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(唇は最大限にとがりました。……たしかに不満の意を示しているにちがいありませんでした。)
そんな小説の一節が思い浮かんだ。キースの所に嫁いで来たばかりの初々しい新妻は、ソファーの上で体育座りでこちらに背を向けている。
「今夜こそ、僕が晩ご飯作ろうと思ってたのに……」
「いや、イワン君、すまなかった、あのね?」
「キースさんなんか、ヘリペリデスファイナンスにお婿に行っちゃえばいいんだっ……!!」
イワンが膨れているのには理由がある。ここの所、夕食を毎日作りに来る人物が居る所為だ。そして、夕食を共にした後(一応、作るだけ作ると帰るとはいうのだが、そういう訳にもいかないと実直なキースが引き止めるのだ。最初から三人分作ってて白々しい、とは横で見ているイワンの感想である)、食後のお茶も飲んで帰って行く。
最初の一晩や二晩だけならまだ微笑ましかったのだが。そろそろ半月になろうとするのでは、さしものイワンの笑顔も引きつり気味になるというものだ。
キースが取りなしの言葉を口にする。
「まあ、そう……。ヘリペリデスファイナンスの代表氏は、忙しい時間を割いて、私に君の好物を教えようとしてくれているのだから」
「キースさんが花嫁修業なんてする必要ないじゃないですか、僕がいるんだから!」
キースさんのお嫁さんは僕の筈なのに、とまた体育座りの背中が傾ぐ。
そう。姑よろしく毎晩押し掛けて来るヘリペリデスファイナンスのCEOの所為で、キースとの二人きりの甘い時間がない、とイワンはお冠なのである。
これが、仕事が忙しいとか、ポセイドンラインの代表が、とか、キースの身内が、だったらまだイワンは耐えただろう。ところが、相手はイワンの保護者代わりの人間だ。イワンがぶすくれるのも仕方がないといえば仕方がない。
「僕のためとか言って、絶対あれ、キースさんと遊んでるのが楽しいんだ……」
「そうでもないよ、やっぱり君の事を一番に気にかけていらっしゃるのだから」
嘘ばっかりだ。
イワンは心の中だけで呟いた。今日だって、食事中にタイタンの株価の変動をどう思うかだの、今度出る新しい車の話だので盛り上がっていた癖に。
そういえば、シュテルンビルトの七大企業の中でも、ヘリペリデスファイナンスのCEOだけ突出して若い。キースとは、若きセレブ同士、話題が合うのかもしれない。もしかしたら。キースにしても、自分の正体を知っているという意味では気安いのかもしれないし。
まあ、普段なら二人で盛り上がってくれても一向に構わないのだ。構わないのだが。
「でも、新婚なんですよ、……新婚なのに」
イワンの不満は今やそこに一極集中していた。
娶ったばかりの新妻に、何故か旦那様は一向に手を触れて来る気配がない。何故ってそんなもの、生真面目なキースは毎日乱入して来る姑の視線を気にしているのだ。イワン自身も、そこまで図太い質ではない。
おろおろとしているキースは、嫁と姑の間に挟まれたマスオさんの如しだったが、イワンとしては暫く機嫌を取る気分にはなれない。その分、イワンとしては代表よりもキースの方に余分に甘えているという事にもなるのだが。まさか上司相手に文句も言えなかろう。
ならば、イワンの全てを、このネガティブさも、想定外だろう気の強さも強情さも、いじけた性格も。全部まとめて受け止めてみせろ! という気分である。
とはいえ、易々と受け止められそうなのも腹立たしいが。
「だけど、お預けができちゃうっていうのもむかつく」
キースの自制心が人並みはずれて強いのは知っている。でなければ、キングを続けてなど来れなかっただろう。しかし、イワンに対してこう、情動が理性の枷を外す瞬間、などというものはないのか。とっくりと問い詰めたい。
イワンはため息をつきながら携帯電話を開いて、結婚式以降炎上というか盛況なブログを覗き込む。『折紙たん毎日ヤッてんだろ』『スカイハイはあっちも底なしだったりする?』などという下世話な質問は、一時に比べたら随分と減った。どうやら鉄の制裁が入ったらしいが、その辺はイワンは感知しない。
代わりに、一番多い書き込みは、『折紙サイクロン、幸せ?』だった。ふふふ、と唇に不穏な微笑みが浮かぶ。
「勿論でござるよ、ただいま拙者、リア充大爆発中でござる。ちょうちょうちょうちょうしあわせ、で、ご、ざ、る、よ、っと」
