交譲木

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「ゆずりは」

 それが、わたしの名前。

 父方の祖母が付けてくれたのだと、両親からは聞いている。五年前に死んだおばあちゃんは昔で言う「ハイカラ」な人であったらしく、記憶にある限り、いつでも綺麗にお化粧をして、ぴしっとしたお洒落な服を着ていた。
 それなのに、孫娘に付ける名前は結構古風だったのね、笑っちゃうでしょう? と、母は姑に当たるおばあちゃんのことを話しながら、いつだったかわたしにそう言った。もしかしたら、おばあちゃんの亡くなったお通夜の席とか、その辺りの記憶かもしれない。
 ゆずりは、という変わった名前は気に入っているとは言えなかったけれど、嫌いではなかった。初めて会う人はまず名前の意味を聞いてきて、小さい頃はそれが結構嫌だったけれど、大きくなるにつれてそんなことも少なくなってきたし、何より。
 田舎のおばあちゃんの家の庭には大きな譲り葉の木があって、まさに「葉っぱ」と聞いて想像する通りの形の葉を茂らせているのを見てから、この名前が完全に嫌いではなくなった。緑色の舟形に、枝だけが赤い大きめの譲り葉の葉っぱは、なんだか綺麗で、なによりも常緑樹で冬でも青々しているのが気に入った。
 それでも、完全に好きだと言いきれなかったのは、母に言われた言葉がどこか引っかかって居たからだと思う。
「あなたは女の子だからね、青々として茂って、譲り葉のように次の世代にちゃんと子供を残して、その時が来たら潔く譲りなさい、って意味なんだよ」
 母と祖母は決して仲のいい嫁姑ではなかったと記憶しているけれど、ことわたしの名前に関しては意見が一致したらしく、父が女の子の名前にしては変わっていないか、と名付けを渋ったときに、説き伏せてしまったのは母だったらしい。
 まぁ、上には既に兄が一人居たから、妹のわたしの名前くらい、っていう気もあったのかもしれないけれど、とにかく二十年には少し足りない冬の朝に、わたしの名前はそう決まってしまった訳だ。



 先に少し述べたとおり、わたしには兄が一人居た。九つ年上の兄は両親にも親戚の誰にも似ないくらい優秀で、国内で最高の偏差値を誇る大学にさらっと入ってしまったと思ったら、そのまま研究者になって海外に出ていってしまった。
 そのまま長い間音信不通(とはいっても、行方不明などではなく、ほら、独り立ちしてしまった男の子が、実家に興味を無くしてしまうあれだ)だった兄から、エアメイルが届いたのは、今年の春のまだ早い内のことだった。
『お久しぶりです。この度日本に転勤になったので、一度そちらにも帰ります』
 母は、あの子は本当に他人行儀で、と手紙の素っ気ない文面にちょっとだけ腹を立てていたようだったが、わたしは正直、もう十年以上会っていない兄に急に親密にされても、戸惑いが先に立ってしまっただろうことが予測されたので、どこかほっと胸を撫で下ろしたものだった。電話ではなく手紙、というのが兄とわたし達家族のその時の距離の象徴であったのだ。



