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《前編》
その子供は酷く怯えているようにしか見えなかった。
やっとのことで探り当てた秘密基地並にセキュリティの頑丈な研究施設の最奥で閉じこめられていた茨姫のような少女に、金髪の男はゆっくりと手を伸ばす。
「一緒においで?」
子供はしばらく躊躇うような様子を見せていたが、そっと手を伸ばして指先を男の手に触れさせた。手と手が僅かに触れ合ったその途端、電流に弾かれたように少女がばっと手を離す。男は自分の手を暫く見つめた後、もう一度少女に向かって促すように手を伸ばした。すると少女は今度こそ躊躇わず、男の手の中に小さな自分自身の手を滑り込ませた。
男は、少女の手を引いてその施設から脱出した。腹の中に抑えきれない連邦軍への怒りを渦巻かせながら。
■ □ ■ □
グリプス戦役の後、戦場から姿を消し、自分自身の在り方について迷いを見せていたシャア・アズナブルは、ある日彼を自分達の組織に招いたネオ・ジオンの軍事技術関係者から、興味深い話を聞いた。
旧ジオン公国のニュータイプ研究機関、フラナガン機関が連邦軍に吸収されてしまって、そこで独自にニュータイプについての研究を重ねていたというものである。
シャアの手元に届けられたデータの一部の中には、彼の嘗て愛した褐色の肌の少女や、勿論連邦軍のエースでもあり、ファーストニュータイプと言われたアムロ・レイの資料も存在することが示唆されていた。自分自身がその中にどうやら含まれていないらしい事に安堵したシャアは、しかしデータの中に存在した一つのファイルに険しい顔つきになる。
「これは……」
呟いて眉を顰めたシャアは、やがてそのデータにあった少女の写真を手に入れ、一つの確信を抱いて行動を起こした。
褐色の肌にくるりとした丸い琥珀色の瞳、少し緩く癖付いたみどりの黒髪。間違いなく、彼の愛する者達の血を二つとも受け継いだ子供がその写真の中にはあったのだった。
■ □ ■ □
少女を自宅まで連れ帰ってきたシャアは、まずは少女を熱い湯に入れてから、子供の好きそうなものばかりを集めた食卓に彼女を招待した。目を丸くする少女に、どれでも好きなだけ食べなさい、とシャアが柔らかい笑顔を見せる。
「これ、わたしがたべていいの?」
「勿論。君のために用意をしたのだから、沢山食べてくれると嬉しいな」
にこやかに微笑んで言うシャアに、ずっと硬い表情を浮かべていた少女がようやっと少し表情を緩める。そして、食卓に着くと、手近な皿を手にとってものも言わずに食べ始めた。殆ど手づかみに近い食べ方に、シャアはこの少女の育ってきた今までの過程を想像して僅かに表情を曇らせる。シャアの表情を伺いながら食べていた少女が、シャアが眉を顰めたのを見て手を止めた。
「ああ、すまない、続けて食べていいよ、私はどうもケチャップの匂いが苦手でね」
シャアがやや苦しいながらの言い訳をすると、少女はケチャップ、と呟いて硬直したので、シャアは少女の口の端についた赤い調味料を拭ってやりながらこれだよ、と言った。
「オムライスは気に入った?」
「うん」
それでも慎重にシャアの顔色を窺いながら食事をする少女に、シャアはまたふつふつと彼女を実験体として扱ってきたに違いない研究所の人間達や連邦軍に対する怒りが込み上げてくるのを抑えられなかった。もしや、と思いながらシャアは再び少女に向かって話しかけてみる。
「私は君のことをなんと呼べばいいのだ? 名前を教えて貰えないだろうか」
その言葉に、少女は食事をする手を止めてぽかんとしたようにシャアを見上げていたが、暫くしてゆっくりと話し始めた。
「なまえ、ナンバー・フォーティーンっていいます。でも、あそこではわたしみたいなこはよにんめだったから、わたしはいつも『よんばんめ』ってよばれていました」
それは名前ではない、という喉まででかかった言葉を押し止め、シャアが注意深く尋ねる。
「四人? しかし、あの研究所には君しか居なかったはずだが」
シャアの言葉に、少女が困ったように俯く。
「しらない、いちばんめからさんばんめまでは、わたしもデータのなまえでしかみたことないです」
その言葉にシャアが眉を顰めた。恐らくは、実験体の他の三人は既に死亡したのだろう。張り詰めそうになる空気をなんとか元に戻そうと、シャアは朗らかに笑って少女の顔を覗き込んだ。
「……そうか、では君には何か名前が必要だな、君だけの」
