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”いいえ、あれはナイチンゲール。”
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平和に馴染まない。
地球で暮らすことも出来ない。
その体を抱えて、アムロ・レイは一人放心したように空を見上げていた。
重力に捕らえられた、飛べない鳥。
自由に宇宙を翔ていたのは、いったいいつの話だったのだろう。
夢だったのかもしれない、全て。
白鳥の少女に出会ったのも。
今のアムロには、他人の精神を関知することも、ニュータイプとしての反応速度も見られない。
使う機会がない、と言った方が正しいかも知れないが。
あれほど恐れられた「連邦の白い悪魔」は消えてしまった。
引力と重力という魔物に捕らえられた、只の人間。
ああ、だから。
唐突に分かった。
だからシャアはあんなに執拗に彼を宇宙へ誘ったのか。
今の自分は「アムロ・レイ」ではないから。
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ロミオとジュリエットって男同士の話じゃなかったよな確か、と苦笑する。
ナイチンゲールは最初で最後の逢瀬の後、
朝になってマントアへ旅立とうとするロミオにジュリエットがヒバリの声ではないと嘘をつく小夜鳴鳥のことだ。
そして、シャア・アズナブルのモビルスーツの名前でもある。
結局どこまで行ってもシャアと自分の道は平行線で、交わるのは文字通り交戦の時のみ。
宇宙へ旅立つ人類初めてのニュータイプを、先に行ってしまおうとするアムロを。
引き留めておきたいけれど、それは出来ない。
アムロは、人が苦手だった。人間そのものの、体温とか、気配とか。
なのに過敏すぎる彼の神経は、相手の感情をほぼ正確に汲み取ってしまう。
けれど、もどかしいくらいアムロは他人と分かり合えない。アムロには向こうが分かるのに。
ララァを通じて、シャアにはそれが分かったらしい。
彼女を除けば、多分この宇宙の中でたった一人、アムロ・レイという人間を理解することが出来たのはシャア・アズナブルという男だけだっただろう。
だったらみんなアムロの所に行ってしまえばいいのだ、とは余りに極論過ぎるとは思うのだが、シャアはそう考えたらしい。
ほんとうに馬鹿な男だ、とアムロは思うが、不快感は不思議なことに、無かった。
彼方と此方を行きつ戻りできる能力。
彼方、というのがどういうところかはアムロは上手く表現できないが、
其れがとても温かくて居心地が良くて、そして此方ではもう居ない『彼女』に会える場所だというのは知っている。
普通の人間なら、正気を保てないだろう。
只でさえ他人との間の壁が希薄になるのに。
何もかも分かり合えるというのがどんなに薄気味悪いことかは、考えなくても分かる。
特に広大な宇宙に溶けた人々の思念まで拾ってしまう、ニュータイプの精神感応の最終形態まで辿り着いたら尚更だ。
耐えきれずに、カミーユなどは精神自体をその海の方に持って行かれてしまった。
宇宙は二十億光年の孤独だ、と言ったのはどこの詩人だったか。
しかも、今でも宇宙は拡散を続けている。
隣の星系でさえ二百光年、だったらその途方もない距離を抱えて人が分かり合うには?
光も音も、空気の振動も限られている。だったら、伝える手段は?
本当はそれこそ地球が人類に課した枷なのだ、とシャアは言っていた。
見えるから、触れられるから、聞き取れるから、人は努力せず情報が伝達できる贅沢さに慣れているのだと。
分かり合えた振りをして、それでも理解はできなくて、だから争いとは極めてシンプルでプライベートなことなのだよ、と。
それを吹っ切った存在、重力という罪から解放されたのがニュータイプなのだ、と。
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そして今、丁度同じ事を目の前で赤いモビルスーツの男は繰り返す。
連邦軍の白い悪魔に向かって。
「戦争など、所詮はとても私的なものだよ。ただ、君と私が決定的に違うのは、
私は能動的にその中に身を投じ、己が主体であることを望んだ。君はあくまで受動的だった。それだけの違いに過ぎない。」
「そ…うか、な。」
言葉に詰まるアムロには、思い当たることは有りすぎるほど存在した。
そこに畳みかけるようにシャアが追い打ちをかける。
「では、一体君はなんの為に戦っているのだね?アムロ・レイ。」
「なんの、為…?」
暫く考えて、アムロは口を開いた。
彼も、もうマニュアルを拾って白いモビルスーツを何となく動かしていた少年ではない。
壮年と言っていい年齢に達してすら居る。
「自分のためだ、誰のためでもない。連邦の為なんかじゃ、決してない、そんなの願い下げだ!
