|
**********
花が咲いた。
と、一言だけ男は言った。
「この刺骨の時期に開花するなど、いずれ馬鹿桜に決まっているが、見に行かないか」
誘われたので、その気になった。
「何を持って見に行こうか」
「花と月だ、酒が良かろう」
「酒?ビールでは味気ないかな。日本酒でも手配しようか」
「花見の酒には些か早いな」
「季節は先取りしたって悪いものじゃないだろう」
笑うと、つられたのか向こうもそうだな、と微笑んだ。
「雪月花、皆揃うなどというのに見逃さない手はないな。詩仙ではないが、酒を持って花を愛でるとしようじゃないか」
それで話は決まった。ちらりほらりと雪片さえ舞う、花の薫りの兆しすらない宵のことである。
□■□■□■□■□■□■□■
日が落ちてシャアの指定した場所に赴くと、確かにそこには何かに焦燥でもしたような満開の桜が一本。
幼子のように歓声をあげて木に駆け寄るアムロに、先に来て木の下に陣取っていたシャアがほんの少し笑む。
「素晴らしいだろう」
「誉めてやる、でかした」
言いながら男の脇に腰を下ろす。人気のない深夜の公園のベンチで男二人並んで花見と浮かれるには、外気は彼等に厳しすぎた。
「本当に馬鹿桜なんだな」
「ああ、毎年、この一本だけが先に咲いて、他の花の蕾が膨らむ頃にはもう散った後なのだ」
「詳しいな」
「よく見ていたから」
言いながらアムロがその辺りの量販店で手に入れてきたカップの酒の蓋を開ける。酒精を含んだ湯気を顎に当てながら、どうしたものかなと呟いた。
「毎年、この花だけは私のものなのだが、今年は君にも見せたくなってしまった」
「あなたのものなのか?」
「公園の花だと言いたい?確かに、この花は皆のものでもある。それは、私が皆に見せても良いと思っているからだ。この花は、私のものなのだよ。初めて見たときからそう決めていたのだ」
理屈を捏ねるような男の言い回しが面白くて、アムロはくすくす笑いながら自らも酒のカップを手に、金彩の男を振り向いた。
「なんだ、決めたのか、あなたのものだと。らしくないな、なら攫えばいいじゃないか」
「攫ってどうする。私はこの花を所有したいわけじゃない」
「でも、さっき―――」
「確かに『私の』花だと言った、だけれども、私の花を私が所有しなければならない道理はないだろう?」
言いながら、一口酒を口にする。
民衆相手に頂点に立つ者として演説をぶつも、アムロ相手にこの花は自分の花だと言うも、同じ調子で。
「この花は、君にとってはありふれた桜という花の一つに過ぎないかもしれないが、私には違うのだ」
「酔っているのか?」
思わず、アムロは問うた。まさか、この程度で?とシャアは戯けたように酒のカップを捧げ持ってアムロのものに乾杯、と呟いて合わせる。かちこん、とでも言うような安っぽい音が静寂に響いた。
「まさか。極めて素面だからこんな事も言えるのだ。いいか、アムロ。この花は、此処に在って、この時期に咲くこの木であるから私は気に入って、私の花だと決めた」
「まぁ、なんとなく理屈は分かる。要はあなた、この花が好きなんだろう、とても」
同じようにコップの酒を飲みながら聞いてやると、シャアは酷く驚いたようだった。
「―――それは」
「違うのか?」
意地悪く聞いてやると、シャアは言葉に詰まった様だったが、そうだな、と言った。
「そうだな、酒には酔わないが、私は酷く言葉には酔いやすい質なのだ」
困惑さえしたように言い、饒舌なはずの男はそれきりぴたりと黙ってしまった。
「なにかつまみでも買ってくれば良かったかな」
「それでは花に失礼だろう」
「…って、あなたが言うと思ったから酒だけにしたんだけどね」
「相変わらず勘はいいな」
アムロから切り出した言葉にすら、返事は短い。
買ってきたときは熱すぎて猫舌のアムロは舐めるようにしか飲めなくてちびりちびりとやっていた日本酒が、やっとの事で口中に含める温度になった頃、シャアがまた、口を開いた。
「本当は―――」
その後でまた唇を結び、はらはらと時折落ちる花弁を青い双眸で見上げながら狂い咲く時はずれの花に向かって言う。
「本当は、君にも隠しておきたかった。でも、今年もこの桜が先に一本だけ咲き、そうして散るのかと思うと、ふと―――ふと、怖くなったんだ」
「なにが」
「私が居なくなった後、この花が私の花だと知って、この時期にこの花が…咲いていると知って愛でてくれる人が、他に居るだろうかと」
殆ど一息に言った後、どこか疲れたように結ぶ。
「それで、君に教えた。君に教えてしまったから、もう本当はこの花は私の花じゃないのだろう」
「どうして」
「このことは、私だけの秘密だったから、だよ。君が知ったらもうそれは秘密ではないし、それに、さっき君は言っただろう?」
私も知らなかったことを。
「この花が私はとても好きだ、確かに、とても好きなのに違いない。だから、私のものだと決めていた」
ふぅ、と息を吐く。
それなのに、君に教えたいと、今年に限ってそう思ったのだ、と付け加える。
「分かち合いたいのは、もうそれは―――恋ではないよ」
「あなた、桜に恋をしていたのか」
