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恋は、『落ちるもの』。そんなことは手垢が付くほど使い古された表現だし、分かっているつもりだった。
それでも俺は、落ちてしまった。
この、恋に。
あなたは、触れるのもおそろしい人などというひとに巡り会った事があるだろうか。
側にただ立っているのも息が苦しくて、泣きそうで、辛い。そう、辛いくらい。
もしもこれを恋だと云うのなら、俺が今まで恋愛だったと思い込んできたあれは一体なんだったのだろう。どんなお飯事の遊戯だろう。そして、どうして誰も教えてくれなかったのか。恋がこんなに酷いものだなんて。
先人はあんなに恋をまるで本当に尊いもののように描いているが、なんでこんなに直向きに苦しいものがいいものか。俺には分からない。さっぱり分からない。
理由ならば分かる気もする。教えても仕方がないからだ。救う事なんて出来はしないのだ。それはある日突然やって来て、嵐に翻弄されるようにただ落ちる、何処までも無限の谷底に向けて足下が崩れるように、ひたすらに落ち続けるものなのだから。
恋は自己の革命であり、探求である。
命さえ革められて、造り替えられて。―――恋は幸せと同義語ではない。愛がそうではないように。
「君は、私のことが気に入らないのか?」
問われて、思わずぎくりとしながらアムロは男の方を振り向いた。
「な、なんでそんなことを言うんだ、クワトロ大尉」
「いや、違っていたらすまないが、君はどうも私を避けているような気がしてならないのだよ」
「そんなことは…」
ないよ、とぼそぼそと呟きながら、アムロは内心この聡い男に舌を巻き、熱いコーヒーを紙コップから一口啜って誤魔化した。
「そうか?しかし、君と私は作戦会議などで常に意見を摺り合わさねばならない必要性があるというのに、いつ尋ねても君は留守だ。捕まえると、今は忙しいから後でと言う」
「本当に忙しいんだよ、νガンダムの分解整備の大詰めだし、それに、俺は基本的にあなたの立てる作戦は信用しているから…」
「心にもないことを言うのは止めたまえよ」
クワトロが苦笑した。その後で、ふぅと小さく息を付く。
「まぁ、私と君とは圧倒的に敵対していた期間の方が長いからな、気を許せないのは分かるが…」
「違う、そんなんじゃない」
自嘲するようなクワトロの様子に思わず顔を上げて言ってしまう。その後で再び顔を伏せ、小さな声で呟いた。
「あなたを疑ってなんか、いない」
宇宙の平和のために共に戦おうと誓ったその気持ちに嘘偽りは無いと、そんなことはこの仲間内では当たり前に信じられていることだ。そうでないと、背中を預けることなど出来はしない。言外にそんなニュアンスを含ませながら、おずおずとクワトロのスクリーングラス越しの眼差しを見上げる。クワトロが口元だけを緩ませて微笑んだ。
「ありがとう、アムロ大尉」
「別に、礼を言われるほどのことじゃない」
気恥ずかしくてぷいとそっぽを向く。すると、ゆるりと赤い手袋をした手が伸びてきて、ふわりと赤味がかった鳶色の癖毛に触れた。かっと頬が熱を持ち、思わずアムロは男を怒鳴りつけてしまう。
「だ、…から!それをやめろって言ってるんだ!スキンシップ過剰だぞ、あなた!」
糾弾されたクワトロは困惑気味に首を傾げる。どうも、無意識にした仕草のようだった。
「そうか?大したことは、していないつもりだが」
「受け取り方によるだろう!あなたがやると、なんかやらしいんだよ!セクハラになるぞ!」
「セクハラって」
アムロが顔を真っ赤にして言い立てるのに苦笑し、クワトロはぽんぽん、と最後にアムロの頭を軽く叩く。子供扱いされているのかと、アムロは内心とても悔しくなった。
「それでは、君にはなるべく触れないように心がけよう」
「ああ、頼む」
「任せてくれたまえ」
言って、クワトロはぽん、とアムロの肩を叩く。アムロが困ったように男を見上げた。
「…だから」
「こんな程度もいかんのかね?」
「スキンシップ過多なんだよ、あなたは!」
「そうか?…自覚はなかったが」
気を付けよう、と何処まで本気か分からない口調で言い、クワトロはひとまずその場を立ち去ってくれた。立ち去る後ろ姿を視線だけで見送って、アムロはほうと溜息をつく。
「何をやっているんだ、俺は」
その問いに答えてくれる人は、誰もいない。
「アムロ大尉」
翌日、またしてもクワトロに呼び止められ、アムロは振り返った。
「なんだ?クワトロ大尉」
「この間しそびれた打ち合わせをしようじゃないか」
「打ち合わせ?」
「ああ、次回の作戦のパイロット編成のシュミレーションの意見を合わせておこうと思って声をかけたのだよ、この間は」
なのに君とのセクハラ疑惑でウヤムヤになってしまったと言われ、クワトロが自分の肩に触れただけで竦み上がってしまった自分を思いだしたアムロがそうだったなとぎこちなく笑った。
