それはまだ彼が大学の三回生であった頃。
帰り道の途中で突然の雨に降られ、傘を持っていなかった彼は、
一緒に映画を見に行くつもりで待ち合わせていた当時高校二年生だった従妹の少女共々ずぶぬれになってしまった。
「こんなんじゃ映画は無理だな・・・」
「そうね、またにしましょ。ここからなら、うちの方が近いわ。走って帰って服を乾かしましょう。風邪を引いちゃうわ。」
青年が一瞬詰まったのは彼が彼女の父親―彼の叔父と決して仲が良くはないからである。
だが彼女は、彼のそんな心の内を読んだかのようにこう付け加えた。
「心配しなくても、今日うちの両親は接待旅行中で帰ってこないから。」
留守中に彼女しか居ない家に上がるのもそれはそれで無用の誤解を招きそうな気はしたが、風邪を引いてもつまらないので彼は彼女の厚意に甘えることにした。
「じゃ、タオルだけ貸してもらおうかな。」
「それと、乾燥機もね。」
彼女が小さく笑いながら付け加えた。
それでも彼女のうちにつくまでにはまだ十分近く雨の中を走らねばならなかった。
玄関ホールに飛び込んで、軽く服と髪を絞ると、そのまま一気に廊下の突き当たりのバスルームまで走る。
どうせどちらかはずぶ濡れのままで上にタオルを取りに行かなければならないので、少しでも床を濡らさないように、という配慮である。
「ああ、ほんとにずぶ濡れになっちまったな。」
「待ってて。今タオル持ってくるから。」
そう言って彼をバスルームの前に残し、従妹は廊下を戻っていった。
彼は辺りを見回す。
この家に入るのは久しぶりだ。彼等の祖父が生きていた頃は結構お互いに行き来していたものだが、
祖父が死んでからは滅多に訪れることはなくなった。たとえ訪ねても玄関先までである。
従妹の方はしょっちゅう彼のうちに出入りして何くれと家事の面倒を見てくれているのだが・・・
彼が考え事を終わらせないうちに、律動的な足音と共に従妹が二枚のバスタオルと父親のものらしいバスローブを抱えて帰ってきた。
「これで体拭いて、これ来て、服は脱いでくれる?私のも一緒に乾燥機で回すから。」
彼女も制服をすっかり濡れぶきんにしてしまったので早急に乾かさなければいけないのだという。
彼は出されたものを素直に受け取ると、まず上半身を脱いで体を拭き始めた。
彼の後ろでは、彼女が身じろぎする気配がある。どうやら濡れたブレザーを脱ぐのに手間取っているらしい。
彼が体を拭き終わってもまだじたばた格闘している気配があるので、躊躇いつつも彼は声をかけた。
「その・・・手伝おうか?茉理ちゃん。」
「・・・お願い。」
返事を確認してから振り返る。従妹はブレザーの袖から腕が抜けず、困り果てているらしかった。
彼は人並み以上の膂力の持ち主なので、服を破らないように気をつけながらそろそろと袖から彼女の腕を抜いてやる。
「はい。」
「ありがとう。助かったわ。」
従妹がにっこりとほほえむ。濡れた髪が顔の周りにまとわりついているのが何となく色っぽくて、彼は内心ちょっと動揺した。
年頃のせいもあるだろうが、近頃この従妹の笑顔やちょっとした仕草などがたまらなく魅力的なものに思える。
「いや、別に・・・」
口の中でつぶやくように返事を返す。そんな彼の内面に気づいているのか居ないのか、
彼女はタオルを手に取った。ブラウスの襟元をくつろげてから、髪を拭く。
一瞬、・・・いや、しばらく、彼はその白いうなじと濡れた白いブラウスから透ける肌の色に目を奪われた。
ブラウスの下に何も来ていないから、下着がはっきりと映っている。
スカートも濡れて体にまとわりつき、ほっそりしたウエストのラインを強調している。
「・・・!!」
彼は自制心の限界が来る前に、慌てて回れ右をした。
危うく彼女の両親に顔向けができない行為に及ぶところだった。
背後でばさばさ、と服が落ちる音がする。どうやら着替えているらしい。
勘弁してくれよ、と彼は思った。いくら信頼されていると言ったって彼はまだ血気盛んな二十歳の青少年である。
自分の自制心に完璧な自信はなかった。しかし、立ち去ろうにも足がすくんだように動かない。
「もうこっち向いてもいいわよ。」
