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彼が司法局に呼ばれるなど、もの凄く珍しいことだった。
品行方正な優等生ヒーローなスカイハイのこと、賠償金の支払い枠など余ってしまっているという噂だったし。……だから、気になって。
どうしても気になって、ここまで来てしまったのだけれど。
イワンは、混乱する意識を持て余して天井を見上げた。大きな本棚の角が、視界に入る。
(これ、ぜんぶ、じけんのきろく)
今までに、イワン達が、自分たちが、その前のヒーロー達が解決してきた、全ての事件の記録。
もちろん、最近は紙媒体は殆ど使われなくなって久しいから、むしろイワンがヒーローになってからこちらのものは此所にはないかもしれない。
けれど。
「あ、……あ」
甘い声が喉から漏れる。一体どうしてこうなってしまったのか。
「……ほら、イワン君、力を抜いて」
熱っぽい声が掠れるように促してくる。ふるふると首を振って拒絶の意を表しても、気にもしてくれない。
「こ、んなとこで、だめで、す」
誰が来るかも分からないのに。そう言いたくて口唇を震わせると、相手はふっと笑って益々深くイワンを犯す。
「でも、誰も来ないよ?」
来ても、見せつけてやれば良い。そんな囁きを、信じられない気持ちで聞く。
「……う、あ」
身体の中を深く浸食されながら、イワンはここに来ることになった経緯を思い返していた。
■ □ ■ □
結局、キース……スカイハイが司法局に呼ばれたのは、過去に彼が手がけた事件の犯人について聞きたいというだけのことだったのだそうだ。
ただ、確かにものすごく珍しいことだったし、気になってしまって。イワンはトレーニングもそこそこに切り上げて、司法局にやって来た。
ユーリ・ペトロフという、イワンもヒーローに成り立ての時に何回かお世話になった事のある管理官にキースのことを尋ねると、そう言われた。何か彼に用事かね、と尋ねられたので、曖昧に頷く。
ユーリは、イワンと同じスラブ系の彫りの深い顔立ちをしている。けれども、イワンはこの腹の底までも見通そうとしてくるような男のことが、昔から今ひとつ苦手であった。
イワンよりも更に色を抜いたような、青白い肌。痩せぎすの体つき。前に出ると、萎縮してしまう。イワンは、擬態化のNEXTを持つ所為か、相手の本質に敏感だ。
(この、人は、怖い人、だ)
初対面の時のその印象がどうしても拭えない。黙り込んだイワンにユーリはため息をつき、第二資料室、と言い放った。イワンが驚いて顔を上げる。
「第二資料室?」
「書庫だ。過去の事件記録の。スカイハイはそこにいる。行っても良いが、あまりいい結果にはならないと思うがね」
忠告だ、とユーリは呟き、もう行け、というようにひらひらと手を振った。もう話はお仕舞いらしい。
「……ありがとう、ございます」
どういう意味だろう。思いながら、イワンはユーリの執務室を退室し、書庫とやらを探して局内を彷徨った。
そのイワンの後ろ姿を見送り、ユーリは手元の資料に「スカイハイ」のデータを呼び出す。
彼がらみの凶悪事件などが起こると、スカイハイ……キース・グッドマンは司法局の、過去の記録の詰まったあの部屋に籠もることが前にもあった。
彼がそこで一体何をしているのかまではユーリは知らないが、何れろくな精神状態ではないだろうと容易に推測が付く。
同じヒーローの仲間内には見せられないような。
(そこへわざわざ行くなど、獅子の顎に飛び込むようなものだが)
そんなことがユーリの脳裏には浮かんだが、自らの身を持って危険へ飛び込む者を止める趣味も生憎持ち合わせては居なかった。
あるいはスカイハイも、タナトスの声を聞いているのかもしれない。……そんな囁きに耳を貸すのはまだ早い、と思わなくもなかった。スカイハイを止められるのがもしあの青年なら、託してみるのも悪くはないように思われた。
■ □ ■ □
第二資料室は、地下にあった。壁の見取り図を何度も見直して、イワンは地下へと続く階段を探す。非常階段へと続く鉄扉を開けると、階段は無人だった。
それはそうだろう、皆楽な階段の方を使いたがるものだ、普通は。
こういうとき、イワンは人には道を聞かないし、エレベーターなども人が多いと気が引けるので使わない。迷い無く非常階段に足を踏み入れる。
資料室自体が地下に作られているようだったが、第二資料室に着くまで、誰とも出会わなかった。
上の司法局の賑わいと反比例している気がしてイワンは少し不思議に思ったが、ここがもう余程の事がないと引用されない過去の事件のデッドストック倉庫になっていることにまでは流石に気付かなかった。