「わたしだけの?」
「そうだ。私がつけてしまっても構わないかな?」
シャアの言葉に、少女はよく意味が分かっていない様子で頷いた。基本的に、大人の言うことにノーと言えるようには躾られていない様子にも思える。
「それではまず、自己紹介だ。私の名前はシャア・アズナブル」
自己紹介などされたこともないのか、少女が困ったような顔をする。
「しゃ、あ?」
「そうだよ、私の名前はシャアだ。言えるかい?」
言いながら、シャアはゆっくりと手を伸ばして彼女の手に触れさせた。彼女が本当に至高のニュータイプ二人の血と能力を受け継いでいるのならば、シャアが嘘などついては居ないことが分かるはずだ。少女は僅かにぴくりと体を固くしたが、暫くするとシャアの意識に触れたのか、ホッとした表情になる。
「しゃあ、……シャア、」
あどけない笑顔を僅かに浮かべ、一生懸命に微笑んだ少女を、シャアは思わず強く抱き締めていた。その日から、シャアと少女との奇妙な共同生活が始まったのだった。
■ □ ■ □
机の上に山ほどの本を積み上げ、ネオ・ジオン総帥シャア・アズナブルはモビルスーツを操っているときでもあまり見せないような難しい表情をしている。その隣に腰を下ろす黒髪の少女は、居心地が悪そうに暫くもぞもぞしていたが、やがて恐る恐るシャアに声をかけた。
「あのね、シャア、どうしてそんなにこわいかおしてるの?」
その声を聞いて、シャアがはっと我に返ったように本から顔を上げた。視線の先の少女は数日前に研究所から連れだしたときよりずっとこざっぱりして小綺麗な服を着せられ、頭にはシャアが手ずからつけてやった髪飾りが揺れている。シャアは少女の頭を撫でてやると、すまないと無視し続けたことを詫びた。
「君には一体どういう名前がいいだろうかと思ってね」
「わたし、シャアがよぶならなんでもいいのに」
困ったようにそう言った少女に、シャアがとんでもない、という表情になる。
「そうはいかない、名前というのは大事だからな」
一生懸命に積み上げた本を捲り、神話でもない、歴史上の人物でも、花の名前でもないとたった一つの名前を求めて奮闘を続けるシャアに、少女が曖昧な表情を浮かべる。彼女はこんな時のむずむずするような気持ちが、嬉しいという感情であることを未だ知り得なかった。
「ユエというのは月のことだけれど、少し陰気かな。かといって、シャルロッテというのも平凡だし」
ブツブツと呟きながら分厚い本の頁を捲っていたシャアが、ふと自分を不安そうに覗き込んでくる、黄金の混じったような琥珀色の瞳に目を留めた。
「そういえば、黄金のことをスバルナと言うが……そうだ、スバル、スバルというのはどうだろう。若い星の名前だよ」
弾んだシャアの言葉を聞いて、少女は大きな目をぱちくりさせた。
「わたし、スバル?」
「そう、君の名前はスバル。スバル・レイ・スンだ」
シャアが告げた名前に引っかかるものを感じて、少女は口の中で名前を繰り返した。
「スバル……”レイ”? ”スン”?」
聞き慣れない響きに首を傾げた少女に向かって、シャアは少しだけ淋しげな表情で告げた。
「……そうだ、それは君の大切な人達の名前だよ」
しかし、少女はシャアに向かって思ってもみなかった事を言う。
「だったら、”アズナブル”ってつけちゃ、だめ?」
親という存在を認識していない少女は、自分の絶対的な保護者であるシャアとの関係が細くなることを無意識に恐れていた。そんな少女の心の動きを敏感に察して、シャアが心配はいらないというように笑ってみせる。
「私の名前をつけてもいいが、それでは君の父と母に申し訳が立たないからね」
そのシャアの言葉に、今度こそ少女は大きく目を見開いた。
「パパとママがわたしにもいるの?」
「ああ、勿論だ」
「パパとママ……」
余りにも意外なことを言われたのか、呆然として繰り返す少女に向かってシャアが静かに問いかけた。
「会いたいかね? 君の父と母に」
「……」
困ったような表情で答えることも出来ずシャアを見つめてくる琥珀色の瞳に傷付きやすい青年に成長していた父親の面影を感じ取って、シャアは殊更に優しく少女に言い聞かせた。
「だけれど、君の父と母は君という子供が居ることを知らないんだ。知ったら、きっと愛してくれる筈だ。……母の方は残念ながらもうこの世にはいないが、父親はまだ、生きている」
今度こそ、少女が驚いたように声を上げた。
「パパ?」
「そうだ、君の父親だよ、スバル」
