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天気予報は大雨注意報。シュテルンビルトの中でも、ジャスティスタワーのあるゴールドステージには屋根がないので天水がそのまま降り注いで来る。
その日、トレーニングから珍しく夕方に解放されたスカイハイ……キースは、通用口で止む気配もない雨の空を見上げていた。
後ろから出て来た人影が、佇むキースに気付き、暫く躊躇した後で声をかける。
「あ、あの、スカイハイさん」
「おや、折紙君」
キースはにっこり微笑んで、通用口の前に立ったままだった事に気付いて少し避けた。折紙サイクロン……イワンが帰るのに邪魔になっているのだろうなと思ったのだ。しかし、イワンは考え込んだままその場を動かない。不思議に思ったキースが声をかけるより先に、イワンが赤くなりながら顔を上げた。
「あっ、あの、スカイハイさん!」
二回目だ。
「うん、なんだろう、折紙君」
「よかったら、その、傘、一緒に、どうせ、その」
単語の羅列が続いたが、さしも鈍さに定評のあるキースでも、同時に傘を開いて差し出されたら理解せざるを得ない。
「ありがとう」
にっこりと微笑み、キースはイワンの差し出した傘の下に潜り込んだ……が、身長差のあるイワンとキースだ、キースの頭は傘の中に当たってしまう。キースは暫し考えた後、イワンの手から傘を受け取り、彼に向かって差し掛けた。
「あっ」
「駄目だよ、君が持っていたら、私の方に多く傘をくれるだろう? 半分こだ、そして半分こだよ」
さあ行こう、と促されて、イワンは赤くなった。長身のキースに傘を差し掛けるのは確かに辛かったが、持って欲しいと言い出す事も出来なかったからだ。ありがとうございますと口の中だけで呟いて、キースの近くに寄って歩き出した。
黙ったまま、そう大きくもない紫色の傘の中、イワンは足下を見て、キースの白いスニーカーが水たまりの泥跳ねで汚れて行くのに眉を顰めた。キースは、イワンに水はけのいい所を歩かせ、自身は頓着していないようだ。
水面に落ちる雨粒はもう随分と少なくなった。ここからは傘はキースだけに渡し、自分は走って帰ろうか、そう考えて顔を上げた時。
「イワン君、見たまえ、虹だ!」
頭上からキースのはしゃいだ声が振って来た。キースが足を止めたので、釣られてイワンも頭を上げる。すると、確かに頭上には大きな虹が出ていた。
「うわあ……!!」
「綺麗だねえ」
うっとりしたようにキースは言い、イワンの方を向き直った。
「イワン君、虹の彼方に幸せの国がある、っていう歌を知ってる?」
「え、ええ、古いミュージカル映画ですよね」
「うん、恥ずかしながら私はあれが大好きでね、NEXTに目覚めてすぐ、探しに行った事があるんだ」
「……」
「そんな顔をしないでくれ、あの頃はまだ、純真だったんだ」
それだけで話を切り、キースはイワン君はどこまで行くのかな、等と言って歩き出した。イワンは先に進もうとする男に追いついて、つい言葉を続けていた。
「幸せの国は、あったんですか」
「うん、……」
キースは少し微笑んで、続けた。
「今も、ここに」
言い、傘を持っていない方の手でスカイハイの時のように胸元に触れる。その男の、イワンが歩いていたのと反対の肩が随分と濡れていた。イワンの傘は小さ過ぎたらしい。どうしよう、謝ろう、そう見上げた空色の瞳には、どこまでも透明な光が踊っていた。
それを見た瞬間。イワンは完全にこの男を好きになったと、そう思った。
■ □ ■ □
まだ値札のタグが着いたままのまっさらな傘を前に、イワンは畳に突っ伏して唸っていた。
「買っちゃったよ……」
黒い傘は、広げると内部に綺麗な青空が描かれている。キースの言葉のようなそれに惹かれ、大きさも自分の元々の紫の傘より一回り大きいそれならキースも楽々入るだろうと思って。