長いような短いような時間が経過した後、背後から彼女の声がかかり、彼は呪縛から解き放たれたように後ろを振り返り
―また硬直した。
「後ろを向いててあげるから下も脱いじゃってね?そしたら乾燥機にかけるから。」
そういう彼女はTシャツに着替えている。・・・着替えているの、だが。
下に何も着ていないのが容易に想像できるTシャツとすらりとした足が伸びるショートパンツの上下に、
彼は不本意ながら最後の自制心の堤防が音を立てて崩れてゆくのを感じた・・・
最初に唇を求めたのは、どっちだっただろう。
そんなこともわからなくなるくらい、夢中で何十回もキスをした。
触れるだけの軽いものから、どちらかが声を挙げるくらい甘いものまで。
バスルームの床に押し倒されたとき、彼女は抵抗らしい抵抗はほとんどしなかった。
まるで、彼とこうするのが当然のことであるかのように。
それをいいことに、彼は彼女の体のあちこちに指と唇をはわせた。
日頃強く己に戒めている倫理観も貞操観念も強い欲望の前に屈服させられてしまったらしい・・・
一瞬だけおれって教師志望じゃなかったかなぁ、という思考が頭をかすめたが、すぐにそれに倍する感情の高まりにかき消されてしまった。
彼女は何もいわなかった・・・
名前でも呼んでしまえば、自制心の強い彼の理性が飛んで帰ってきてしまうのを経験によらず知っていたので。
白い肌に無数の赤い跡を付けられながら、私ってアクジョかしら、と彼女は一人ごちる。
彼を制止しようとしないのは彼女自身が彼が欲しいからだ。
―まっとうに待っているだけでは彼女の欲しいものはいつまで経ってもきっと手に入らない。
そう、日頃自主自律の精神の固まりのような彼のこんな情熱的な姿は。
――私は始さんがずっと欲しかった。
綺麗だ、熱に浮かされたように、彼はそう思った。
五つも年下の従妹が彼にとって「被保護者」から一人の女性になったのはつい最近だ。
いつまでも彼の後ろをくっついて歩く小さな女の子のような気がしていたのに・・・
高校に入って、彼女へのラブレターの数が桁違いに増えたと彼女より一つ年上なだけの彼のすぐ下の弟が言っていた。
彼を見つめているような、感情の高まりを堪えているような・・・
そんな彼女の瞳を見つめているとふいに不安になってしまうことがよくあった。
このまま、彼女に捕らえられてどこにも行けなくなるのではないかという想いと、そうなりたいという渇望にも似た乾きと。
しかしそんな感情は、古風な貞操観念を持つ彼にはとうてい容認できるものではなかった。
若い血の欲するものを自身の頑固なまでの物堅さは完璧に統制し、抑圧に成功していた。
あるいはそれは、肉欲ではなく恋情と呼ばれるものであったのかも知れない。
しかし現実としてその二つの距離はあまりに近く、「純情な感情」が果たしていつまで保てるのか保証の限りではない。
もし、このような彼の従妹への気持ちを彼の唯一の肉親である祖父が知ったなら、嘆息しつつこう言っただろう。
「理屈が多い。」
―――彼は同世代の青年達よりはるかに自制心も強く、禁欲的でよくものも考えていた。
しかし、理屈だけで物事がすべて理解できたような気がする程度にはまだまだ人生経験が未熟であった。
キスをして、彼女の体に愛撫を加えていた彼だが、
それ以上のことをするには日本人離れした彼の肢体にはいかんせんバスルームは狭すぎた。
青年は名残惜しそうに彼女の体を堅く抱きしめてから、体を起こし、彼女にも手を差し出した。
彼女もその手を取って体を起こした。手を離さず、彼をじっと見つめる。
―これだけで終わるんだろうか。
戸惑いがちな消極的思考の精神波が内面で泡立つ。
従兄の性格からして、このあたりで正気に返るというのはいかにもありそうなことのように思えた。
本当のところ、彼女の精神も相当高揚していて、「今更やめられても・・・」という気持ちがある。
何もその気持ちが伝わったのではないのだろうが、彼の方も従妹から目が離せなかった。
潤んだ瞳。上気した頬。半裸で彼を誘う完璧な肢体。
とっさに理性とは別のものが「あそこなら大丈夫」と彼女の部屋の位置を検索した。
