世紀末の年もとうに過ぎ去った初夏の東京都中野区。
哲学堂のそばの道を一人のずば抜けた長身の青年が歩いている。
彫りの深い整った目鼻立ちと、年齢にそぐわぬ落ち着きを備えた彼は、
都内の私立校の世界史教師をしている20代半ばの独身男性で、
今は弟たちの待つ中野区内の自宅への家路を急いでいるところであった。
「・・・ったく。朝から桃狩りなんかさせやがって。おれだってもう若くないんだからな。
うちの学校は何でこんなにイベント好きなんだか。」
ぶつくさ独り言を言ってはいるが、その手にはしっかり桃が満載されたかごが大事に抱えられている。
彼自身も今日学校でさんざん試食したが、実にみずみずしくて美味であった。
もっとも、育ち盛りの彼の弟たちにかかればこんなものは一瞬で消えてなくなるだろうが。
「・・・ま、茉理ちゃんにもいい手土産ができたし、よしとするか。」
そう言いながら彼は今頃彼のうちで晩御飯の支度をしてくれているであろう従姉妹の大輪の花が咲いたような笑顔を思い浮かべた。
自然と歩調が速くなる。
ここのところ、なにくれと彼や弟たちの面倒を見てくれている、
美人で家事の天才であるこの従姉妹の足がゼミ旅行だの学会だので遠のいていたので、
彼と3人の弟たちは『健康で文化的な』という憲法の条文からはほど遠い生活を強いられていたのだった。
その従姉妹から夕飯をつくりにいくからね、という電話を昼に受け取って、彼は実のところ少々心が弾んでいた。
「茉理ちゃんのご飯は美味しいからなぁ。」
この台詞を二番目や三番目の弟が聞いたら『何を白々しい。』と評しただろう。
彼とこの美人の従姉妹が互いを憎からず思っているのは周知の事実で、
ご近所の商店街の行きつけの古書店の店主などはこのごろなど訪れる度に
「鳥羽さんとこの娘さんをいつ嫁に貰うんだい?」
と聞いてくる。
この話を快く思っていないのは彼女を名家か富豪に縁付かせたい従姉妹の父親ばかりである。
都内に広い家を相続によって持ってはいるが、彼自身はただのしがない高校教師、
それも私立校の教員であるから公務員ですらない。
おまけに未成年を二人も含む三人の瘤つきである。
叔父でなくとも娘の結婚相手としては、確かに中の下くらいのレベルに位置するだろう、と彼は自分でも自覚している。
彼も以前は祖父の設立した学校で理事兼教師などをやっていたのだが、
様々なことが重なって結局は辞職することになり、
最近になって知人のつてで都内のウオーターフロントの一角にある今の学校に職を求めることができた。
この就職難のおりに、よくも希望する職種に就けたものだ。
しかも、最近では司法試験の比でないといわれる難関の教員である。
地方によっては採用試験の倍率が100倍を軽く超えてくる。
「現役生の合格は3年に一人」「実施日の違う県を複数受験するのは当たり前」「受験勉強は最低1年半前から」
などというもはや大学入試と間違うような逸話さえ存在する。
そんな中で、教職を得、更に自由でおおらかな校風の学校に赴任することができた彼はとんでもない幸運の星の元に生まれた人間であった。
おかげで扶養家族が一人増えてもそれほど困らない一応の生活力は確保している。
だからといって、彼が従姉妹を今すぐ妻にしたいと切望しているかというと、そうでもなかった。
いや、彼としては彼女への気持ちすら正面切って聞かれると困惑してしまう。
幼い頃からずっと一緒に育ってきた彼女は、どちらかというと一人の女性である前に、まず彼が守るべき家族の一員であった。
彼は彼女への好意が妹のような存在への家族愛か、それとも何か別の感情なのかという回答をまだ出せていない。
加えて弟たちのこともある。
一番下の弟が大学を卒業するまでにはまだまだ5年以上の歳月がかかる。
実のところ、一番末の弟が一人立ちするまで結婚については考えないつもりであった。