自棄の様に惚気一発な返信の文章を書いていたら、イワン君、と再び名前を呼ばれたので、今度は返事をしなかった。
キースの愛犬が、心配そうにこちらを見ている。
はあ、と息をはく気配がした。呆れて去って行かれるのか、意地を張り過ぎたか、とネガティブが頭を出して一瞬ひやりとする。……が。
そんなイワンの背中に、暫く考え込んだ後で自分も同じようにソファに乗り上げたキースが、とん、と凭れ掛かって来る。背中同士が触れ合う温かみと、イワンを押しつぶさない程度にかけられた重みにイワンがさっと頬を桃色に染めた。
「き、キースさ、ん」
「ねえ、イワン君。……こうやって、二人で暮らせて、とても幸せだね、とても」
私はね、今ほんの些細な事に幸せを見出す事に人生を費やしているんだよ、とキースは笑い含みで言った。
「これまで私は、自分自身の幸せが何かなんて、あんまり深く考えた事がなかったんだがね、イワン君」
「……なんでござろう」
「その尖った口元を引っ張ってやるのは、私だけに与えられている特権だと思わないかい?」
ぐいぐいと背中を押され、イワンは携帯電話を打つのを諦めて、電話をソファの前のローテーブルに放り出した。
「じゃあ、拙者だってキースさんの背中に寄りかかる権利を行使したいでござる〜!!」
ぐりぐりと背中を押し返してやると、痛いよ折紙君、と全然痛そうではない声が応える。
「大体、狡いでござるよ! 拙者だってキース殿といちゃいちゃしたいでござる!」
「……なんか、結婚前と逆だね?」
「仕方がないでござる、拙者の旦那様が魅力的過ぎるのがぜーんぶ悪いんでござる!!」
やけっぱちのように叫んで更にぐいぐいと押すと、背中越しにキースが笑いを堪えている気配が伝わって来たので、イワンはむっとして全体重を掛けてやった。
「うわっ、イワン君、重い」
「拙者一人が重い訳ないでござろう、結婚式の時は更にスーツと白無垢まで着ていたのに、軽々と抱き上げて……」
「それはね、ズルをしてたのさ。こうやって……」
ひょおっ、と風が吹き過ぎた。瞬きする間もなく、イワンの身体が浮き上がる。手足に風がまとわりつく感覚がある。……キースの能力だ。
「うわあああっ!!」
天井近くまで持ち上げられ、イワンは手足をジタバタさせた。徐々に下ろされて来て、もうすぐソファ、というところで、途中でふっと風達が手を離す。
「わああっ……!?」
ぽすん、と落下した先は、キースの腕の中だった。にやにやと笑っている金髪の男は、意外に人が悪い。赤くなって頬を膨らませると、宣言通りに唇を摘まれた。
「いひゃいひぇひょしゃる、ひーしゅひゃん」
「可愛いね、そして、アヒルみたいだ」
「あひっ……!!」
ひどい! と厚い胸板を叩いてやると、くすくす笑いながら腕の中に閉じ込められた。
「さて! イワン君、君の義理の父上には、暫くお引き取りを願ったので、明日から二人きりだよ、そして二人きりだ!」
「えっ!? いつ!?」
驚いてがばっと顔をあげると、キースはにっこりと喰えない笑みを浮かべた。
「今夜の食卓で。ポセイドンラインの株価について二、三の有益な情報を提供させて頂いたからね、……というか」
キースは声を顰め、もっと効果があったのはね、とイワンの耳元に囁いた。
「あんまり邪魔すると、孫の顔が拝めませんよ、って言っておいた」
「……キースさん…………」
がっくりとイワンは項垂れた。子供が産まれる訳がなかろう。大体、そんな話聞き入れる方もどうかしている。いい年した大の男二人が本当にどうしようもない。
「……なんて、ね。冗談だよ」
もう一度、胸の中に抱きしめられた。今更ながら、心臓がドキドキして来る。今夜から二人きり、ということは、それはつまり、キースもそうなりたかった、ということだと思っていいのだろうか。
「冗談にしても、質が悪いです」
「ごめん、でも気合いだけはその位のつもりだという事で」
「え?」
いま、なんて言いましたか、キースさん。
イワンのその言葉は、金髪の男の唇の中に封じ込まれるように消えてしまって。
そして、部屋にひと時の沈黙が満ちた。
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+++END
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