「ああ、分かった。続きをしよう」
言いながらどことなく身構えるアムロに、クワトロが自信ありげな微笑みを浮かべる。
「大丈夫だ、今回は秘密兵器を持ってきた」
「秘密兵器?」
「君にセクハラ同僚扱いされるのは適わないのでね」
その言葉に、クワトロにあらぬ濡れ衣を着せてしまったような後ろめたさを感じてアムロが動揺する。
「そういうわけじゃ…」
「気にしないでくれたまえ。どうやら私はスキンシップ過多のようだから」
ふぅ、と息を付いて男はアムロに何かとても軽いものを手渡した。手の平の中のそれに視線を落として、アムロが困惑する。
「紙コップ?」
クワトロがくすりと笑う。
「違うな、それは糸電話だよ」
「糸電話?」
何を子供だましな、と眉を顰めるアムロの向こうで、クワトロは糸がぴんと張る距離を取ると、紙コップを耳に当てろというジェスチャーをした。なので、不承不承耳にコップの口を当てる。
『ア・ム・ロ』
途端に、びりびりと耳元で鼓膜を震わせる声がして、その意外な近さに吃驚してアムロは耳を離してしまった。
「なっ…!!」
「ああ、駄目じゃないかアムロ。ちゃんと糸電話を耳に当てたまえよ」
クワトロが出来の悪い子供を窘めるような声を上げる。仕方なく、アムロは再び紙コップを耳に当てた。
『アムロ、聞こえるかい?』
「ええ、聞こえていますよ」
『では、打ち合わせを始めるとしようか』
思わずアムロは糸電話から耳を離し、クワトロをまじまじと見た。
「これで、か?」
「いかんかね。セクハラ防止策だよ」
大きなデスクを挟んで向こう側に腰を下ろして微笑むクワトロに、違うだろ、と肩を落とす。
「子供の遊びじゃないんだから」
「何を言うのかね、私は真剣だよ。ちっとも懐かない子猫をどうやって手なづけようかと」
「待て、子猫って俺のことか?!」
本当に猫のように毛を逆立てて睨み付けてくるアムロに小さく笑い声を立てながら、クワトロが改めて糸電話を手に取った。
「では、打ち合わせだ、アムロ大尉」
「う…」
返答と、ついでにリアクションにも窮したアムロが手の中の紙コップを見つめていると、折良くなのか折悪しくなのか、通りがかった子供達が楽しげなことをしている(様に見える)エース二人を目敏く発見した。
「お兄ちゃん達なにをやってるのー?」
あどけない問いに、クワトロが微笑んで答える。
「糸電話だよ」
「僕にもやらせて!」
「ああ、良いとも」
微笑みながらクワトロは子供達に紙コップの端を渡している。もしかしたら、初めからこういうつもりだったのかもしれない。確かに、騒がしいが二人きりで居るときほど息は詰まらない。
なのに。
俺はどうしようもなく我が儘だ、とアムロは唇を噛んで俯いた。
クワトロと、二人きりになりたかった。他愛なく向けられる笑顔、アムロのために作られた糸電話。
それを奪い去られて、子供達に嫉妬するなんて。
感情をコントロールし損ね、抑えかねてアムロはただ困惑して楽しそうに子供達と戯れる金の髪の男を見ていた。既に打ち合わせなどという雰囲気は雲散霧消している。
子供達に呆気ないほどあっさりと奪われてしまった、自分とクワトロを確かに繋いでいたはずの糸電話の微かな重みが惜しくて、アムロは空っぽの掌を見つめて溜息をついた。
もう、いい加減にアムロの方は自覚していた。―――自分は、あの尊大で豪奢で途轍もなく遠く手の届かない存在に焦がれてしまっていると。
昔、時間が腐るほど合った時代にひたすら読み耽っていた沢山の本の中のワンフレーズが意識に引っかかって上昇してくる。
『人は、恋をするときは必ず、その終わりを見ているから恋をする。…それが悲劇的なものであるほど、また、恋は燃え上がるんだ。とどのつまり、人は誰でも。自分のために人を恋するんだよ』
舌打ちをひとつして、アムロはその記憶をもう一度底に沈めた。
終わりを見ているのだろう。
悲劇的なのも分かっている、分かっている、それでも。
俺は、俺自身のためにあの人の視線が欲しい。振り向いて欲しい。
それは、いけないことなのだろうか。
思考の淵に沈んでいると、ぽん、と空虚だった掌の上に、軽い物が置かれた。吃驚して顔を上げると、クワトロが微笑んでいる。
「そんな顔をしなくても君を仲間はずれになどしないよ」
言いながら再び糸電話を取り上げる金髪の男の心遣いが全く的外れであることを知りながら、それでもその心遣いが嬉しくて、アムロは少し笑って頷き、今度は素直に紙コップの片方を取り上げた。
同時に、心の何処かで決意もしていた。
こんな間接的な触れ合いでは足りないから、―――矢張りどうあってもこの黄金に輝く男を手に入れようということを。
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+++END
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