「でも、ぼくが22歳になったら始兄さんは32歳なんだよ、
本当にお嫁さんがもらえなくなっちゃうよ。
茉理ちゃんだってそんなには待ってくれないかもしれないよ?そんなこと言うんだったら僕中学校でたら自活する。」
以前にそう言ったら、末弟にこう反論されてしまった。
その気持ちは有り難いが・・・彼は本当のところ一生独り身であることを半ば決心しつつあったのだ。
一ヶ月前の新緑に五月雨の映えたあの日までは。
その日は前日までの快晴を裏切ったかのように朝から雲が立ちこめていた。
彼―竜堂始はその日もいつもと同じ時間に起床して顔を洗い、食堂で新聞に目を通していた。
若き活字中毒者である始はたとえスポーツ新聞であろうともつい一面から熟読してしまう。
大して興味もない人生相談の欄に目を通していると、ばたばたとあわただしい足音がして三男の終がネクタイを首に絡ませて入ってきた。
「おはよう、始兄貴、続兄貴、余。」
とっくに食堂に入って朝食の支度とその手伝いに従事していた次男と末っ子が同時に振り向いて返事を返す。
「おい、何をそんなに急いでいるんだ?」
家を出る時刻は職場の遠い長兄がもっとも早い。始の計算では後30分はくつろいでいられる予定だった。
終があはは、と悪戯がばれたときの表情で笑う。
「今日さ、一限にグラマーの小テストがあったの、忘れてたんだよな。早く行って誰かに範囲教えてもらわないと・・・」
「何で今頃になって思い出すんだお前は!!」
長兄が教師根性を発揮して小言を言う。台所からその声に次兄も唱和した。
「そうですよ。だいたい常日頃から勉強していれば、何も小テストくらいで焦る必要はないはずです。」
「わーかった、お小言は後で頂戴するからさ、早く飯つくってくれよ、続兄貴。」
・・・そんないつもの賑やかな朝の光景。その日も一日、何もなく終わるはずであった。
一日の仕事を終えて帰宅する途中の車の中で、始の携帯電話があるバンドの少し前のヒット曲の着信メロディーと共に振動しだした。
この着信音は新しい仕事を始めるに当たって必要に迫られて渋々大嫌いな携帯電話を購入した長兄がいない隙に、シイタゲラレタ三男坊がこっそり設定したものである。
おかげでそれからしばらく長兄は電話が着信しても気づかず、ばれた後で三男坊はこってりしぼられる羽目になった。
しかし妙に律儀で貧乏性な長兄は
「ま、せっかく終が苦心したんだし・・・」
とそのままにして使っている。どうせ学校内では着信音はオフにしているので、実のところ何でもかまわないのである。
「はい。竜堂始の携帯です。」
律儀に路肩に車を止め、ディスプレイの「公衆電話」の番号通知を確認してから始は電話をとった。
本当だったら運転中は電源はオフにしておきたいところなのだが、
早朝から台風から校舎を守るために呼び出されたり、(もちろん教師に臨時休校などはない。)
家出少年を捜すために深夜に集合したり、突然生徒が事故にあったり等々、
教師くらい緊急事態に陥りやすい職業もないので、電源は四六時中入れっぱなしである。
『やっほー、始さん。相変わらず生真面目な挨拶ね。』
「・・・茉理ちゃん!」
電話の相手は彼の美人で有能な従姉妹、鳥羽茉理であった。
「どうしたんだい?」
『うーん、そろそろ学校が終わってる頃だと思って。今大丈夫?』
「ああ、かまわないよ。帰り道だ。」
『ひょっとして、運転中?』
「いや、車は止めてる。」
やっぱりね、と始の生真面目さを知っている従姉妹がわらう。
その後で、一緒に夕食を食べに行かないか、と始に告げた。
「そりゃかまわないけど・・・どうしたんだ、急に。」
『実はね、最近うちの大学の女の子達の間で評判のレストランの招待券を友達にもらったんだけど、
日時が今日までの「カップル限定イベント」って書いてあるのよ。
それで始さんをデートに誘おうと思って。
