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『優曇華の花待ちたる心地して 深山桜に目こそ移らね』
源氏物語「若紫」
―――三千年に一度しか咲かないんだって。
次に咲くときまでに逢えればそれでいいや、と少年は微笑んだ。
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「本当に行くんですか?」
「ああ、悪ぃ。」
にっこりと微笑まれて、黒髪の少女は肩を落とした。
「そうなんだろうなって、多分そうだろうって思いましたけど…。」
「うん、決めた。」
少年の額に巻かれた鉢巻がふわりと春の風に揺れた。
それを何となく目で追って、黒髪の少女が言う。
「マァムさんには…。」
「言わない。連れてけないの説明するだけでぶん殴られて複雑骨折しそうだし、それに…。」
にこにこと微笑んでいた少年の顔にその時初めて影が差す。
「…あいつはこっちを離れちゃいけねぇんだ。」
「そうでしょうか。」
「そうだ…と思うんだけど。」
「それは、ヒュンケルさんとの事が原因ですか?」
「……。」
少年は何も言わず空を見上げた。
「メルルはさ、俺が何も言わなくても、『連れていけない』って言えばなんでなのか分かるだろ、
あの世界への扉を開けるのは俺の全魔力使っていっぱいいっぱいで、
とても他の人間なんて連れていけないっていうこと、
ダイが居るだろう、って保証までは流石にないこと、んで。」
苦く、微笑む。
「…帰ってこられるかどうかわかんねぇ、ってことも。」
黒髪の少女も苦笑する。
「もうひとつ、知っています。ポップさんを止めても無駄だ、ということ。」
少年は肩をすくめる。
「鋭いよな、相変わらず。」
「この頃は、少し鈍い方が良かったのかしらとも思いますけれど。」
物わかりが良すぎるのも考え物ですわね、全く、と少女は続けた。
「私がマァムさんなら、殴って全身骨折させてもポップさんを止めるか、一緒に付いていく方法を考えるでしょう。
でも、私はしません。何故って、私はマァムさんではないから。」
少年が出来の良い生徒を前にしたように微笑んで少女を見つめる。
「うん、そうだな。」
「ポップさんはこうも思っているのでしょう?『そして、メルルならきっと諦めた顔で”行ってらっしゃい”と言う。』」
少年は何も言わなかった。その表情を見ないまま、少女は唇を噛んだ。
ややあって、少年が口を開く。
「”…探花は行く、鍵を見つけても、それこそが旅の始まり”、メルルの占い通りだよな。」
「そうですね。」
「だから、俺行くわ。」
ひょいと手を挙げ、殊更何でもないような口調で。
この軽さが身上の大魔法使いの卵に、少女もだから涙を必死で抑さえ、微笑む。
こりこりと頭を掻きながら少年は続けて口を開く。
「"優曇華の花"っていう花があってさ、天界の花なんだって。
三千年に一度しか咲かない神様の花でさ、そりゃぁ見たことも聞いたこともないくらい素晴らしいんだってさ。
俺にとって、ダイはそれなんだよ。いっぺん見ることができちまったら、次三千年後、なんてさ。
…我慢できないと思わないか?」
「…言いたいことは分かります。」
少年の中の天秤で、ダイは家族や故郷やこの世界や、愛する少女すら乗った片方よりもしかしたら、重い。
俯くメルルに向かって、少年は淡々と言葉を続ける。
「うん、だからさ。第一あいつ、最後の最後のいっちばん大変なトコで俺の手離しやがるし、一発ぶん殴ってやらないと収まらないし。」
「はい。」
「姫さん、泣いてるし。…元気ないよなぁ、レオナ姫さん。」
「ええ。」
どんなに重大な局面でもクールに、頭は冷静に、口調と行動は熱く。
笑いさえ忘れない、その本質に『勇気』を与えられた彼のことが、メルルは本当に好きだった。
ぼそりと、そこで突然少年の口調が歯切れ悪く変化する。
「…悪いけど、迷ってるだろうから。マァムは。
俺が行くつったら着いてくるって言うだろうけど、それはあいつのためにならないと思うんだ。
今連れてったら…もし連れていければの話だけどさ、殆ど駆け落ちだぜ、駆け落ち。
それは流石にまずいだろ。答え、探している最中だし。」
「……。」
メルルはそこだけは疑問を覚えたが、あえて彼には言わなかった。
恋敵に協力するほど、彼女は彼に未練を覚えていないわけではない。
短い間一緒に旅をして、メルルはあの大きな戦いを終えて一回り以上成長した、この魔法使いの少年の魅力を再び肌で感じたが。
それはきっと、同じく同行していた彼が心奪われている武闘家の少女も同じだろう。
確証は無いが、同じ気持ちを少年に対して抱いているメルルには何となく分かってしまう。
女神だ、愛の使徒だと崇め奉られ、憧憬の眼差しで見つめられるのも悪いことはないが、それよりも。
「だから、マァムには黙って行くよ。」
「…そうですね。」
マァムが一番年相応の微笑みを浮かべ、腹の底から笑うのは、傍らにこの魔法使いの少年が居るときだった。
孤高の剣士はそれを、…多分、知っている。
出会いが悪かったな、と苦笑している姿をいつだったかメルルは見てしまった。
ダイが動くと周りはどんどんその流れに巻き込まれ、同じように走り出す。
それを彼から何より受け継いでいるのは今のポップだ。
だって、少年に、ポップに好きだと告げるまでは、彼女もただの傍観者だったから。
付いていく側から、自ら走り出す方へ。
辛くて苦しくて失敗するのが当然で、その自分と戦って生きていくのが。
ポップの「勇気」。
ダイがこの世界に居らず、異世界に居るかもしれない、行けば帰ってくる保証はない。
そのことを知ったとき、三日ほど彼は一睡も出来なかったようだ。
だけれども、『行く』と決めた。
ならば必ずダイは帰ってくるだろう。メルルはそう信じて少年を行かせるのだから。
「確認しますけれど、本当に言わないんですね?…誰にも。」
「うん。」
「私、…言いませんよ?」
「構わないよ。」
さっぱりしたものだ。
メルルとて、ずっとダイの行方を占っていて全ての経緯を知っているのでなかったら、ポップは彼女に何も言わずに立ち去っただろう。
それは多分裏を返せば彼の『弱さ』でもあり、『逃げ』なのだろうが。
それでも、そういうポップだから、彼女は行かせてやろうと思った。
人間の『弱さ』を知り尽くした彼だからこそ、その本当の『勇気』を信じられるから。
少年が、彼女に背中を向ける。
「…じゃ、俺、本当に行くわな。」
「はい。」
「優曇華の花、もっぺん咲くまでには帰るよ。」
「そんな気弱なこと…。」
メルルは苦笑し、その背中を押した。
「優曇華の花を探して帰ってきて、もう一度私たちに見せてください。」
「ん。」
少年は微笑む。その顔を見て、『マァムさんも、きっと貴方を待っていると思います。』という台詞はやっぱり、飲み込んだ。
自分はこの少年よりずっと弱くて卑怯だ、と胸は痛くなったが、どうしても言えなかった。
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かくして少年は旅立つ。親友を捜しに、果てのない異界へ。
心の中にある『勇気』だけを信じて。
全ての愛しいものに別れを告げて。
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end.
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