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岡田以蔵は首を傾げた。
状況がよく理解できなかったが、とりあえず懐紙で刀を拭う。
やはりこの程度では回った人脂は取れず、諦めて鞘に収める。
ぼんやりと刀を新調しなければ、と思っていると、背後から声が聞こえた。
「なんでこんな惨い事をするかねぇ…。」
龍馬に頼まれて護衛をしている、勝安房守が嘆くように呟いている。
以蔵にはそれがそもそも分からない。
もともと、勝安房守を狙って飛び出してきた刺客なのだ、
感謝されるならともかく、非難される謂われはない。
むっとしたが、龍馬の師であるということを思い出し、何とか堪えた。
彼にとって、大切な人の命とそれ以外の命は等価ではないのだ。
だから、躊躇いも遠慮もなく、斬る。
刀がすぐ駄目になるのは頂けないが、人を斬ることにそれ以上の躊躇いはない。
だから結局、息が詰まって勝安房の所も飛び出してしまった。
龍馬には悪いと思ったが、それだけだ。
半平太の犬と呼ばれても、以蔵は特に気にならない。
いや、むしろなぜそんなことを気にするのか、と不思議に思う。
龍馬が何故怒るのかも。
「以蔵…おんしは武知にええように使われちょるだけじゃきに。」
なぁ、以蔵。
けれど、半平太が自分をいいように使っているからといって、
それで何がいけないのかも以蔵には理解できない。
半平太の言うとおりにしていれば、少なくとも米のおまんまが喰えた。
それだけで、土佐のあのどん底の生活に比べれば極楽だ。
半裸同然で、毎日餓えて、野良犬を叩き斬って鬱憤を晴らしていたあの頃とは、余りに何もかもが違う。
たまさかには、女も抱ける。
郷里にいたときのように犯すように襲わなくとも、
御一新の志士だと言うだけで喜んで足を開く馬鹿な女さえ居るのだ。
やれ、あっちの後家は眠るときに家の裏口を開けて居るだの、という噂に右往左往しなくてもいい。
遊里に行けば、金さえ払えば何とでもなる。
京に来てしばらくは遊び方が分からず、ちょんの間で太夫に相手をしてもらう程度だったが、
遣り手と周囲に金を使って、やっと取り次いで貰うという島原での作法も覚えた。
眠る場所にも困っていない。土佐に比べれば、ここは別天地だと言っても良かった。
郷里では、下級武士の地位は、驚くほど低い。
「人斬り以蔵」
などと呼ばれて、畏れられるのは心地よかった。
自分だって何事か成せるのだと、その事自体が以蔵に深い満足と感動を与えた。
誰もが彼を見る。
誰も、虫けらのように彼を蔑んだりしない。
それだけで、以蔵の世界は全て満たされてしまうのだった。
大志を夢見るのは龍馬と半平太に任せればいい。
実のところ、加勢はしたいとは思うのだが、以蔵には彼等の言うことの半分さえ理解できていない。
それでいい。
自分は実働部隊だと心得ている。
頭がどんなに優秀でも、実際に動くのは手足なのだ。
ならば、その機動性で決まる。
戦闘なら、彼は半平太や龍馬に引けを取らない。
半平太は彼の剣を品がないと嫌ったが、結局の所以蔵のことを一番に頼りにして居るではないか。
通い慣れた道を歩きながら、以蔵は薄く笑った。
すれ違った男が奇妙な顔で笑みを浮かべる以蔵を見つめたが、
関わり合いになるのは剣呑、と早足で立ち去ってしまった。
そうして、なにもかもに取り残されていくことに気付かないまま。
以蔵はただ、嗤い続けた。
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終。
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