少女は暫くシャアの告げた真実を噛み締めるように暫く俯いて何やら考えているようだったが、やがておずおずと顔を上げて蚊の鳴くような声でシャアに尋ねた。
「パパがいるなら、みてみたい。……でも、パパ、わたしのこと、いやがらない?」
少女の言葉に、シャアはまた少女を抱き寄せて、その頭を撫でて、心配することはない、と繰り返し囁いてやった。
「嫌がりなどするものか、必ず会わせてあげるから、私を信じていい子にして、沢山食べて大きくなるのだよ」
パパをびっくりさせてやろうじゃないか、とシャアに言われ、少女は初めて笑顔らしきものを形作ることが出来た。
「はい、シャア」
さらりと流れた伸ばしっぱなしの長い黒髪の一房に、後で自分の手で切りそろえてやろうと考えながらも、少女の笑顔を見たシャアは自らの心の中も徐々に温かくなってくるのを感じていた。
■ □ ■ □
スバルがシャアの元で暮らし始めて、直ぐに数ヶ月の時間が流れた。アムロ・レイとララァ・スンという二人の優れたニュータイプを父母に持つ少女は言語や情緒の面などで他人と接する機会が少なかった事による遅れや戸惑いが見られたが、シャアが根気よく側について教えてやることで、それも随分と快方に向かっていた。
シャアの方も、記憶の中に永遠に留まる少女と彼女を挟んだ複雑な間柄の好敵手の二人共を思わせる少女のことを殊の外大事にしており、未だ就任したばかりのネオ・ジオン総帥という激務の中でも出来うる限りの時間を割いては少女の相手をし、公式にも非公式にも常に彼女を伴う事にしていた。
口さがない者などはあれはきっと愛人に押し付けられた総帥の隠し子に違いないなどと陰口を叩いていたが、シャアは一向にそんな評判を気にすることもなく、少女との蜜月に似た時間をただ楽しんで過ごしていた。
同い年の水準からするとかなり小柄に思えるスバルのことをシャアは心配していたが、少女が過去のトラウマからか白衣を着た人種を厭う傾向があるので自宅に医務官を招いたりしては診断を依頼していたのだが、ある日シャアの元に設立されたばかりのニュータイプ研究所から連絡が入った。
ほぼニュータイプのサラブレッドであるスバルを調べさせて欲しいという依頼をシャアは初め一蹴したが、何度も繰り返される依頼と議会上層部からの圧力に、遂に不承不承女性の研究員なら、という事でスバルとの面接を許した。
ニュータイプ研究所からやって来たのは未だ若いナナイ・ミゲルという女性で、彼女は最初知らない人間に怯えるスバルに戸惑っていたようだったが直ぐに気持ちを切り替えたようで、スバルに対して優しく声をかけると、幾つかのテストを始めた。
子供扱いして侮るのではなく、しかしニュータイプの実験体であるというような人ではないものを見るような態度も見せずに淡々と説明をして質問をこなしていくナナイの姿にスバルは酷く緊張はしていたようだったが、嫌悪感を抱くところまでは行かなかったようで、少なからずシャアをほっとさせていた。
最後にシャアの協力を得て採血など健康診断に必要な調査を済ませたナナイは、結果は後日報告させて頂きますとシャアに告げ、手を振るスバルに戸惑いつつも同じように手を振り返しながらシャアの私邸を後にした。
■ □ ■ □
後日、スバルの健康診断の結果を伝えに来たのはしかし彼女ではなく、彼女の上官だという男性の研究員だった。シャアの執務室に通された研究員は、手にしていたレポートを事務的な口調で読み上げる。その結果、スバルは成長具合は同い年の子供より著しく劣っているが、ここ数ヶ月でそれも随分改善されつつある、ということだったのでシャアは正直に胸を撫で下ろす。シャアのそんな思いを余所に、研究員は続けた。
「スバル・レイ・スンはここに来た当初、年齢は既に十三歳に達していましたが、その体は十歳程度の子供と変わりませんでした」
それを聞いてシャアは頷いた。連れて帰るときに抱き上げてやったとき、子供といえどここまで軽くていいものかと不安になったことを思い出す。今も毎日のように抱き上げて肩車などをしてやっているが、それでも小枝のような体は時々不安になるほど軽いもののようにシャアには思えた。
「普通は女子の場合、この位の年頃になると第二次性徴の兆候が見られる、或いは始まるものですが、栄養状態が悪かったのか、それとも彼女自身が成長することを拒んでいたのか、或いはその両方だとも考えられます」
研究員はレポートを淡々と読み上げ続ける。シャアはそこで僅かに眉を顰めた。