……結果として、イワンの姿を認識したのは、ユーリただ一人、ということになってしまったのだが、イワンはこの時点ではまだその事に気付いていなかった。
■ □ ■ □
重そうなドアをノックして、中に入る。
薄暗い部屋、ずらり、と天井まで並ぶ書架がイワンを圧倒した。どの書架にもファイルがぎっしり詰まっていて、全てに禁帯出の文字が燦然と輝いている。
そんな中、一番奥に据え付けられたデスクに背中を向けて座る男を見つけて、イワンはほっとした声を出した。
「スカイハイさん」
返事はなかったが、仕事に没頭しているのだろうと思い、無警戒でその近くにまで寄る。デスクの上だけは、煌々と灯りが付いていた。
金髪の男は、今日は呼び出されたからかなんなのか、きちんとしたスーツを着ていた。背中越しに覗き込むと、分厚いファイルを広げて、真剣に見ている。
「スカイハイ、さん」
「……っ、折紙、くん?」
何度目かの呼びかけにやっと反応し、驚いたように顔を上げる男に、イワンは微笑んだ。
「ごめんなさい、司法局に呼び出された、ってだけ聞いたので、驚いて」
押しかけてきましたが、返ってお邪魔してしまって、と続けるイワンに、キースは頭を振った。
「……ああ、そう、だったのか」
キースは普段の闊達な様子が嘘のような緩慢な仕草でイワンの方を振り向き、静かにだが、心配してくれてありがとう、と微笑む。
「いえ、僕が勝手に、気にしてただけで、その」
イワンは頬を赤らめ、もじもじと落ち着かない様子で手を組み合わせる。イワンは、ずっとキースの事が好きだった。
けれど、片思いのまま胸に秘めているだけでいいと思っていたその気持ちを、キースの方から切り崩された。……ある夏の日に、唐突に。
■ □ ■ □
昼下がりの耐え難い熱さの中、コンビニで買ったアイスクリームを食べていた。
二人で時々出かけるくらいには仲良くなっていた頃合いだったし、ジョンの散歩を終わらせて、今日はジョンはそのままトリマーさんに預けて、引き取りに行くまでの時間潰しに何をしようかと話をしていて。
ジョンをいつも預けているペットサロンは閑静な住宅地の一角にあったので、暑さで人の往来もあまり見えない道を並んで歩いていて。
喉が渇いたので、コンビニで安いソーダアイスを買って、割って二人で半分こをした。
大きな積乱雲が浮かぶ青い空に、あれ、本当に夕立がくるかな、とイワンが思った。携帯電話が少し前に雨雲アラートを鳴らしていたのだ。
キースさん、雨が降りそうですよ、と言って、屋根のある場所に入ろうと男を促したはずだった。
男が緩慢に頷いて、今日はしかし、風がなくて、熱気が籠もってしまって、過ごしにくいね、と呟く。
そうですね、と相づちを打って、食べ終わったアイスの棒を持て余しながら空を見上げた。タンクトップ一枚の白い肌は、容赦なく直射日光に晒されている。
あんまり焼けると赤くなっちゃうな、とぼんやり思った瞬間、空が陰った。あ、と呟く頭上に、ぽつりと初めの一滴。
そのまま、降り始めた夕立に、為す術もなく二人して頭からずぶ濡れになった。
どうしよう、と呆然としながら取り敢えず走り、雨宿りをした大きな木の下で、キースが濡れ鼠になったイワンを引き寄せて、寒くはないかと聞いたので、首を振って否定したのに。
冷たいね、と抱きしめられて。
風は、相変わらず少しも吹いていなかった。
それは全て、キースの身体の中に閉じ込められていた。濡れて張り付くキースのTシャツからは、胸の動きと心臓の鼓動がダイレクトに伝わる。
暴風の渦巻く青い瞳が、イワンの視線と交わって、口唇がすきだ、と短い言葉を告げるのを、呆然としながら見ていた。
きみは、と問われて。
ーーーーー嘘なんか、つけるはずがなかった。
■ □ ■ □
キースは、イワンが側に来るのを許容したようだった。出過ぎたことをしたのではないかと、イワンとしては内心そろそろ怯えていた頃合いだったので、ほっとする。
「僕に、手伝えることはありますか?」
過去の事件の記録を洗い直しているらしい、とユーリは言っていた。これだけの膨大な資料の海の中、キースは一体何を考えながら止まっていたのだろうと思う。
それだけ言って、イワンはふと気付いてしまった。
そうだ、……これは全て。
(はんざいの、きおく)
これだけのNEXT絡みの事件が今までにあったのかと思うと、それだけで背筋にぞわりとした寒気が走る。天井に届く書架からの圧迫感が急に倍になったように息苦しくなる。