「片思いのようなものだろう」
毎年此処に来て花は未だかと焦がれて見上げて。それは恋とは如何ほどの違いがあるものか。
再び滑らかに回転を始める男の、切ないまでの恋情混じりの言葉に、アムロはふと、胸の内に軽く嫉妬に近い感情が浮かび上がるのを知覚した。無論、金髪の男は気付きもしない。
花ではなくて、俺を見ないんだな、今夜は。―――余程に言ってやろうかと思ったが、言った瞬間に己の負けと狭量を認める気がして、アムロは寸前で言葉を押し止めた。
―――他の誰かについても何かについても、此程までに俺以外に心奪われるあなたなど。
その言葉こそ、先程のシャアと同じだ。アムロだけの秘密だからこそ。
『言わぬが花』とはこういうことかとアムロは胸の中で独りごち、告げぬ言葉を呑み込む代わりに酒を呷った。
「相手が人ならば、情を交わす事もあるだろう。けれど、花が相手では片恋を永遠に続けるしかあるまい」
「それであなた、桜の代わりに俺を口説くことにしたのか」
気付かず己の感情に酔う男の、その詩的な気分の不意を突いてアムロが問うと、シャアは再び驚いたように沈黙した。
追い打ちをかけるように、愉快そうにアムロが言う。
「やっぱり、そのつもりだった」
真実を言うならば、シャアにその気はなかったのかもしれない。けれど、アムロが言葉に出して、その場の空気の流れを押し出したので、シャアも自分が、この宵にアムロを口説くつもりだった、と。それは多分、シャアの中に数多の泡のように浮かび上がる感情の流れの単なる選択肢の一つにしか過ぎなかったのだろうが、アムロが言葉に出すことで、男の目の前に突きつけた所為で。シャアの方もまんまとそれを拾い上げたらしかった。
「自分では、―――いや、そうだな、君から見たら分かり易いことこの上なかったか」
諦めたように男が言い、どこか途方に暮れたように溜息をついた。
勿論、アムロはシャアが『分かり易くなどなかった』事は知っていたが、もう知らぬ存ぜぬを決め込む。
「どうせ口説くのならもっとちゃんと口説いてくれ、分かるように」
「手の内を読まれて今更仕切り直せとでも言うのか」
これは些か不機嫌そうにシャアに言われた。しかし、アムロは知らぬ振りでそうだねぇと歌うように続ける。
この手の遣り取りは普段シャアの方に分のある分野なのだ。
詩仙にあらずとも酔えば酔うほど感情豊かになるあなたの、溢れ出るその輝きを桜だけにくれてやるなど。
「タイムリミットはこの酒を飲み終わるまで。どう?」
「君ね、それで一つずつしか買ってこなかったのか?」
初めから茶化すつもりだったのかと憮然と言われてアムロは微笑した。
そして、自信ありげににっこりと微笑んで宣言する。
「俺なら一言だね」
ひとことであなたを口説けるよ。
「なんだ、言ってみたまえ」
挑みかけるようにシャアが言った。どうでも口説かれてなどやるものかと、顔面に大書してあるような表情だった。
その言葉にアムロは暫く酒を飲みながら思考を巡らせるふりをした後、ひらひらと舞う雪だか花弁だかを目で追いながら、そうだねぇ、と呟いた。
シャアが飲み終わってしまうぞ、と言いながら温くなってきた残りを傾ける。丁度、飲み干すのと同じタイミングで、殊更何でもない調子でアムロはぶるりと身体を震わせた。ああ、寒いのか…と、シャアは思った。外気温は益々二人を冷やし、腹中の幾らもない酒精程度の燃焼では酒に弱くないシャアとはいえ、追いつくものでもない。このままでは風邪をひいてしまうか、しかしそれはアムロもそうだろうと考えていると、アムロに名を呼ばれた。
「シャア」
「なんだ」
「寒い」
その瞬間、アムロの体は金髪の男の胸の中に引き寄せられる。ばさり、と男が放り投げたらしい空の酒のカップが見事な放物線と共に手近な屑籠に放り込まれるのを、視界の端でアムロは捉えた。唇の端に、堪えきれない笑みが浮かんでくる。
「寒いのが嫌ならばもっと厚着で重装備でアルコールも仕入れて、―――ああ、全く腹が立つ男だな、君は!」
もの凄く苛立ったように耳元で言いながら性急に口付けられ、男の熱を分けて貰いながらアムロはひっそり笑った。
「あなたが暖めてくれるからいいじゃない。だって俺は、酒を飲んで花を愛でるために此処に来たんだから」
俺の咲き誇る黄金の花を。
囁いて優越感をくすぐってやると、アムロが己のものと決めている黄金の花は嫣然一笑の後、満開の時期を迎えたように、青年の身体を抱き寄せた。
「口説かれるのも悪くない」
「あなたと違ってマゾじゃないから、片思いは嫌いなんだ」
桜の精なら情を交わすこともないけれど、俺はそうじゃない、と囁かれ、シャアがその赤味かかった鳶色の癖髪にも口付ける。
「情の濃い恋人は好きだな」
「あなたの言葉は使い方が迂遠すぎるんだ」
苦笑を漏らしながら、アムロは男の首元に噛み付く。
酔うのならば、花ではなく、言葉にでもなく。―――ただ、俺に酔え、と。
「素直に言ってみろ、あなたが好きなのは?」
「無論、君、だ」
「宜しい」
その後でアムロは男の口調を真似しつつ、花が咲いた、と一言だけ呟いて。―――また、笑った。
**********
+++END
|