俺はただ、…ただ、自分のためだけに戦って居るんだ。」
やっとこと導き出された答えに、不出来な生徒を誉める教師のようにシャアがふわりと微笑む。
「そうだな、私もだよ。奇遇だな。」
「…!!」
「真実は単純だ。つまりはそういうことだ、アムロ。だから私は戦争は極めて私的なものだと言ったのだ。」
「俺とあなたが同じ訳がない!」
「当然だろう。全く違う。当たり前だ。なし崩しに戦争に巻き込まれた君とネオ・ジオンの総帥である私が同じであって良いはずがない。」
シャアがいっそ呆れ果てた顔になった。
「アムロ、お前は戦闘のプロだ。ガンダムのパイロットで、事実上連邦の、またロンド・ベルのエースパイロットで、最強のニュータイプだ。
けれど、戦争はそれだけでするものじゃない。戦場以外で繰り広げられる部分は、寧ろずっと大きいのだ。
君で戦況は確かに変わるかもしれない。残念ながら、君は主役にはなれない。」
「…?」
アムロは首を傾げた。一見非難しているようだが、シャアの体からも口調からも怒りめいたものは感じない。
むしろ、同情とも言えるような柔和な波動だけだ。
金髪の男が、口を開いた。アイスブルーの双眸が溶けて柔らかくなる。
地球の、呪いながら焦がれ続けたあの星の色にとても似ている、とアムロは思った。
サングラスで隠すより、ずっといいのに、と愚にも付かない感想を抱く。
「アムロ、もう一度だけ言う。一緒に来い。君に重力は似合わない。
私なら、誰より高く君を飛ばせてやろう。そのことで君が悩むことはない。裁きは全て私が受ける。……」
「…シャア。」
「悩みたいなら好きなだけ、死ぬほど悩みたまえ。後悔もするがいい。だが、立ち止まることだけは許さないぞ、アムロ。
君も私も、遂に此処まで来てしまった。そろそろ、戦い以外の解決法を見つけても良い頃だろう、我々も。
疲れすぎたし、…老いたよ、私は正直。」
思わず、アムロは仰け反ってしまった。天地がひっくり返っても目の前の男がそんなことを言うとは思わなかったのに。
「あ、あなたがそんな事を言うなんて、意外だな。」
語彙の乏しさを嘆くアムロと対照的に、シャアは軽く言い放った。
「なに、私はいつも言っているさ。アムロ、一緒に来い、と。そうだな、君がこちらに来られないなら私が行ってもいい。」
その後、青い瞳が鋭い色を帯びる。
「ただし、まだあそこへ行くことは許さない。…お前がララァに会えるのは知っているよ。
宇宙の意志に溶け込んだ、居なくなった誰とでもその気になれば自由に会えることも。
けれど、お前はまだそこへ行く時期じゃない。」
アムロはちょっと目を見開いた。シャアがこう易々と彼女の名前を出すとは思わなかった。
未だに、鋭い痛みを伴う癒えない傷だろうに。
案の定、シャアは少し瞳の色を揺らめかせたが、すぐにそれは確固たる色に変化した。
「ララァは私を教え、導いてくれる筈だった。彼女が居ない今、その役目は君の果たすべきものの筈だ。」
「…あなたさぁ、時々思うけど、自分を何様だと思ってるわけ?」
憎まれ口を叩きながら、アムロは自分を縛り付けていた足首の重力の鎖が、ぷつんと切れたのを感じる。
アムロの足が、地面を蹴った。
「今、行く。」
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並んで狭い戦艦の廊下を歩いていると、ずっと俯いていたシャアが遂に笑い出した。
「…どうした?」
「いや、なに、随分上手くいったものだと思ってね。」
「…あのね。そんな簡単なものでもなかったよ、俺には。俺も、もう若くない。流されるだけだった子供じゃないんだから。」
流石にむっとした表情のアムロに、シャアは違う、と手を振ってみせた。
「君は与り知らない話なのだな、そうか、そうか。」
「だから、何がだよ!」
「いや?」
シャアは含み笑いをしながら心底愉快そうに続ける。
「出来損ないだ、なり損ないだと言われ続けたが、結局はこの歴史の主役は私だったと云うことだよ。」
「何を訳の分からないことを…。」
「君は易々と壁を突き抜けたが、後の人間にはそれが出来ない。
けれど、行ってしまった君には何故来られないかが分からない。
その為の私であり、君なのだ。私はいわば君の翻訳機だよ。人類の革新の前の。
君が神なら私は差詰めイエスと言ったところか。」
「…あなたって、いつも思うけど傲岸不遜の見本市みたいだよね。」