キースはよくこんな所に居て平気なものだ。……イワン一人ならば、与えられた重圧だけでとうに逃げ出してしまっている。
根強く残るNEXTへの差別を、イワン自身、今までに何度も経験してきた。就学年齢に達した頃からだ。持って居るNEXTが大した力でなければ良かったが、イワンの力は余りにも強かった。
僕は今、ここにヒーローとして居るけれど、いつあちら側にいってもおかしくはなかった、と何度も胸の中で浮かんでは消える言葉をまた繰り返す。
イワンの顔を探るようにじっと見ていたキースが、整った口唇を震わせる。かなしい、事件があって、とキースは口を開いた。
「昔、私が捕まえた犯人の息子が、また凶悪犯罪を引き起こした。シュテルンビルトではない場所だった。彼は母親と共に、ここを永久追放になっていたんだ」
一定の犯罪歴のある転入者は、その資格を取り消される、とキースは呟いた。
「……キースさん」
「協力要請があって、私が呼ばれた」
犯罪者は、言ったそうだ。スカイハイが父親を捕まえなければ、こんなことにはならなかったのに、と。そう言葉にしたキースの面は、普段の快活で陽気なスカイハイからは、ほど遠いものだった。
「過去の事件について、問われた。あの時のお前の判断は正しかったのか、あの男を捕まえる必要はあったのか。……ヒーローは、要請があってから出動する。無論、許可を出したのは司法当局の筈だが、いつの間にかこれは“私の事件”にすり替わってしまっていて」
そうして、終わらせた過去の事件が、亡霊のようにスカイハイの前に立ちはだかるのだ。イワンは身震いがするのを止められなかった。
ヒーローは、司法の厚い壁に守られている。代わりに、法の番人の手先として働いている。その絶対的な前提が崩れたら、……ましてや、スカイハイのような従順なヒーローなら、尚更司法の裏切りは堪えるだろう。
「私は、正しかったのだろうか」
一気に呟いて、キースは深いため息をついた。殆ど、独り言のような言葉ばかりだ。
「ならば私は、どうしたら良かったんだろう?」
イワンは口を開こうとして、事件の概要も知らない自分が何かを言うのも憚られて、口を噤んだ。代わりに、キースの名前を呼ぶ。それも、迷ってからヒーローとしての男を呼んだ。
「スカイハイ、さん」
ああ、そうだね、と金髪の男が頭を片手で掻き混ぜながら目を閉じる。
「スカイハイなら、きっといつも正しいのに」
「……すか、」
失敗した、と思った。イワンは、完全に言葉を失った。この言葉の指し示す白い闇は、イワンがまだ、経験したことがない領域だ。
スカイハイを呼ぶべきではなかった。キースを益々追い詰めるだけなのに。
イワンの葛藤を余所に、キースが自問自答のように言葉を零していく。
「スカイハイがしたことは正しい。正しいんだ。……あのときは、手を離すしかなかった」
生き残った犯罪者の家族の行方が気にならないと言えば嘘になるが、その全てを救うには、スカイハイの手でもあまりに矮小だ。
それでも救いたかった、とキースは泣きそうな声で呟く。
イワンは何かを言ってやりたかった。傷つきやすい、孤高のこの魂を、拾い上げたいと思った。……けれど、イワンの手は救いの手には到底小さすぎるだろうと、抱きしめようとして伸ばした腕を途中で止めてしまう。
「スカイハイは、いつも私に正しい道を教えてくれるが……。この胸の痛みの癒やし方は教えて貰えない」
イワンの中途半端に延ばされた腕が見えないように、キースはゆっくりと顔を上げて淡い金髪の青年の顔をじっと見つめる。
「どうしたらいい? 私のヒーローは、どこに居るんだろう」
独り言のように言いながら、キースは胸のネクタイを解いた。その後で、イワンの腕を取る。
解かれた赤いそれが、自分の両手首を戒めるように巻かれていくのを、イワンはただ、大きく見開いた瞳で見つめることしかできなかった。
「……ねえ、イワン君」
耳元に降りてきた囁きと口唇に、びくりと体が竦んだ。キースが、デスクの上の資料を床に払い落とす。
思ったより大きな音がして、びくり、とイワンの肩が竦んだ。
「君には分かる? 罪を犯すものの気持ちが」
青い瞳が、真っ直ぐにひたりとイワンの双眸を覗き込んでくる。宗教画の天使のような、透き通った厳しい視線だった。
(……裁かれる)
イワンは何か言おうとして、口を閉じた。視界の隅をエドワードの見事な赤毛が掠めた気がした。……エドワードにあったのは正義感と功名心だけだった。
悪気はなかった。それでも彼は、犯罪者として裁かれている。
罪は、罪だ。