 やがて、家の周囲の桜が花を付ける頃になって、本当に兄は帰ってきた。帰国を告げる兄からの電話を取ったのはわたしだったが、名前を聞いても誰なのかぴんとこなくて、少々気まずい思いを味わってしまった。
 家族が揃って夕食の食卓を囲んだ初めての晩、話を聞いたり学生時代の写真を見ただけのイメェジ上の兄は、線が細くていかにも研究者、といった感じの人だったのだが、実際にはどこにでもいるごく普通の人だった。当てが外れたように、どちらかというとがっしりした体系の、頑なそうな髪の毛を短く刈り込んだ男性が潤です、と兄の名前を名乗るのを見ていたら、兄は少し困ったように笑ってこちらを見たので、ああ、この人も突然妹が大きくなっていて、どうしていいのか分からないのだろうな、と思った。
「久しぶりだね、ゆずりは」
「お兄ちゃん、も元気そうで嬉しいわ」
 笑い出したくなるほど他人行儀。使い慣れないお兄ちゃん、という単語を必死で思い出していると、兄は今度は父と母の方を向いて、切り出した。
「父さん、母さん、僕は今度、中野の方にある研究所に勤務することになったんだ。それで、もしも良かったら、家に帰ってきても、いいかな」
 突然の話に父母は驚いた顔をしたが、ずっと家を離れていた長男が戻ってくることが嬉しくない筈がない。勿論だよと頷く両親を確認すると、兄は次にこちらを向いて同じ事を聞いてきた。
「いいか、ゆずりは」
「いいも、悪いも、ここはお兄ちゃんの家でもあるんだし…」
 わたしには、歯切れ悪くそう答えることしかできなかった。実際、どういう風に捉えていいかすらよく分からなかったのだ。



 優秀だった兄には狭い家の中でもきちんと個室が与えられていて、私が大きくなっても、まだその部屋は兄の部屋、であった。兄は両親の自慢の子供であったし、私には別に狭いながらも自分の部屋があったので、よく分からない専門書が沢山作りつけの本棚に取り残されている、時間に取り残されたような部屋に立ち入ることはあまりなかった。大学受験の時に参考書を探しに部屋に入ったときに、参考書どころかタイトルを見ても中身の想像がつかないような本ばかりだったのに辟易して、それ以降立ち入ったことはなかった。
 その、長い間閉ざされていた部屋は今ドアが大きく開かれ、窓も開かれている。最低限の衣類と近所の電化製品の量販店で購入してきたデスクトップのパソコンを備え付け、兄の引っ越しは呆気なく終了した。兄がアメリカから持って帰ってきたのは、本当にスーツケース一つ分ほどの衣類しかなかった。研究者の引っ越し、というと専門書や書類が大がかりに動くようなのを想像していたわたしが拍子抜けしながら床の雑巾がけを終えると、兄は礼を述べながら、仕事の資料は研究所の方に全て揃っているから、と言った。
「お兄ちゃん、お茶にしようよ。わたし、今日出かけたときにドーナツ買ってきたんだ」
「ああ、いいよ」
 うん、と凝った背中を伸ばしながら提案すると、兄は微笑して頷いた。わたしの記憶にあまり強く印象が刻まれて居なかった通り、兄は大人しく、どちらかと言えば無口な人間であった。所謂学者臭さはあまりなく、綺羅綺羅しい経歴から受ける印象とは、遠く離れた人物だったが、それでも、時々口の端に上る話題がやたらにアカデミックだったり、父よりは母に似た切れ長の黒目がちの瞳が常に微塵の迷いもなく真っ直ぐこちらを見つめてくるので、やはり内面にある頭の良さや才能は滲み出るものなのだとわたしはいっそ感心してしまった。
