SUSPICION
 和也は最近、携帯電話を購入した。そこには愛子の携帯番号しか入っていないし、自分の番号も愛子にしか教えていない「専用電話」である。前に一度だけ試しにPHSを持ってみて、その番号は皆に教えたのだが、ひっきりなしに皆から「何処にいる」だの「すぐ出てこい」だのかかってくる上になんだか知らない女の子から「高杉さんですかぁ?」などとかかってくるに至り、イヤになって止めた。今回は少し学習したので人前では電話をけして使わない。和也の空き時間が不規則なことを痛感している愛子からかけてくることもほとんどないので、専ら和也の発信専用であるが。試合前、試合後などのちょっと気持ちがナーバスになっているときに少しだけ愛子と話をする。それだけで随分、気持ちが楽になる。なんだかしっかり恋愛している自分が、和也にはおかしかった。体の関係が出来てからは、特にそうだ。ニッポン放送の人気レポーターである愛子につきまとって体に触りまくっていた若手選手など、体から数pも離れていない場所にグラウンドが深く抉れるほどのボールを蹴りこまれ、真っ青になって硬直していた。その後ろでチームメイトの土黒が十字を切っていたとか、いないとか…

 兎に角、高杉和也にとって森口愛子はそういう大事な存在になっていた。


「おつかれー。」

 シャワーを浴びた和也に、チームメイトの桜庭から声がかかる。

「あ、お疲れさんっすー。」

「もう、後は俺らだけみたいだぜ。」

「あらら。」

 今日は小学校時代からの親友、騎馬拓馬率いる京都パープルサンガとの試合だった。その拓馬は既にこの間、スペーンリーグへの移籍を発表している。そして…

「お前、イタリア行くんだって?」

「…さーくーらーばーさーん、勘弁して下さいよー、まだ誰にも言ってないんすから。」

「分かってるって。いいよな、あんな可愛くて健気な恋人まで。」

 和也がいやまぁ、その、はは、等と言いながら鼻の頭をかいた。今日も試合が終わった後隙を見て電話をかけたのだが、愛子は出なかった。今日は仕事は休みだと聞いていたので少々不審に思っていたのだが…

『まぁ、後でかけ直せばいいか。』

 ポケットの中の携帯電話の感触をこっそり確かめたとき。二人は横合いから呼び止められた。

「よぉ。お疲れさん。やっぱりアウェーはちょっとしんどいな。」

 元チームメイト、騎馬拓馬本人である。どうやら彼も一人取り残され組らしい、というよりは明らかに和也を待っていたらしい。

「おっ、お疲れ。…何、言ってるんだよ。スペインリーグの来期エース候補!たまには譲れよ、勝ち星くらい。」

「阿呆、めたくそ言うなや。できるかそんなこと!!」

 そんな会話を交わしながら三人でスタジアムの出口へ向かって歩き出したとき。

「高杉選手!!高杉選手はまだ、いらっしゃいますか?!」

 と、後ろから呼ぶ声がした。

「はい!まだ、居ますけど…」

「本部にお電話が入っております。何でも緊急の用件とかで、お手数ですが直ぐに事務室までいらしていただけますか?」

「…ええ?!」

 何なんだろう、と三人で顔を見合わせ、和也が走り出した。拓馬と桜庭が訳が分からないままそれに続く。

 事務室にはいると、既に事情を了承しているらしい事務員が受話器を渡してくれる。

「どうぞ。三番に入っておりますので、ボタンを押してください。」

「はい、ドーモ。……もしもし?」

『あ、ニーチャン出たバイ!』

「…はぁ?タクロー?!何だよこんなとこまで。」

『ああ、和也?』

「オフクロ!?何で、タクローとオフクロが……」

『和也、落ち着いて聞いて頂戴。私たち、今都立病院にいるの。愛子ちゃんが……』

「…あ、愛子?!愛子がなんだって?!」

 病院。嫌な予感が胸を掠める。背後で拓馬たちが顔を見合わせた。

『交通事故で、子供を庇って…』

 そこまで聞いた瞬間、和也は受話器を放り投げて走り出した。桜庭が思わず受話器をキャッチし、拓馬は和也の後を追った。

「おい、和也!森口がどないかしたんか?!」

 和也は、答えない。外へ走り出していこうとする和也を拓馬が慌てて引き留める。和也が足掻いた。

「離せ、よっ!」

「どあほう!あないな所から出ていったら出待ちが多うて一歩も動かれへんようになるぞ!こっちや、タクシー拾うぞ!!」

 拓馬は和也の腕を掴んだまま逆方向へ走りだした。


「…はい。ああ、さよか。うん。わかった。俺らももうじき着くから、荷物みとってくれや。サンキュ。」

 拓馬が自分の携帯電話を切った。隣に座る和也は俯いたまま、一言も発さない。拓馬はちらとそちらを一瞥してから「なぁ。」と声をかけたが、何の反応もなかったのでため息を付き、窓の外へ目を向けた。