ふと、シャアが立ち止まった。まじまじとアムロの鳶色の瞳を覗き込むので、居心地が悪くなる。
「な、なに?」
「いや、君も随分口が立つようになったな、アムロ・レイ。昔は黙り込むだけだったのに。」
大人になったのか、と真剣に言う赤い軍服の背中を思いきり蹴り飛ばしてやりたい衝動をなんとか抑え、アムロはそっぽを向いた。
「拗ねるな、折角誉めてやったのに。」
「誉め言葉かよ、今のが?」
シャアが声を立てて笑い、アムロは不本意そうに男の横顔を睨み付けた。
ふいに、シャアが真顔になって傍らの男を振り返る。
「何度でも歴史が繰り返されるのなら、一度くらいこういう結末があってもいいとは思わないかね?」
「…え?」
アムロはきょとんと目を見開いた。まん丸な瞳をするとアムロは年齢よりずっと幼く見える。
シャアはそんな宿命のライバルを見下ろして苦笑した。
その後、告白を始める。
「アムロ、我々はνガンダムとアクシズが大気圏に突っ込んだ衝撃で、時空の歪みに飛び込んだのだよ。」
「…は。」
息を飲むアムロを前に、金髪の男は淡々と続ける。
νガンダム。純白の片翼の天使。一目見た瞬間そういう感想を抱いたが、その名の通り天意の使者だった気がして仕方がない。
アムロは本当に無自覚にあのモビルスーツを作り上げたのだろうか?
「私はもう、何度も君を誘った。そうして、君にはねつけられて、やっぱり君とサザビーで戦って、νガンダムはアクシズを止めて…。」
咄嗟に、何を言われているのか理解できなかった。
「ま…。」
待って、シャアは一体、何を……。
「そして私は、考えたのだよ。何度も繰り返す歴史の内に、君を捕らえる方法を、その間ずっと。」
「な、俺なんかを捕まえて、一体なんになるって…。」
シャアがにやりと笑ってみせる。私は馬鹿ではないからな、と付け加えつつ。
「チェックメイト、と言ったところだな。君が宇宙の新しい意志の鍵なら、君を手に入れることこそ人類の革新への偉大なる第一歩だと思わないかね?」
言いながら、外を指さした。
「見たまえ、アムロ。新しい刻が流れ出したのが見えるか?」
アムロはつられて狭い窓から外を見た。
丁度、地球の背後から太陽が昇ってくるところで、眩しくて目を閉じる。
それがどうした、とでもいうようにシャアを振り向くと、男は愉快そうに微笑んでいた。
「君になら分かるだろう。もしまた、我々が争って、同じ悲劇を起こすのだとしても…。」
自分も窓の外に目を向ける。
「アムロ、君は宇宙を翔るものであり、あの大地に焦がれても戻れないものだ。君があの大地の守護者で、それが宇宙の意志だというのなら、……」
そこまでで言葉を切って、隕石落としについての明確な言葉はなかった。この期に及んで立場がそうさせるのだろう。
代わりに、呟いた。
「希望というのは、麻薬のようなものだな。」
アムロが呆れたように茶々を入れる。
「シャア、買いかぶりすぎだ。俺はそんなに偉大な存在じゃない。」
「何を言う。君を戦場に何度でも連れ戻すものが、宇宙の意志でなくてなんなのだ。君は人類の希望なのだよ、アムロ。」
勝手にしろ、と言う代わりにアムロはぷいと横を向いて窓の外の地球に視線を戻す。
「…綺麗だよな。俺が護らなくても、きっと誰もが護りたいと思う。」
方法は違ったけれど、あなただってそうだったんだろう?
意識の奥底で聞こえた気がして、シャアは肩をすくめ、代わりに軽口を続行する。
「ふむ、過大評価と思うかね。私はそうは思わないのだが。…そうだな、では…正義の味方とでも言っておこうか?」
アムロがいっそうがっくりと脱力した。
「だ、れが…こんなトウのたった正義の味方が居るもんか。」
シャアが笑いを堪える表情で言う。
「照れるな、アムロ。」
「照れるかっ!」
平和より自由より正しさより、君だけが望むその全て。
シャアは笑いながら手を差し出した。
「アムロ、誰も君を許さないなら、ララァの代わりに私が君を赦すよ。片方しか翼がないなら、私が飛ばせてやる。…だから、行こう。」
「うん、それもいいかな、たまにはね。」
たまには、だからね、と念を押しながら。
アムロ・レイは刻の中で初めて、その手を握り返した。
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END.
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