ま、職場で女子高生に囲まれて若い子には不自由してないでしょうけど、
たまには男日照りの従姉妹にも付き合って欲しいな。』
この言い草に、道を歩けば十人中十人を振り返らせる美人が何を言ってるんだ、と始は内心苦笑した。
まあ、彼女は楚々とした外見とは裏腹に実のところ首相誘拐を含む前科数十犯のキョウアクハンのテロリストである。
そんじょそこらの男に御せる女性では確かになかろう。
茉理の言葉の後半部分は聞かなかったことにして、始は承諾の意を伝えた。
「それはありがたいな。おれのことを思い出してくれて嬉しいよ。で、どこに行けばいいんだい?」
『えーと、今が六時よね、レストランが南青山で、八時からディナーが始まるから・・・』
「茉理ちゃんは、今学校?」
『ええ。』
「じゃ、迎えに行くよ。通り道だし。一時間くらいでつけると思う。」
『そう?じゃ、待ってるね。それとね、実は私も携帯電話買ったんだ。』
「へぇぇ。」
『ホント言うと始さんが嫌いそうだから今まで持たなかったんだけど、始さんが買ったからまぁいいかなー、って。ちょっとしたらかけ直すから番号登録して?』
はいはい、と返事をした後で、始はふと従姉妹に問いかける。
「なら最初からそっちでかけてくれば良かったのに。」
『始さん知らない番号からかかってきたら電話とらないじゃない。』
「・・・・・・そうだったかな。」
確かに始は知らない番号では電話にでない。
そう親しくない相手なら家にかけてくればいいし、知り合いの番号は登録してあるし、
親しい人間なら始の性格を知っているので公衆電話からかけてくる。
一応私的な回線なのだし、初対面ならずかずか上がり込んで来ないでこっちが番号を教えてからかけてこい、という理屈の多い彼らしい主義の現れである。
それで茉理もまず公衆電話からかけてよこしたのだ。
『今日契約したところなの。一番に始さんに教えようと思って。』
「それは・・・ありがとう。」
茉理は時々「始さんは特別」というような発言をする。
自意識過剰と言われてしまえばそれまでのことだが、始にとってそれは少々くすぐったくて、リアクションに困る。
『じゃあね。』
電話が切れる。そのまま始がじっとしていると、程なく記憶にない携帯番号から着信があった。躊躇わず受信ボタンを押す。
「はい。・・・茉理ちゃんかい?」
『そう。じゃあ、ついたらこの番号にかけてきてくださーい。』
「はいはい。なるべく早く行くよ。」
電話を切って、すぐにメモリに番号を登録する。
これで次から『マツリ携帯』とディスプレイには出ることだろう。
このあたりの几帳面さは終などに言わせると「おっさん臭い」が、茉理にかかれば「そこがいいんじゃない。」ということになってしまうから人の好みは千差万別である。
始は律儀にウィンカーをつけて再び車を発進させた。
「やっほー、始さん、ここ、ここ!!」
茉理が通う女子大の校門前で所在なげに佇む、それでも一際目立つ長身の人影に気付いて、彼女は思いきり手を振った。
でないと、始を見ながらひそひそと囁き、あるいは振り返って眺める視線の海に彼が沈んでしまいそうで。
居心地悪そうにしていた始が、ホッとしたように救いの女神を見る。
「やぁ、茉理ちゃん。」
にっこりと微笑まれ、茉理は周囲から矢のような嫉視が集まるのを感じながら、その側に駆け寄った。
日本人離れした長身を見上げ、ちょっと眉を顰める。
「始さん、もしかして痩せた?」
「そうかな?・・・自覚はないんだけど。」
「どうせ高校生相手に走り回ってるんでしょ?キョウイクゲンバはヒトデブソクだっていつでもニュースで言っているもの!」
竜にだって超過労働を訴える権利はあるはずよ!とわがことのように怒る茉理に、始が破顔した。
「なにも、そんな忙しい訳じゃ…。」
「いいえ、続さんに聞いたもの。この間電話したときも、その前も、ずっと始さん家に居なかったじゃない?