「すいません、おばさんにまで来て頂いちゃって。」

 ベッドの中で愛子が苦笑する。隣では晶子の剥いたリンゴをタクローがぱくついている。

「今、和也に電話をかけたんだけど…ろくに聞かすに飛び出してっちゃったみたいだわ、あの子。」

 ベッドサイドにはタクローの妹、瑞樹もいる。今日は久々に東京へ出てきていて、一日タクロー…はあまり頼りにならないので愛子に連れて回って貰っていたのだ。その途中、愛子は車道へふらふらと出ていった子供を庇って急ブレーキをかけた車…ではなく横を走っていたバイクと接触し、吃驚した周りの人間と子供の親に救急車を呼ばれた挙げ句怪我自体は全然大したことはなかったのだけれど少し頭を打ってしまっているので大事をとって一晩入院、というハメになってしまったのだった。今は検査も終わり、後は寝るだけである。このベッド不足の折りに、ラッキーなのか何なのか六人部屋は彼女一人だった。

「ごめんね、瑞樹ちゃん。せっかく東京に来てるのに、こんなことになっちゃって。」

「そうね。今夜はうちに泊まりなさいな。」

「いえいえ、とんでもない!!もう十分遊んだ後でしたし!愛子さん、大したことが無くて良かったです。」

 瑞樹が慌てて手を振る。愛子の家の番号が分からなくて、とりあえず晶子を呼んだのは彼女とタクローだった。そのタクローのほうはもうすっかり高杉家に泊まるつもりでいる。

「おばちゃん!オレ卵焼きと納豆巻きと…」

「はいはい。」

「兄ちゃん!!…どうも、すまんとです…」

 愛子はそんな様子を見ながらちょっと横になった。流石に少しくたびれたので、目を閉じる。

 その時。廊下が急に騒がしくなった。病室のドアが勢いよく開く。何事かと愛子も体を起こした。

「愛子!!」

 息を切らせて和也が駆け込んできた。脇目もふらずベッドサイドまで走り寄って…ピンピンしている愛子を見て、へたり込む。後から苦情を申し立てる看護婦達をなだめながらゆっくり入ってきた拓馬がドアを閉めながらぼやいた。

「……和也。オレは何遍も言うたからな。かすり傷で、検査入院だけやからって。」

「な、全然元気なんじゃないかーっ!!」

「せやから横から何遍もいうた言うてるやろがアホーーーーッッッ!!」

「オフクロが、交通事故っていうから、てっきり…」

「だって、和也直ぐに電話に出なくなっちゃったじゃない。」

 和也が大きなため息を付いて座り込む。愛子がたいしたことないのよ、と言おうとしてそちらを向いたとき、病室のドアが再び開いた。

「久しぶり愛子ちゃん。バイクと接触したって?駄目だよ顔にでも傷が入ったら。これ、お見舞い。」

 土黒が花束を振ってみせる。一緒に入ってきた桜庭は和也と拓馬の荷物を下げていた。

「お前ら早かったな。」

「土黒さんに乗せてきて貰ったんで。」

 晶子の電話をとりあえず最後まで聞いた桜庭が、直ぐに拓馬の携帯に電話をしたのだ。拓馬は一応その旨を和也にも伝えたのだが…

「こいつ、ナーバス入ってしもとって耳も貸せへんのやもんな。」

 拓馬がおかしそうに言う。愛子が和也、と声をかけるが和也は顔を上げない。

「おーい、和也〜?もしもーし…。」

 突然、がばっと和也が顔を上げた。愛子を睨む目がちょっと涙目気味になっている。

「心配しただろ!!」

「……ゴメン。」

「子供かばって、交通事故だなんて言うから、てっきり。」

 そこで愛子・晶子・拓馬の三人がはっとする。

「…止めてくれよな、心臓に悪い。」

 和也が愛子の手を握る。

「…死ぬかと、思った。……俺が。」

 その辺りで拓馬がタクローの襟首を掴み、全員を連れて病室を出るように促した。


「…私の伝え方が悪かったみたいね。」

 晶子が苦笑する。拓馬が病室を覗こうとするタクローに一撃をくれてからいいえ、と首を振った。

「おばちゃん、忘れてんのに。あいつはまだ、トラウマになっとったんですね。」

 なになに何のこと、と桜庭が顔を突っ込む。

「あいつの…和也のオヤジさんなぁ、子供かばって…交通事故で、亡くなりはったんや。」

 拓馬がため息混じりに答える。なるほど、と土黒と桜庭が納得した。性懲りもなく病室を覗いておおっ、ニーちゃんちゅーしようとしとるバイ、等と呟くタクローを引き戻しつつ、