かなり躊躇ってから、彼はせっかく失調から回復しつつあった理性にもう一度留めのボディー・ブローを喰らわす羽目になった。
手を取ったまま、彼が二階へと彼女をいざなう。
その意図するところはあまりにも明確で、あまりにもこの従兄らしからぬ行動に彼女の緊張はいやましされる。
冗談でもふざけているのでもない、真剣に彼は彼女を求めている。
胸が高鳴る。期待と、それをはるかに上回る不安。
彼女は頼もしいこの従兄の名前を呼びたくてたまらなかった。
彼の名前は彼女にとってはお守りであった。不安になったら、彼の名前を唱えればいい。
今まで何度もそうやってピンチを冷静に凌いできた。
それでも彼女は声を出さない。
一言でも声を発したら魔法はとけてしまう。どちらもがそう信じているかのように、二人は無言のまま廊下を歩いてゆく・・・
従妹の部屋は白と青系の家具で統一された感じの良い部屋で、家事の名人である彼女の部屋らしくよく整頓されていた。
今、その一隅にあるベッドはその主人のほかに出会ったこともないような長身の青年を受け入れることになり、定員オーバーだ、と不服の声を挙げる。
「・・・底が抜けたりしないだろうな、これ。」
「大丈夫だとおもうけど・・・」
その後にはまた沈黙。
時々わずかに紡ぎ出される声とベッドのスプリングのきしむ音、そして衣擦れの音だけがこの部屋に人が居ることを告げるのみであった・・・
世界はまだ沈黙に支配されている。
彼女は強い睡魔におそわれながらも眠れないで居た。
隣で横になっている従兄もきっとまだ起きているのだろう。
時々身じろぎする音が聞こえる。彼女は観念して体を起こした。
「・・・寝るのは無理みたい。」
呼応するように体を起こした青年にそう告げる。彼もわずかに笑いながらおれもだよ、と言ってくれた。
「・・・起きちゃおうか。」
「そうだな・・・今、何時だ?」
「七時半。大丈夫?帰らなくて。」
「・・・一応遅くなるとは言ってあるんだが・・・」
映画見て、その後夕食を食べに行って遅くなるつもりだったからなぁ。彼はつぶやく。
予定外も甚だしい。弟たちに聞かれたらなんと言おう。
――弟たち
その単語に、彼の頭の中で急速に日常性が回復する。
そうだ、弟たちに帰ってからなんと言えばいいのだろう。
いや、それより自分は叔父の家に留守中に上がり込んで何をやって居るのだ。
血の気が音を立てて引いていく。
理性と倫理観が長いダウン時間を終えて彼の意識に痛烈なアッパーカットを加えた。
「・・・始さん?」
頭を抱えた青年に彼女が心配そうに声をかけた。
とはいえ、彼女にも今彼が何を考えているかくらい一目でわかる。
…ほんとうに真面目なんだから。
このままでは首をくくりかねないので彼の頭を優しく抱えながら囁いた。
「・・・後悔してるの?」
「かなり。教育者失格だな・・・何のために教職課程を取ってるんだか・・・」
「・・・嫌だった?」
「まさか。だが・・・」
おれの信念を大きく裏切ってしまっただけだよ、これからはもう人にとやかく言う資格はなくなってしまったな、と苦笑とも自嘲ともつかない顔で答える。
「・・・ごめんよ。茉理ちゃん。」
そういった瞬間に従妹に思いっきり頭をはたかれる。
「その台詞、もう一回言ったら本気で怒るからね。
なによ。さっきから聞いてたら失礼なことばっかり。
わたしがエデンの園でイブを唆した蛇みたいじゃない。」
「あ、いや、そんなつもりは。」
「なんかこっちまで悪いことしたみたいな気分になっちゃう。」
「・・・すまなかった。」
やっと冷静になった青年が頭を下げる。
思えば、恋人と愛を交わすことが悪いことのわけがない。
確かに謝るのはお門違いだし、不安だったろうに彼を受け入れてくれた彼女に失礼なことだ。
ただ、時と場合が青年のひととなりに誤解を招くようなものであっただけで。
いくら倫理観が古くさいといえど彼だって「婚前交渉なんてとんでもない。」とまで言う気はない。
ただ、留守宅に上がり込んでこそこそ、という状況が不本意だっただけだ。
彼女のご両親に申し訳が立たないことをしてしまった。