 リビングに降りて、洗濯物を畳んでいた母にも声を掛けて、わたしは台所でコーヒーメーカーをセットした。リビングの方で、兄がテレビをリモコンで点けているのが見えたので、声を掛ける。
「この時間はワイドショーくらいしかしてないわよ」
「日本の事情には疎いから、珍しいんだよ」
 そんな風に言う兄は、この家で暮らすようになってから、暇があるとテレビや新聞に目を通していた。テレビは専ら報道番組専門であったし、新聞も隅々まできちんと読んでいるようだったから、頭のいい人は生活態度が違うわ、と寝起きに半ば呆れながら一緒にニュースを眺めた覚えがある。朝はめざましテレビを見ているんだけど、などとはちょっと言い出せる雰囲気ではなかったのだ。勿論、わたしは新聞は一面以外はテレビ欄をななめに見るくらいが関の山である。
「ふぅん…いいけど、今日日曜日だからほんとに多分面白そうなのはないと思うよ」
 言いながら、ドーナツの箱を開けて中身を皿に移し替えた。それを持ってリビングに出ていく途中、畳んだ洗濯物を各自の部屋に配達に行く途中の母に、私にはこれを残して置いてよと注文を受ける。
「お兄ちゃん、ポン・デ・リング以外だったらどれ食べてもいいよ」
「ありがとう」
 言った後でこの兄にどれがポン・デ・リングなのか分かるか少し不安になったが、手に取ろうとしたら止めればいいだけの話なのでそれ以上はなにも言わなかった。兄が自分の取り皿に移したのはオールドファッションだったので、結局は取り越し苦労だったのだけれども。
 そのまま、コーヒーが出来るのを待ちながらわたしも何をするとでもなくぼんやりテレビを見ていた。兄との間に共通の話題などありはしないし、探り出すほど熱心にもなれなかった。テレビでは、どこかアジアの国から帰ってきた人が伝染病に感染していて、入院したとかさせられたとかいうニュースが流れていて、解説者が最近の若い旅行者は危機管理がなっていない、などと苦り切った顔でコメントをつけていた。息が詰まるような空気に、わたしはそわそわと腰を上げる。
「あ、そろそろコーヒー、入ったかな」
 言いながらソファから立ち上がって、兄を残して台所に戻った。完全に落ちたところのコーヒーをカップに注ぎ分けていると、丁度いいタイミングで母が入ってくる。
「お母さん、ポン・デ・リング残してあるからね」
「ありがとう、あら、ナイスタイミングだったみたいね」
 くすりと微笑みながら、母は兄の隣りに腰を下ろして早速ドーナツに手を伸ばしていた。兄はもう一つ別のドーナツを手に取りながら、どこか上の空のような口調で、アメリカのドーナツとは違うねと言っていたが、どこが違うかまでは口にしなかった。母はテレビ画面を見て、眉を顰める。
「嫌だわ、あの女優さん、離婚しちゃったのね。折角いい結婚をしたのに」
 まるで親戚の娘に口を出すような言い方に、わたしは笑いを堪えながらその前にカップを置く。
「結婚したときから危ないって言っていたじゃない、この女優さん、キャリア指向の人だし」
「最近の若い人は堪え性がないのが嫌だって言いたいのよ」
 じろりとこちらを睨みながら言われ、この間似たような理由で彼氏と別れたところのわたしは慌てて視線を逸らした。
 わたしと両親は仲の悪い親子ではなかったが、端から見ても当人達からしても、いっそ居心地が悪くなるほどの休日の家族の団らんの光景がそこにはあって、その事がなんだか例えようもないほどくすぐったくて、落ち着かなかった。
 そしてその原因が兄の存在であることは、明白に過ぎるほど明かなことでもあった。



