☆☆【THE RIVER OF OBLIVION】☆☆ |
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夢を、見ていた。
青年が一人、こちら側に向かって手招きをしている夢を。
その青年は川縁に佇んでおり、馬鹿のように立ち尽くす私に向かって、しゃがんでその両手で掬い上げたひとすくいの河の水を差しだし、微笑みながらこう言ったのだ。
「さぁ、これを飲んで。そうすれば……」
―――――そうすれば?
そ う す れ ば ど う な る と い う の だ 。
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がばっといきなりベッドから起きあがった私に、隣で眠っていた恋人が驚いて寝ぼけた顔で起き上がってきた。
「なぁに?どうしたの、ガトー…寝惚けるなんて貴方らしくない」
「いや、なんでも…」
呟きながら、夜目にも輝く金の髪の彼女にいいから寝ろ、と手振りで伝え、私はふぅ、と息を付いて両手の中に顔を埋めた。
じとりと全身が嫌な汗をかいていた。
再び近づきつつある戦場の気配に、ナーバスになっているのは分かっていた。
もうじき、隣で寝息を立てているこの女とも別れねばなるまい。所詮、平和や安穏とは相容れぬ人生なのだ、私という男の歩く道は。その道の途中で出会ってしまった、平凡な幸せを望む彼女には、哀れだとは思うが。
それでも、私は時が来れば全てを捨てても往かねばならない。
かくも気高き理想のために。
私は、いったい何処にあっても誰と在っても、自分が何者であるかを片時も忘れたことはないのだから。
そう、決して忘れたことなど。
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「ソロモンよ、私は還ってきた!」
友とも恋人とも別れ、再び戦場へと舞い戻った私は、導かれるままに。惹かれるように戦いを重ね。遂に、遂に修羅の道を究めるのだと心に誓う。嵐の気配に、心の臓が高揚する。
―――そして、出会った。
その姿を認めた瞬間の驚愕を貴様は知るまい。
あの、瞬間。文字通り息を飲んだ。
『さぁ、これを飲んで。そうすれば、みんなみんな忘れられるから』
そう、あの夜以降毎夜の如く夢に現れては私にそう囁く青年。
「二度と忘れん!」
火を吐くように吼えた。ああ、そうだ。忘れられるものか。戦場に於いて、遂にあの、暗示めいた夢の相手に出会うなど。それも、敵として。まさか連邦のパイロットだったとは。その可笑しさに、暫くは笑いが止まらなかった。判じ物としては、出来過ぎに過ぎるだろう。
―――貴様は私のなんだったのだ、コウ・ウラキ?
『救い』なのか、『癒し』なのか、それとも『解放』か。
もしや『運命』でさえあったのかもしれなかったが。
それとも、『何か』であって欲しかったのか、あの青年に。夢で見たと思っていた事自体、私の錯覚に過ぎなかったのか。
いや、止そう、と私は首を振った。
今となっては、それも遙か彼岸の話。
この川の水を飲めば、全ての悩みからも苦しみからも解放されると教えられた忘却の川、レテの川辺をそぞろ歩きながら此方の国を見やる。
閣下も、親友も、かつて敵であった者達さえ既に川の水を汲み、何処かへと去っていった。
私だけが、ここでもただ独り未だ忘却を良しとせず、迷い彷徨い歩いているのだ。
それでも私は今も貴様だけは忘却の彼方に押しやることはなく…。
黄泉への道の分岐路で独り佇んだまま、動けずにいる。
蕭々と風が吹き、川縁の草を揺らす。これは、葦だったか?そんなことさえ、もう記憶は曖昧だ。
希に薄白く輝きながら誰かの魂のような蛍が飛んで行く。甘露となる水を求めて。
待っているのだろうか、もしかして。貴様が再び私の前に現れ、もう、良いのだと。私が実は何者でもなく、この川の水を飲んで救済されるに値する存在であるのだと、そう指し示してくれるのを。―――そんな、背中を押して貰わねば歩けぬ人間では無かった筈なのだが。
つはものどもがゆめのあと、そこに残るのは、忘れることさえ出来ぬ男達の妄執のみ。
夢は、もう見ない。
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+++END.
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昔、オフライン用に書いて、ボツにして拍手でリライトしてみた短編。 |