たまに帰ってきても深夜にかり出されたり、終くんがまるで座敷童みたいだって。」
「・・・あいつ、今月は小遣い減額だな。」
誰が座敷ワラシだ!と微妙にポイントがずれたところで顔を顰める従兄弟の腕を、茉理が引っ張る。
「だから、『竜堂家の家族に健康的で文化的な生活を送らせる会』会長として、始さんには精の出るもの、食べて貰わなくちゃ。」
家にいたら厳しい生存競争ですものね、たまには外食もいいでしょ?と。
一生懸命に理由付けをする彼女が可愛らしくて、始は吹き出したいのを堪えつつ、素直にその後に従った。
「美味しかったね。」
「そうだな。…まぁ、女の子ばっかりだから最初はどうかと思ったけど、結構いけたよ。」
よく最近流行のテレビで流れているカフェの食事のような、
全体の半分以上が菜っぱで構成されているような食事だったらどうしようか、
と始は実のところ少し危ぶんでいたのだが、
出てきた料理はお洒落で繊細な料理にはとんと縁のない始でも満足できるそれなりの味と量を供えていて、
茉理と二人、結構楽しい食事のひとときを分かつことができたのだ。
運転するからとワインを断った彼の代わりにサービスのグラスワインを両方飲み干した茉理は、どうやら少し酔っているらしく見えた。
「茉理ちゃん、家まで送るから、乗っていけよ。」
聞かなくても茉理を送っていくつもりではあったが、流石に少々おぼつかない足下を見て、始が言う。
茉理はええ、ありがとう、とその誘いを受けた。
近くの駐車場まで夜風に吹かれて歩く道で。
いつもよりずっと身近に感じる長身の従兄弟に気分を良くしながら、ワインの酒精に任せて、茉理は彼の腕に自分の腕を絡ませる。
始は少し体を固くしたが、別に振り解いたりはしなかった。
平素なら咎め立てられそうなこんな行為は絶対にしないのだが・・・
このことが、茉理の勇気を後押しした。
ごくん、とひとつ唾を飲み込み、何度も何度も練習した、予め用意してあった台詞を口に乗せる。
「ね、私が大学卒業して、もうちょっと大人になったら、始さんのお嫁さんにしてくれる?」
茉理が尋ねたのは、いかにもワインの酔いに任せて、といった冗談めかした口調だった。
だから始も、ついぞ口にはしたことのない本音を、ぽろっと口に乗せてしまった。
「それは難しいな。おれは、一生結婚はしないつもりだから。」
「・・・え?」
「・・・うん?」
言ってしまった後で、お互いに相手の表情を見て愕然とする。
二人とも、本音を口にしてしまっていたのだと、気付いてしまったからだ。
始の返事に、茉理は顔を伏せた。
我が儘な女と思われただろうか。あつかましいと思われただろうか。
「それでも、」
自分が誰かのものになるなら、この人以外は考えられない。
その位、ただ彼女は始だけを見ていた。
子供の頃から、ひたすら信頼して後をついてきた背中である。
世界中どこにいても、ピンチの時には必ず助けに来てくれた。
彼の元以外で幸せになれる可能性など茉理は考えたこともないし、また選びたくはなかった。
しかし、それはあくまで身内に対する優しさにすぎなかったのだ。
うつむいて黙ってしまった茉理に、始が動揺する。
この明朗快活な従姉妹がここまで落ち込んだ顔をしたことは今までなかった。
「お嫁さんにして」
等というのは周りのからかいを受けた、彼女なりの冗談だと思っていた。
そういえば、彼と違って彼女自身がその噂を否定したことは、一度も無かったではないか。
ただ黙って、にっこりと笑うだけで。
肯定も否定もせず。
始がムキになって否定する向こうで、彼女は。
そこまで考えて、初めて茉理の本気に思い至った鈍感な青年は、酷く動揺した。
茉理の方にも、今はそこまで思いやる余裕はない。
負担になると思って始には言わなかったが、
ここで彼に首を縦に振らせることができなかったら彼女は父の進める見合い話を受けなければならない。