イワンの瞳の奥に何を見つけたのか、キースはうっすらと笑みを浮かべて、イワンの戒めた腕を掴み、デスクに押しつける。あおのいた喉に、噛み付くような口付けが落ちた。
「ああ、……知っているんだね、君は」
「あ、」
声が、初めて出た。キースが、熱に浮かされたようにイワンの上着を肩から滑らせる。
「私にも、教えて欲しい」
「やっ、……あ」
剥き出しの肩、タンクトップの下に、キースの大きな手が滑り込んでくる。
「ねえ、……罪とは、甘い味がするんだろうか」
君のように、と低い声で囁かれ、イワンはきゅっと眉を寄せる。
「あまく、……なんか、ない」
苦いです、と譫言のようにイワンが言い、それでもいい、私にも分けて、と言いながら重ねられた口唇を受け止めた。
■ □ ■ □
もう、あれからどのくらい嬲られ続けているのか。イワンは縛られた腕をキースの肩口に押しつけながら、必死で与えられる熱に耐えていた。
絶頂が近づきそうで、どうして、と思う。男同士なのに、こんなことが、どうしてこんなに気持ちが良いのか。
(おかしく、なりそう)
いやもう、既におかしいのだろうか。大きく脚を広げられて、隠していた部分を全て男の前にさらけ出して。
それなのに、キースの愛撫は信じられないくらい強引で、優しかった。
「だめです、……だめ、スカイハイ、さ、みんなが、みて、るっ」
視界に入る全てのファイルが恐ろしかった。その間から無数の目が、自分たちの行為を見下ろしてくるような気がする。この、背徳的な行為を。
「……そうだね。……今までのヒーロー達が、私たちの罪を見ている」
「つ、……」
うあ、と噛みしめた奥歯から、堪えきれない声が漏れる。達してしまいそうになって、イワンはふるふると首を振った。
その、途端。キースから、毒のように甘い声がとろりと落ちかかる。
「共犯者だと、思っていいんだろう? 折紙サイクロン」
「!!……あ、ア!」
ヒーロー名で呼ばれながら奥まで貫かれて、イワンは耐えきれずに己の精を解放してしまった。
はあはあと涙目で荒い呼吸を整えるイワンの戒められたままの両手を取り、キースが左手首の内側、PDAのはまる場所に口唇を付ける。
「……断罪するならするがいい、君は私のものだ」
「……!!」
自分の中で再び存在感を増すものに、声にならない悲鳴が上がる。
イワンが怖いのは、キースではない。……彼の狂気にどうしようもなく引きずられて歓喜する、この胸の心臓の方だ。
キースが、そんなイワンの切羽詰まった表情を楽しそうに見下ろしながら、ゆっくりと口角を上げて微笑む。
「これが罪だというのなら、私はもう、罪人と呼ばれても、かまわない」
囁いて、汗の珠の浮かぶイワンの額に張り付く髪の毛を掻き上げて、敬虔な口付けを一つ、与えてくれる。
ぽろり、と紫の瞳から涙が零れた。
「きー、す、さ、あっ」
現金なものだ。
イワンの体の熱が一気に上がった。抵抗できない。……助けて、と心の中で呼ぶけれど、助けに来てくれるはずのヒーローは、余所を向いている。
心の中で、その後ろ姿を見て、イワンはどこかで納得もしていた。怖いのは、キースの豹変にも恐怖を覚えない自分自身だ。
(ああ、そうだ、……そうだよね)
そう、ずっと。
(折紙サイクロンは、スカイハイを見ていた)
だったら、助けになんか来てくれるはずがない。だって彼は、キースは、スカイハイでもあるのだから。
はあ、と熱い息を吐き出し、涙を絶えず零しながら、イワンは男の名前を呼んだ。
「これ、……これ解いて、キース、さっ、あ」
目の前に戒められた腕を翳すと、金髪の男は意地悪く聞いてくる。
「解いて、いいの?」
たん、と縛られたまま、イワンは両腕で焦れてキースの肩口を叩く。こちらを向け、と言うように。青い瞳を、挑戦的に睨み付けた。
「……僕だけが縛られるなんて、じょうだんじゃ、ない」
共犯者だと、いうのなら。
(僕だって、あなたの魂を、求めても良いはずだ)
自分にも縛らせろ、と。紫の瞳が意外に強く自分を見返してきたので。キースは青い目を一瞬大きく見開いて、ゆっくりと微笑んだ。
「だから、私は君が好きなんだよ、イワン君」
告白と言うよりも懺悔のように告げられた台詞と共に結ばれた口唇に、イワンは目を閉じて、キースのシャツの胸元を不自由な両手でしっかりと掴んだのだった。
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+++END
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