取りあえず、彼は十年一日の使い古された台詞を口にしてみた。
「・・・責任はとる。」
従姉妹が大きな瞳を呆れたように見開く。
「まぁたぁ。堅いこと言って。ほかに何か感想無いの?」
「・・・ごめん。」
「ほらまた謝る・・・」
「あ。」
堅物もここまで来ると彼女の方も苦笑するしかない。
――まあいいか。目的は達成したもんね。
彼女は人の悪い笑いを浮かべた。長身の青年の耳元で、小さく囁く。
「ね。責任とるっていった?」
「・・・ああ。」
「じゃ・・・教えて?私のこと好き?でないと、責任とってもらっても困っちゃう。」
「・・・・・・・・っ」
青年の性格を分かり切っていて聞いた、かなり意地の悪い質問である。
青年は真っ赤になって俯いてしまった。
そんなこと聞かなくったってわかってるだろう、とぼそぼそつぶやく。
彼女はにこにこしながらそれを見守っている。やがて観念したように青年が口を開いた。
「おれは・・・茉理ちゃんが・・・」
「・・・全く、兄さんも堅いんですから。桜の間で寝ればいいのに。」
「馬鹿いえ。そんな茉理ちゃんのご両親に顔向けのできないようなことができるか。」
京都の左京区にある、共和学院の寮。
先ほど日本に帰ってきたばかりの竜堂兄弟の長男と次男が今夜の部屋割りについて軽口をたたき合っている。
それを横目に見ながら、桜の間で泊まっている茉理は二年前のことを思い出して小さくため息をついた。
初めて彼女を抱いたあの晩から、始とは一遍もそういうことになったことはない。
彼自身もそんな雰囲気にならないように気をつけているのだろうし、彼の理性自体があのときは相当失調状態だった。
しかし何と言っても「既成事実」があることは動かしようもなく。
『今更顔向けも何もないと思うんだけど・・・』
もちろん、彼女の物堅い従兄はあの後から茉理に対して『責任をとる』つもりらしい。
長いつきあいなので、態度の端々から彼が茉理を「将来の相手」として認識していることくらい察することができる。
「竜の生け捕りって言うのかしら、これって。」
ある日のデートの途中、そう言いだした茉理を、始は『何を言い出すやら・・・』という非難がましい目で見つめてから、
「大事にしてくれよ、それなら。多分特別天然記念物ものなんだから。」
と、ぼやいた。
「ユニコーンは乙女に弱いって聞くけど竜はどうなのかしらねぇ。」
「・・・・・・」
始は『もう乙女じゃないだろう』というツッコミを入れかけて思いとどまった。
彼が口にするべき台詞ではない。しかも彼は実際女性には甘い。かわりに、
「おれが弱いのは茉理ちゃんだけなんだけどな。」
と言う聞きようによってはとんでもない殺し文句だが、彼が言うだけに他意がないのは分かり切った反論を述べたものだ。
それでも、茉理は一瞬言葉に詰まって真っ赤になる。
「・・・ほんと天然タラシ・・・」
「・・・なんか言ったか?」
きょとん、として始が振り向く。どうやら殺し文句を口にした自覚は全くないらしい。
――これだから意外ともてて困っちゃうのよね。
「ねぇ。」
その始の耳元に茉理が何事か囁く。始が顔をしかめた。
「・・・ここで?」
「うん。」
茉理はにこにこと笑っている。
この子がこーゆー笑い方をしている時ってたいていとんでもないことを頼まれるんだよな、と始は苦笑しつつ・・・
誰にも見られないように、彼女に静かに唇を寄せた。
あの時のことを思い出しながら、始の側に近づいて、そっとシャツの袖を引く。
「・・・なに?」
青年が長身を振り向かせて彼女の方を向いた。
その濃紺の瞳の奥底をじっと見つめながら、彼女は彼の他の従兄弟たちが誰も居ないのを確認して。
背伸びして、キスをした。
始が慌てたように飛び退く。
「まっ・・・!こういうところでは、」
「やめろって言うんでしょ?分かってるわ?」
にっこりといつもの無邪気な微笑みを浮かべる従姉妹に、とことん骨の髄まで甘い青年は言葉に詰まって。
この幸せな頭痛の種に、深い深い溜息をついた。
END
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