その途端に、虎徹の琥珀色の瞳がぱちりと開いて、バーナビーは驚いて少し後じさる。
「起きてたんですか」
「ん? んー、まあな、目が覚めちまった」
言うと、ふわあ、と大きな欠伸をしつつ、虎徹は真っ白になった頭をがりがりと掻きながら起き上がった。髭も既に白いものが殆どを占めている。それでも、若い頃と変わらない、闇の中でも金色に光る琥珀色の不思議な瞳が、じっとバーナビーを見つめる。
「なんで、そんな泣きそうなの、バニーちゃん」
バニー、ちゃんって。もう還暦過ぎたジジイがバニーだなんて、おかしいでしょう、絶対。
いつもなら出て来る軽口が、咄嗟に引き出せなかったのは、虎徹の胸の中に顔を埋めてしまったからだった。
「おいおい、どうしたよ兎ちゃん。淋しいのか?」
久しぶりだよなァ、と虎徹がくつくつ喉を鳴らす。夜の事など、もう随分昔に卒業してしまったのだから、当たり前だが。
絞り出すように、バーナビーが言葉を吐き出した。不安なんです、という塊と一緒に。
「駄目ですよ、虎徹さんは、そんなに早く向こうに逝かないで下さい」
「バニー?」
「僕は、……トモエサンと約束したんです」
あなたと一緒に暮らし始めた時に、と言われて、虎徹は首を傾げた。確かに、亡妻の墓に連れて行った事はある。むしろ、よくできたパートナーは、墓参りも積極的に一緒に行ってくれていた口なのだが。
「約束?」
「虎徹さんをお預かりして、ちゃんと大切にして、必ずお帰ししますから、だからそれまでは僕が責任持ちますって」
ぽかんと虎徹が口を開けた。
母も兄も随分前に逝き、楓も嫁がせ、孫どころか曾孫がいる勢いの今の虎徹だ。
バーナビーはその流れて行った生活の中で虎徹のパートナーとしていつしか受け入れられ、今ではもう落ち着いて、穏やかに生きていると思っていた、それなのに。
(お前、まだ心の中に、そんな激しさを残してるのか)
絶句する虎徹に向い、バーナビーが、泣きそうな口調で終わりの時間が近づいているのが怖いんです、と言う。
「虎徹さん、あっちに行ったら、僕の事なんか忘れるでしょ。大好きなトモエサンも、レジェンドも居るし」
「おいおい、バニー」
「だから、まだ逝かせてあげません。……向こうでトモエサンに、浮気者って、罵られて下さい、だって、だって」
ぐすり、とバーナビーは鼻を啜り上げる。年を取ると、涙脆くなっていけない。
「どうせ、僕の事、迎えになんか来てくれないでしょう、虎徹さんは」
「バーナビー……」
虎徹ははあ、とため息をついて、半生どころか、かなりな年数を一緒に過ごす事になった男の肩を抱いた。
「俺はな、ずるいじいさんだから。お前より先に逝くよ?」
「知ってます」
「お前に先立たれたら、俺絶対生きられる気がしないし」
俺は一回見送ってるし、二回はごめんだ、と虎徹が笑った。
「……虎徹さん」
「悪い、俺の我が侭だ。お前より一日でも、一秒でも先に逝きてぇんだ。無理だ、お前のいない世界なんて」
「こてつ、さん」
だからな、と虎徹はバーナビーの、年を取っても青さを失わない透き通った瞳を覗き込みながら囁いた。
「忘れず迎えに行くまで、せいぜい愉快に楽しく生きてくれや」
ぎゅ、とバーナビーが虎徹の服の胸ぐらを掴んだ。
「本当に、卑怯なじじいですよ、あなたは」
「おうよ、一回りも上だからな。こんなジジイに惚れたお前が悪い、諦めろ」
「待ちますからね、僕以外を先に迎えに行ったら、とっちめてやりますから」
分かってますね、虎徹さん、と年下の伴侶に詰め寄られ、虎徹はまあ前向きに頑張るわ、と言いながら皺の深く刻み込まれた口元で若い頃と同じような笑顔で笑ってみせた。
最期に自分を腕に抱いていてくれるのがこの男なら、何も怖いと思わずに人生の終わりを迎えられると、心からそう思って。
(でもバニー、葬式でお姫様抱っこだけは嫌だからな、俺は)
遺言がそれだったら、この男はどんな顔をするかな、などと想像しながら、虎徹はゆっくりと瞳を閉じた。
(お前百まで、儂ゃ九十九まで、ってな。……俺の最期の我が侭だ)
閉ざされた瞳が二度と開かなくなるまでに、まだ少しの時間があることを祈りながら。
++++++++++
+++END.
|