丁度雨の多い時期で、あの後イワンはキースと何度か帰りが一緒になる機会があったが、必ずキースは傘を持っておらず、イワンが声をかけると嬉しそうにイワンと同じ傘で帰る。
その度にキースの方が濡れるのを申し訳なく感じていたイワンとしては、目についた傘を衝動買いしてしまったのはまあ、恋する青年としては当然の範囲であった。
「でもでもでもでも、こんな相合い傘狙いばればれの傘、しかもスカイハイ殿限定みたいな、恥ずかしいでござる……」
畳に突っ伏したまま、イワンは恥ずかしさで器用に左右にごろごろ転げた。仰向けになった所でぴたっと止まり、大の字になって寝転がる。
ちらっと、隣りの傘に視線を投げた。どうしても頬が緩む。いつの間にか、呼び方もヒーロー名ではなく、本名で呼び合うくらいには近づいて来ている。と、自惚れではなく思う。
「キースさん、……喜ぶかなあ」
雨模様の中の鮮やかな青空。キースには青空が絶対似合う。傘を広げたときのキースの反応を想像して、イワンは傘を抱いて想像(妄想と言ってはいけない)の世界でもだもだと転がり続けたのだった。
■ □ ■ □
天気は雨。ロッカーの中に新品の傘を隠し、誰もいなくなってからトレーニングルームに移動しようと思ったイワンは、たまたま廊下で立ち話する虎徹とアントニオの側を通りがかった。小さく会釈して通り過ぎようとしたイワンの耳に、虎徹のスカイハイ、という言葉が飛び込んで来る。
キースさんの話だ、そう思うとイワンは、悪いとは思いつつ耳を澄ませた。
「しかし、こう雨が続くと鬱陶しいよなあ。傘だって邪魔だしよ」
「よく言うぜ、お前、傘なんて持って来た事ねえだろ。バーナビーに送って貰ってるじゃねえか」
にしし、と笑いつつ虎徹が話題をすり替える。
「あ、バレたか。そういや、スカイハイも本当に傘持たねえ男だよな」
「あー、それは……だって、しゃあねえだろ」
アントニオが苦笑する。
「あいつ、誰もいなくなってから、能力使って風で水を避けて帰ってんだよ」
ぽむ、と虎徹が手を打つ。
「あ、なーる。いいねえ汎用性があって」
「全くだ」
そんな親友同士の会話を聞いていたイワンは、すうっと顔から血の気が引くのを感じた。
キースは、傘など要らなかったのだ。
毎回忘れて来るのを、自分の為に持って来ないのではないかと、心の何処かで淡い期待を抱いていた。
(新しい傘だって? ……ばかみたい、だ)
口唇を噛み締めながら、イワンは嫌な事を忘れるようにトレーニングに打ち込んだ。キースの側には、絶対に近寄らないようにしながら。
■ □ ■ □
トレーニングルームにシャワーを浴びて戻って来ると、着替え終わったキースがイワンを見つけてぱっと笑顔になって近寄って来た。
「イワン君」
「あ、キースさん」
「どうした? まだ帰らないのかい?」
「いえ、そろそろ……」
ロッカーから着替えを出すと、中に黒い大きな傘が見えて、イワンは顔を歪めた。黙って傘を中に入れたままロッカーを閉め、着替え始める。
「良かった、実は今日も傘を忘れてしまって」
「あっ、それが」
キースの話が傘に流れたので、イワンは慌てて取り繕おうとした。ベルトを締めながら、首を振る。
「きょう、今日はっ、僕も忘れて来ちゃったんです、だから」
「なんだ、そうか」
キースは僅かに落胆したようだったが、少し考えて、じゃあ君も濡れてしまうね、と顔を上げた。
「じゃあ仕方が無い、今日は特別、だ」
「へ?」
「ついておいで」
言われて、イワンは荷物を持ったまま、キースの後に着いて行く。キースは非常階段から外に出て、踊り場でイワンの腕を取った。
ふわり、とキースとイワンの周辺で風が舞い上がる。
「しっかり捕まって」
「あ、あの」
「大丈夫、私の大事な人を、風は傷付けはしないから」
ふんわりとそよ風のような微笑みを浮かべるキースに、イワンは心を決めて側に寄り添った。ひゅう、と二人の回りで風が渦巻く。そのまま、キースは非常階段の踊り場から空へと舞い上がった。