 仕事の帰りに家までの街灯のやや薄暗い道を歩いていると、人の視線を感じるような気になったのも、丁度その頃からの話だった。気味が悪いので電車を一本早めたりしたが、その内朝方、出勤の時にもそんな視線を感じるようになった。思いあまって父に相談すると、父も同じような感じを抱いていたというので、驚いた。
「考え過ぎか、疲れているのだろうと思ったんだが、ゆずりはまでがそう思うのなら、気持ちが悪いな」
「警察に相談しようか、お父さん」
 言いながら、警察は気がする、というだけでは動いてくれないだろうと思ったし、それは父も同意見のようだった。
「まぁ、オレには人に見張られる覚えはないし、お前もそうなんだろう?だったら、気のせいだろう」
「そうね」
 心情的に納得したとはいえなかったものの、他にどうしようもないので父との会話はその日はそこまでだった。



 父と話をしたその翌日、全ての朝刊の一面をセンセーショナルなニュースが駆けめぐっていた。

『新型ウィルスか?! 感染症で西アフリカ湾岸では死者二千人以上』
『ヨーロッパ諸国、続々非常事態宣言、入国者を制限』

 朝一番に朝刊を取りに出ていって、外国のことがトップニュース扱いなんてすごい、と驚いたわたしがリビングに入っていくと、兄が険しい顔でテレビを見ていた。テレビ局も、朝からずっとエンドレスでこのニュースを流しているみたいだ。
「なに、このニュース」
「ああ、おはよう、ゆずりは」
「おはよう、お父さん、お母さん、お兄ちゃん」
 両親と兄に朝の挨拶をしながらも、わたしの視線はテレビ画面に釘付けだった。沢山の死人が出ている原因不明の伝染病だ、と言う割にキャスターの声がどこか現実味を帯びていないのは、遠く離れた海外での出来事だから、なのだろう。
「昨夜、ウェブのニュースで見たよ」
 ぼさっと突っ立ってニュースに見入っているわたしに、兄の低い声が聞こえた。はっとして振り返ると、兄は別人のような厳しい表情で、もう一度、見たよ、と繰り返した。その後の、始まったんだ、という言葉はでも、多分わたしにしか聞こえていなかったのじゃあないかと思う。



 その日、いつものように出勤しようとすると、普段はわたしより後から家を出る筈の兄が、僕も行くから、と一緒に玄関を出てきた。
 相変わらず兄との対話に不自由していたので、少し気詰まりだったけれど、断る理由もないので駅までの短い道程を一緒に歩いていった。どちらも終始無言で、ただ私が乗り換えのため電車を降りるときにだけ、兄はまた今夜、と小さく言いながら手を振ってくれた。



 世界の何処かで異変が起こっていても差し障りのない日常業務を終え、少しばかりの残業をこなして帰宅の途に着いていたわたしは、すっかりここ数日の懸念のことを頭から忘却してしまっていた。思い出したのは、もう少しで家に着くという所で黒服を着た、映画か何かから出てきたような男が、突然わたしの前に立ちはだかった時だった。
 息を飲んで悲鳴を上げようとすると、相手は自分達は怪しい者ではない、とセオリー通りの台詞を言いながら名刺を差し出してきたので、わたしはあげかけた悲鳴を引っ込めてしまった。それでも、出された名刺と男の顔を何度も見比べていると、男が苛立たしげにわたしの家を指した。
「この家は、ドクター・ムラカミの家なのだろう?」
「うちは、確かに村上ですけれど」
「ジュン・ムラカミは、この家の住人ではないのか」
 兄ですが、という言葉は呑み込んだ。代わりに、ポケットの中の携帯電話にそろそろと指を伸ばしながら後退る。映画のように突然拳銃を出したりはしないわよね、と思っていると、男が勘違いしないで欲しい、と言った。言った後で、ゴホゴホと軽い咳をしながらじっとわたしの方を見る。落ち着いて観察すると、彼はアジア系ではあるけれど、どうやら日本人ではないようであった。
「私達はドクター・ムラカミに会って話がしたいだけだ」
「だったら、仕事先に行けばいいと思いますけれど」
「ドクター・ムラカミは我が国国防総省の抱える研究所の一つを出奔して以来、行方不明だったのだ」
「え」
「ドクター・ムラカミの職場を知っているのかね、貴方は」
「それは」
 思わず振り返る。毎日定刻通りに出かけて定刻通りに帰宅する兄が、どこに勤めているかなど、考えたこともなかった。母が尋ねたときはなにやら難しげな横文字を並べていたし、ましてよもや。よもや、あの兄が。真面目そうで、優秀な兄が、家族を欺くようなことなどしよう筈もないし、したところでなんの特にも。男の言葉に動揺するわたしに、またあの耳障りな咳が聞こえてきた。咎めるような視線を送ると、男は口元を手で抑えながら、失礼と短く言って、ポケットからマスクを取りだした。
「マスクを着けさせて貰うことにする。ドクター・ムラカミは、とある世界的な事件を研究していたチームの一員だった」
 こちらにも某かの事情を説明した方が話が早いとでも思ったのか、唐突に男が話を切りだした。三文芝居か夜のドラマの筋書きじゃあるまいし、わたしが返事も出来ずにいると、男はなおも現実味のない話を続ける。
「丁度、一ヶ月ほど前の話だが、その研究所が使用薬品の誤使用で、爆発事故を起こした。研究所の人員の生存は絶望的だと見られていたが、その後の調査でドクター・ムラカミはその日研究所に体調の不良で出勤しておらず、しかも事故を知るやそのまま全てを投げ出して帰国してしまったことが分かった」
 そこまで聞いて、わたしは今度は瞬時に蒼白になった。
「まさか、兄がその研究所の爆破を仕組んだ、とか言うんじゃないでしょうね」
 口調が攻撃的になる。身内を庇うというよりも、良く知らない兄とはいえ血の繋がった家族の中にそんな空恐ろしいことを出来るような人間が居るはずがないと思いたかったのだ。男は、げほん、と一つ咳払いをした後で重々しく告げる。
「その辺りは何とも言えないが。ドクター・ムラカミに、チョウが来たと言って貰えないか。それでこの名刺を渡せば、彼ならばきっと事情を理解するだろうから」
 さぁ、と再び差し出された名刺をおぞましいものでも見るようにわたしはじろじろと眺めたが、意を決してひったくるように受け取ると、それきり後ろは振り返らずに家までの短い距離を走った。背後から追いかけて来るような、男の乾いた咳払いの音がやけに耳について離れなかった。