聞くなら今夜だと思っていた。
デートは楽しかったし、勢いに任せて聞いてしまえば、
それなりの返事が引っ張り出せるかもしれない、
と心の奥底で彼との間に「何か」が起こることを期待していた。
それは微かな変化だけでも満足だった筈だった。
遙か先の将来の約束だけでも良かった。
口約束でも十分彼女は強くなれたのだ。
しかし、始の口から出たのは「結婚は全く考えていない」という言葉。
何となく、始は彼女を選んでくれるような期待を抱いていただけに、失望も深かった。
『始さんじゃなければ、誰でも同じ。』
辛うじて涙をこらえられたのは奇跡に近かった。唇を強く噛む。
「茉理ちゃん・・・?」
始が心配そうに声をかける。いや、かけようとした。
しかし、その言葉は発される前に空中分解してほどけてしまった。
シャツの胸元を強く捕まれて前のめりになる。柔らかい感触を口の端に感じて始は硬直した。
開けたままの深いブルーブラックの瞳が、彼女の閉じられた瞼を見つめる。
その大きな目が急に開いて、始は音を立てて自分の心臓が跳ねるのを聞いた。
「・・・じゃ、お休みなさい!!」
それだけを言うと、茉理は振り返りもせずに走り去ってしまった。
「ちょ、・・・」
待って、送る、とすら言えず、始は彼女が表通りの方へ向けて去ってゆくのを見送った。
後に残された始は呆然としながら、そういうことだったのか、と無意識に唇に手をやる。
仄かに赤ワインの香りがするようで、酒精に弱くもないはずなのに、すっかり酩酊してしまったような思考力のなさの下。
彼はやっと、従姉妹の自分に対する感情が特別だったと認めた。
そして、自分のものもそうであったことを。
それぎり、茉理は竜堂家に足を向けないままに、ゼミ旅行だの学会固め打ちの忙しいシーズンに突入してしまったのだ。
不思議に、始に危機感はなかった。
茉理は何故か、それでも彼の所に帰ってくる気がしていた。運命と言うより、予定調和でそうなっているのだと。
明日か、明後日か一週間後かは知らないけれど、そのうち竜堂家の健康的で文化的な最低限度の生活を保つために、
ひょっこりと表玄関から入ってきてくれるのだと。
理屈ではない、始の本能自体がそう告げていた。
今日、久々にかかってきた電話は少し躊躇いがちだったが、それでも彼女が帰ってきた、というだけで始は嬉しかった。
この間の夜のことは無かったことにはできないが、それでも。
急激な変化は余りに似つかわしくない、と始はようやく正面から見つめ合った自分の気持ちに、そう言い聞かせていた。
久々に従姉妹も交えた五人の食卓が済んで、年少組が後片づけを引き受けたため、茉理を送って行くのは年長組の仕事になった。
家を出ようとする茉理と始を見送って、続が玄関で手を振る。
「じゃあね、茉理ちゃん。ご馳走様でした。また遠慮しないでいつでも来てくださいね、兄さんが居ないときでも歓迎しますから。」
「・・・おい、続、お前は来ないのか?」
首を傾げる長兄に、続が苦笑した。
「ええ、幾ら僕でも馬に蹴り飛ばされると流石の鱗にも傷が付きそうですからね。東海青龍王の逆鱗に抵触するのは止めておきます。」
「・・・なんだそれは。」
始は憮然としたが、続は気にもとめない。
「要は兄さんが一人で送っていくのが一番茉理ちゃんの為だってことですよ。」
言いながら隠れファンの多い長兄の側から悪い虫を日々せっせと追い払っているという噂もある艶やかな表情で婉然と微笑み、
『鳥羽茉理を竜堂家の一員に迎え入れる会』影の実行委員長と目される美貌の次男がしっし、と二人を追い払う。
「続さん、じゃあまた、ご飯作りにくるね。」
「ええ、終くんと余くんも、楽しみにしているんですから。」
「じゃ、行ってくる。」
「ええ、玄関の鍵はかけておきますからどうぞごゆっくり。」
「なにがだ!」