ごうごうと風を切る音がするが、冷たさや痛みは全く感じない。そして。
「風が、雨を避けてる……」
「すまないね、人目が無い所まで一気に飛ぶから」
少し速度を上げるよ、と言って、キースは雲の中にイワンを誘った。回りに何も見えない白い雲の中で、イワンの視界には隣りで青い燐光を放つ男だけが見える。
そのキースが唐突にごめんねイワン君、と言ったので、イワンは目を瞬かせた。
「私はね、ずるいことをしたんだよ」
「?」
「イワン君と帰る時の、君の楽しそうな様子がとても嬉しくて……。つい、傘を忘れて来るふりをしていた」
私はね、本当はこうやって雨を避けられる、風が守ってくれるから、とキースは半分風達に向かって囁くように言う。
「キース、さん」
「でもね、……君と帰って、気付いてしまった。一人で飛んで帰るのはつまらない。君と一緒に濡れた地面を歩いている方が楽しい。……本当は、晴れの日も」
掠れるような声で言ったあと、キースは真剣な瞳でイワンの手を握った。
「ねえイワン君、……私がもし傘を買ったら、これからも一緒に帰ってくれるのかな?」
キースのその言葉を受けて、イワンは俯き、ぼそぼそと小さな声で言葉を紡いだ。
「傘、……あるんです」
「え?」
「キースさんと、一緒に入れる大きな傘を、持って来たんです。……でも、恥ずかしくて」
「恥ずかしい?」
「キースさんが、風で雨を避けられるって、聞いた……から」
俯いた顔が耳まで真っ赤だ。もう顔をあげてキースをまともに見る事が出来ない。恥ずかしくて。どくどくという心臓の鼓動が自分にも聞こえて、イワンはぎゅっと目を瞑った。
「そうか、……そうか!」
キースの声が聞こえ、イワンは自分を包む回りの風が変化したのを感じた。
「わ、わあっ!?」
「今日は特別だ!!」
すうっと浮き上がる上昇感に、イワンが焦った声を上げる。キースは、雨雲を突き抜けて上まで出てしまったらしかった。寒さも息苦しさも感じないのは、自分達を包む風の球体が大きくなっているからだ。無意識に気圧の変化まで調節しているとしたら、キースの能力は一体どれだけだというのだろう。
雲海を下に見下ろす青空の下、キースはにっこりと微笑みながらイワンの手を取った。
「イワン君」
「はい」
「見たまえ、ほら……虹だよ」
「!」
広がる青空、雲の向こうに見える虹。確かに、幸せな国があの彼方にはある気がする。そんな幻想的な光景にため息をついていると、キースがでもね、と耳元で囁いた。
「一人で見ても、つまらないんだ」
「キース、さん」
「イワン君と、見たいと思うようになってしまったんだ。……これは、どうしてかな」
「それは……」
イワンは自分の中に答えを直ぐに見つけたが、言ってしまうのは勿体ない気がして、キースにただ微笑んでみせた。
拘っていた自分が馬鹿みたいだ。こんな雄大な光景を見慣れているキースは、それでもその大きさに心を奪われず、多分本心から、イワンと地上を歩きたいと言っている。
風の王者がそう言うのなら、きっとそれは本当の事、なのだ。イワンが引け目を感じる事は無い。
「ゆっくり、探しませんか。……二人で」
「イワン君」
「僕の傘だって、この光景に負けません。……きっとキースさん、喜んでくれると思います」
だから、と言葉を続ける。
「これからも、一緒に帰りましょう、キースさん」
「ああ、……宜しく頼むよ、宜しく!!」
はしゃいだように喜ぶキースにぎゅっと抱きしめられながら、イワンは自分の恋が一人ではなく二人で始まったものだったらいいな、と。そればかり考えていた。
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+++END
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