 コンコン、というノックの音が廊下に変な風に大きく反響して、背筋がぞくっとした。
「お兄ちゃん」
 その晩、意を決して兄の部屋を尋ねると、兄はデスクの上でノートパソコンを立ち上げて居るところだった。返事を貰い、部屋に入ってパソコンに視線を送ると、画面上には横文字のウエブサイトが表示されている。兄は椅子に座ったまま体だけこちらに回し、何か用事だろうか、と聞いてきた。わたしは素早く兄の部屋のドアを閉めた。今日は遅番のパートに入っている母はまだ帰っておらず、父も普段はもう少し遅い時間に帰ってくるため、現在この家には兄とわたしの二人だけしかいないはずであった。
「あのね、お兄ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるの」
「どうした?」
 兄の背後では、窓がカーテンごと開けられていて、そこから隣の家の庭に植えられている桜の木が見えた。この時期の出勤の行き帰りに、いつでも開花を楽しみにしているその桜は、七分咲き程の姿を晒して、はらはらと僅かに花弁を落とし続けているのが遠目でも見て取れた。その桜を見ながら、わたしは今日の出来事をそう切り出そうか迷って、迷った挙げ句この兄に半端なことは言わない方が良い、と思ってポケットに入れっぱなしだった名刺を出して、兄の方に差し出した。
 兄は不審そうな顔をしてその名刺を受け取ったが、すぐに驚いたような顔をしたから、わたしはざっと自分の顔面から血の気が引くのを感じた。
「知ってる、人なんだ…」
「向こうで少し。ゆずりは、一体どこでこの名刺を貰ったんだ?」
「その人、ずっとうちを見張ってるよ、見張ってるんだよ、お兄ちゃん!」
 思わず、わたしは大声を出して兄を問い詰めたい衝動に駆られた。一体何を隠しているのだと。
「何を言われたんだ、ゆずりは」
「お兄ちゃんが勤めていた研究所が爆発して、大変なことになっているのに、お兄ちゃんが逃げたから、探していたんだって言ったのよ、その人」
 嘘だ、と言って欲しかったので、わたしは殊更きつい口調で兄を詰った。しかし、驚いたことに、兄はそうか、と一言呟くと、考え込むような表情で再び名刺に視線を戻したのだ。
「ちょっと、お兄ちゃん!」
「なに」
「心配じゃないの、ひょっとしたら爆発の犯人と、人殺し容疑だよ、やっぱり、警察に頼んで」
「ああ、絶対にそんなことにはならないから気にしなくて良いよ」
 兄はなんだ、とでも言うような気楽な返事をして、くるりとわたしに背を向けてパソコンを操作し始めた。その態度に苛立って、わたしはしつこく食い下がる。
「そんなことって、分からないじゃない、もしも関係がないなら関係がないって言うべきだよ、でないと」
「でないと、もなにも、何もかも今さらじゃないか」
 鬱陶しそうに言った兄は、その後でわたしの方を向いて、もしかしてお前はなにも聞かなかったのか、ゆずりは、と続けた。
「聞くってなにを。ねぇ、言いがかりなら警察に行った方が良いよ、お父さんも心配しているし」
 しかし、そんなわたしの言葉を裏切るように、兄はゆっくり頭を振ると、研究所が爆発事故を起こしたのは本当だよ、と呟いた。
「そうして僕が日本に出奔したのも」
 その台詞にわたしは目の前が真っ暗になって、耳の奥がやけに痛くなって、掌に嫌な汗をじっとりとかいてしまった。
「嘘」
「僕は、研究所が爆発すると、すぐにアパートメントを引き払った。そして、うちに帰ることにした」
 兄は淡々と言いながら、窓の外に視線を向けた。
「うん、多分、僕が国外に出て、日本に帰ってきたことが発覚したんじゃないかな。自分のパスポートですごく普通に帰ってこられたから、おかしいと思っていたんだ」
 もしかしたら、そこには夕刻に出会ったチョウという男が立っていたのかもしれない。けれども、思い詰めたわたしの目には窓の外は漆黒の闇としか映り込みはしなかった。
「どうして…?」
 辛うじて意識の全てをかき集めて声を絞り出すと、兄はどこから話せば良いのか、と言い置いて口を開いた。