先日ナナイ・ミゲルには告げたが、暫く前に彼女は初潮を迎えている。徐々に体つきも少女らしいまろやかな雰囲気を帯びてきていて、蛹が蝶に孵化する準備に入ろうとしている少女の成長の早さに、出会ったときの子供子供した印象の抜けきっていないシャアは些か戸惑いを禁じ得ないでいるくらいだったのだ。
そんなシャアの思考は、研究員の次の言葉の不吉な響きに突如遮られることになった。
「普通なら、こちらに来て栄養状態も安定したものになり、再び心身の成長が始まるところですが、人為的に作られた彼女の全身の細胞は、時限装置を抱えているものだったのです」
「時限装置だと?」
ただならぬ言葉を聞いたシャアが珍しく狼狽えたような言葉を発したが、研究員は顔色も変えずにはい、と頷いただけで先を続けた。
「総帥が以前に仰っていた彼女の前の三人の被験者が全員死亡しているらしい、という事実から考え併せると、アムロ・レイとララァ・スンの遺伝子はそれぞれの相性が悪いということが濃厚に考えられます。無論受精して着床する率も低いのですが、できた子供も育ち難く、殆どが成熟する前に流れてしまうか、もしも無事に出生できたとしても、どんなに頑張っても成人するまで持ち堪えることは出来ないのではないかと……」
淡々とした研究員の言葉に、シャアが珍しく声を荒げた。
「すると、何か、彼女はここへ来て、急激に成長したのが良くなかったとでもいうのか!」
研究員は重々しい表情で頷く。
「そうです、調査した結果、彼女の細胞には成長の限界点があり、それを越すと徐々に壊死していくのです。このままではいつ時限爆弾が破裂してもおかしくはありません」
「そんな……、そんな馬鹿なことがあってたまるものか!」
信じられない、とシャアはそう怒鳴ると、ぐっと怒りに震える拳を握り締めた。
「研究所のあの監獄のような暮らしで居た方が彼女は長生きできたとでもいうのか……そんな、そんな事が許されていいのか」
呟くシャアの耳に、研究員の酷く冷静な声が響いてきた。
「総帥、スバル・レイ・スンは、この間やっと生殖細胞の成熟が終わったところです。どうか手遅れになる前に彼女の卵子の冷凍保存の許可を……」
その言葉に、シャアの形相が変わった。
「手遅れとは、どういう意味だ!!」
シャアの怒りに溢れた一喝に、流石に研究員が怯えたように後退った。
「いえ、私はただ、ニュータイプ研究所の発展の為に、彼女のような純粋なニュータイプの細胞を調べたいと……」
「ふざけるな、貴様、己の言っていることを理解しているのか? 貴様達も腐った連邦の研究者と同じ事をするつもりなのか!! 誇り高きジオンの人間が、恥を知るがいい!!」
恫喝するように研究員を追い払った後、シャアは執務室の机に深く腰掛け、絞り出すような呻き声を上げた。
「ララァ、君は彼女を自分の所に連れていくのか、スバルすらも私のものではないというのか……!!」
それだけ呟くと、シャアはふと顔を上げた。
「アムロ・レイ、……そうだ、アムロ・レイならば、スバルをララァの元から救ってくれるかもしれない」
無論、ただの人間であるアムロにそんな奇跡が起こせる筈も無かったが、スバルがシャアに遠慮して言わないだけで実の父親に密かに会いたがっている事を弁えていたシャアは、せめて彼女の生きる力になれば、とアムロとの接触を決意した。
嘗ての仲間達からは姿を隠していたシャアだったが、アムロに会う決意を固めるや、早速地球で別れたきりのアムロ・レイを捜すように部下達に捜索を命じた。ファーストニュータイプと呼ばれた彼がこちらの味方になってくれればその利益は計り知れない、連邦軍に獲得される前に身柄を抑えるのだ、というシャアの言葉に誇張は無かったが、日々成長していくスバルの姿がシャアの焦りに幾分か拍車をかけたのは事実でもあった。
しかし、吉報を待つシャアの元に届いたのは、事実上空中分解していたカラバに留まっていたアムロ・レイが、昔馴染みのブライト・ノアの率いる連邦軍の外郭部隊、ロンド・ベルに参加したというニュースだった。ロンド・ベルの仮想敵国はネオ・ジオンだと聞いている。つまり、シャアはアムロ・レイと接する機会を半ば永遠に失ってしまったのだった。
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+++To be Continued.
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