全くうちの兄弟達は・・・といつもの愚痴めいた口調で文句を言う始の変わらない様子に、茉理の表情が少しだけ曇った。
茉理の家までの車内で、ずっと押し黙って真っ直ぐ前を見つめたままだった彼女が、意を決したように口を開いた。
「あのね、始さん。」
沈黙を気まずく感じ始めていた青年が、ホッとしたようにその言葉に飛びつく。
「なんだい?茉理ちゃん。」
「私・・・お見合いしたの。」
「断ったんだろ?」
嫉妬の欠片も見あたらない即答に、茉理が流石に言葉に詰まる。
「ど、・・・どうして?」
「そりゃ・・・」
どうしてって聞かれても、何となく、とハンドルを握ったまま始が頭に手をやる。
「困ったなぁ、・・・だって、茉理ちゃんは義理で見合いはしても嫌なやつと付き合うような娘さんじゃないからね。だから、分かったんだよ、・・・その。」
絶対にそんなもの受けないって、と本当に困ったように続ける始に、茉理が苦笑した。
ここまで自然に信頼されていては、それを裏切ることができるはずもない。
けれど、この間の敵討ち、と茉理はわざと素っ気ない表情になった。
「あら、素敵な人だったわ?赤みがかった金の毛並みでね、家柄は申し分なくて・・・」
うっとりしたような口調で言い出した茉理に、始がぎょっとした顔になる。
「え?おい、茉理ちゃん?」
「見せてあげたかったわ、始さんにも!もう、私の好みそのままなの!
・・・すぐに一緒に家に帰ったわ?それからずっと、私の部屋で一緒にいるのよ?」
「・・・!」
愕然とした表情になった始を横目で面白そうに眺め、茉理は微笑んで、真相を明かす。
「今度紹介するわね、ここに連れてくるわ。可愛いのよ、ラブラドール・・・」
「・・・驚かすなよ。」
ハンドルを切り損ねたらどうしてくれるんだ?と憮然とした表情で言う始に、茉理が声を上げて笑う。
久々に聞く彼女の笑い声に、隣で従兄弟が柄にもなく込み上げてくる喜びを噛みしめているとは知らないままに。
「松永君が水地さんの所に行っちゃったでしょ、犬、欲しくて。」
一目惚れだったのよね、運命のお見合いだったわ、と笑う茉理に、つられて始も表情を緩めた。
「それは是非連れてきてもらわなくちゃな。」
「ええ、いい子なのよ。まだ子犬だけれど、お利口なの。」
「終に喰われなきゃいいが。」
「それはないわよ、さすがに。」
そういいながらひとしきり笑った後で、従兄弟を振り返る。
「でも、名前がまだ付いていないの。・・・『ハジメ』とかにしちゃおうかな?」
「おいおい、茉理ちゃん、それは・・・」
困るよ、と苦笑気味に微笑む従兄弟に、茉理が追いかけるように聞いた。
「あら、なんで?家にいるときも始さんの名前を呼べるなんて素敵だと思うんだけど。」
「だって・・・家に同じ名前が二匹も居ちゃ、将来困るだろ、茉理ちゃんが。」
竜と犬とが同じ名前じゃね、と続ける始のあまりにもさり気ない様子に、茉理の方は最初何を言われたのか分からなかったが。
しばらく彼の言葉を反芻して、どうにも不自然なところがあることに気が付いた。
「始さん、それって・・・・・・」
「・・・・・・どうした?」
首を傾げる始に、恐る恐る尋ねる。
「それって・・・将来は一緒に暮らすから、ってことなの?」
「・・・・・・できれば、感づかずに居てくれると助かる。」
全く返事になっていない返答を返す青年の耳が柄にもなく深紅に染まっているのを見届けてから。
茉理は前を向いたまま、一言だけ返事をした。
「・・・了解。」
「・・・ありがとう。」
暗黙の合意に達した後、彼女の家に着いた車から降りるのが惜しい、
と甘えた茉理のリクエストに応えてもう一周夜のドライブをした始は。
家に帰った瞬間時間を計っていた次兄以下弟たちの厳しい尋問に逢ってしまった。
END
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