「僕が帰ってきたのは、本当にただ家族に会うためだった。僕には、家族しか残っていなかった」

 その言葉の意味がさっぱり理解できずにいると、兄は僕はね、と続けた。
「ある生物兵器の研究をしていた。南極で古い隕石の内部から発見されたとかいう新種のウィルスで、炭疽菌なんかよりも余程威力の激しいやつだ。感染したその日に、花粉症のアレルギーのような軽い症状が出る。脇の下に紫斑が出ていたら、間違いなくこいつに感染している。その後大体一週間は何事もないけれど、一週間を過ぎると、爆発的な症状が現れることになる」
 呼吸困難や高熱とともに、眼結膜炎、咽頭痛、筋肉痛および頭痛があり、次いで胸・腹部痛および粘膜からの出血を示す。死亡原因の殆どが消化器官からの出血だ、と兄は研究者らしい口調で淡々と続けた。
「致死率は百パーセント、だから厳重に、慎重には慎重を重ねて管理していたはずだった、なのに、研究所が爆発した」
 後のことは、想像通りだ。今朝ゆずりはもニュースを見ただろう、と言われて、わたしは目を見開いた。完全に脳内は思考のパニックに陥っている。
「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん、冗談にしては質が悪いし、嘘にしては映画の粗筋みたいよ」
「みたいじゃなく、本当のことだよ。一旦感染すれば、発症を防ぐ方法はない。ワクチンさえ、まだ開発されていなかった」
 僕は試作品の抗体を体に注射してあるけれど、と兄は続けた。
「二次感染予防は徹底していたし。『病室での感染者、患者の血液、体液、排泄物の取り扱いには必ず手袋、マスク、ゴーグル、ガウン、長靴などを使用し、接触感染を防ぐ。素手で取り扱ってはならない。患者の使用物、接触物はすべて病室から出す前にオートクレーブ、薬液消毒などの処理を行う。注射器は絶対に再使用してはならない。』と言われて、みんな怖いから忠実に守っていたのにね」
「お兄ちゃん」
「なのに、爆発事故で死ぬなんて、あのウィルスが世界にばらまかれるだなんて、とんだお笑い種だ」
 チョウも、その後ろについている人達も不安なんだろう、ワクチンが完成していたのかどうかが知りたいんだろうと思うよ、と兄は続けた。
「でも、研究所は研究内容ごと永遠に失われてしまった。今さら何処にも逃げはしないし、逃げられやしない。よしんば今からワクチンが精製できるとしても、それは人類が滅びる速度に間に合わない」
 だからね、僕は、と兄が小声で続ける。

「明日目が覚めて、世界がごっそり無くなっていたら、と思うと怖くなったんだ」

 だから、家に帰ってきた。週末の日々を過ごすために。兄に言われ、なんて勝手な言い分を、そして何を今更言うのだ、と思った。何を言っているのだ、世界はもう、失われ始めている。

 昔読んだ何かの小説の中身を思い出した。確か、そう。有名なホラー作家だ。人は、赤い糸と黒い糸の二本の糸で運命の相手と結ばれているという話だ。赤い糸の相手は言うまでもなく結婚相手で、そうして、黒い糸で結ばれている相手は、その人が死ぬときに立ち会うことになっている運命の人、つまり死神、というわけだ。普通は、赤い糸の相手と黒い糸の相手は同じだろうから、不都合はないけれど、もしも黒い糸の相手が見知らぬ人であったなら。まさに、死神、だろう。


 兄の左手の小指から伸びている黒い糸は、はっきりと地中に吸い込まれていた。さしもに鈍いわたしも、気付かざるを得なかった。兄は、私達家族の死神などではなかった、兄は。


 けほん、と軽い咳が喉をついた。はっとして喉を押さえる。脳裏に、あの日わたしに名刺を差し出した男の咳払いが蘇った。
 まさか。驚愕して目を見開くと、兄も同じ事を思ったのか、絶句してこちらを見ている。


「ゆずりは」


 兄がわたしの名前を呼んだ。その後で、君も感染したのか、と言うと困ったように、じゃあ父さんや母さんにも感染しているだろうね、と淡々と呟いた。惜しむようではあるが、突き放した言い方に愕然とする。誰だ、この男は。こんな男が兄でなどあるものか。

 目の前の見たこともない男は、ゆっくりと首を振って、可哀相に、と呟いた。
 ざわっと風が吹いて、桜の花がこちらの窓に向けて吹き込み、辺り一面に散らばった。唐突に、理解した。死ぬのは、地球じゃない。人間という生き物だ。


 散り行く桜を見ながらわたしは口唇をきつく噛んだ。

 人間が滅びるときに、潔く死んでいけるように、譲り葉、なんて名前だったとしたら、なんて皮肉なんだろう。

「可哀相に、ゆずりは」

 全然可哀相だなんて、思っていない癖に、と。言いたかったけれど、言葉を漏らすのが恐ろしくて、わたしはもう一言も発することが出来なかった。玄関が開いて、遅番のパートから帰ってきたらしい母の声がしたが、それもどこかもう遠くの世界の出来事のようであった。

 涙なんて絶対に流すものかと思った。潔く死んでやるものかと思った。思った途端に息が詰まり、またげほげほと咳き込んだ。

「ゆずりは」

 それが、わたしの名前。大嫌いになった、わたしの名前。

 おばあちゃん、知っていてこの名前をわたしに付けたの。どうしてわたしだったの。

 答えなんて、今は何処にも見つけることが出来なかった。








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+++END.

 

 

シェアワールド企画、「週末の日々」への投稿作品。
「世界が終わる一週間前」がテーマで、週末は謎の感染型ウィルスによること、など幾つかの取り決めを元に書いたものです。
??葉の木は、家に大きいのがあって、毎年葉をつけるのです。
それで、主人公の女の子はこの名前に。
主人公のお兄ちゃんが地球にとっての死神で、主人公は人間が潔く代替わりするから、ゆずりは、そんな感じで書いた気がします。
随分昔に投稿した作品なので、時代が伺えます(今ならドーナツはクリスピー・クリームのにしてた!)

自分で書いておいてなんですが、個人的にはすごく好きな話です(笑)

 

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