「…まー親父さんに続いて惚れた女まで交通事故におうたや言われたら取り乱しもするわな。」

 と小声で漏らす。瑞樹がそうですね、と相づちを打った。

「…、そうねぇ」

 タクローにげんこつをくれたりしながら廊下で屯する一団を前にして、晶子がぽん、と手を打つ。

「じゃあ、ここは和也に任せて私達は帰っちゃいましょうか。騎馬君や、皆さんもいらっしゃいな。晩ご飯、まだでしょう?タクロー君達もウチへ泊まることだし。」

「え…いや、」

 拓馬は辞退しかけたが、たまにはええか、と頷いた。和也は可愛い恋人とよろしくやっとることやし。桜庭たちにむろん依存があろう筈もない。晶子がこんこん、と病室のドアをノックし、中に声をかける。

「さて、行きましょう?桜庭さん、和也が荷物だけ置いていってくれって。」

「ああ、はいはい。」

 桜庭が肩に掛けっぱなしだった和也の荷物を下ろす。

「和也ー。ここは病院やでー。変なことすなやー!!」

 拓馬の声には中からバカヤロー、という返事があった。

「騎馬君、卵焼き好きだったわね?」

「はい。後、ナットウ巻と…」

 わいわいと騒ぎながら、六人は病院を後にした。


「…ったく、ろくな事言わねーな、拓馬のヤツ…」

和也がぼやく。愛子は照れ隠しに髪の毛をいじっていた。顔が赤い。

 さっきまで、和也が彼女を抱いて離さなかった所為で。

「いやー、私って……」

 愛子が呟く。和也がうん?と振り向くと、なんでもないのよ、と手を振った。

 耳元で、何度も繰り返された言葉。心配をかけるな、としつこいほどに。

-----私って、愛されてたんだ。

 血相を変えて、試合場から駆けつけてくるくらいには。

「あっ、そうだ。」

 和也が手を打つ。

「チーム決めてきた。…多分、フィオレンティーナ。良いだろ?」

「フィレンッェの?…オファー来てたんだ。凄い。」

「ACミランからも来てたんだけど、あそこには末次居るし。それに。」

 言葉を切る。

「ダミアンが、来期からインテルに来るらしいって言う噂が、あるし。それならイタリアリーグ行けばやり合えるかもしれないし…」

「へ…え、因縁ねぇ…」

「まぁな。…で。」

「ん?」

 愛子が首を傾げる。和也はそちらを一瞥するとがしがしと頭を掻いた。

「来年の初めに…向こうに家、決めに行くんだけど。チームが用意してくれるって言ってたけど、独身寮みたいなモンだって言ってるし。」

「いいじゃない。只で住むところくれるんなら。」

「よかぁねーよ!二人で住むんだろうが!」

 言ってしまってから、赤くなって口を押さえる。愛子の顔はというと、更に赤い。

「…ったく。お前、本当に来てくれるんだろうな?!イタリア!」

「…うん、一応、そのつもりで…」

 まさかあまり本気にしていなかったとは言えず、愛子が口ごもる。

「会社の方は?大丈夫そうか?」

「う…ん、辞表出すことに、なると思う。」

 こんなギリギリにイタリア行くなんて言い出したら、とは言わずに愛子が苦笑する。まぁ、それでもいいさ、と和也が呟いた。

「どうせ夏には結婚するんだし。」

「う…え?えええええ?!!」

 愛子が驚いて聞き返した。今、なんて言った、この男。

「……いや………なぁ、…俺、もしかして…言ってなかった?」

「……うん。」

「……プロポース、した、だろ?」

「…うん。それは。」

「OKの返事も、貰ったよな?」

「………うん。」

「指輪…は?」

「貰ってないですけど…」

 そこか、と呟きながら和也ががさごそと足下のスポーツバッグを探る。やがて、中から小さな包みを取りだし、包装を破いて中身の箱を愛子に渡した。開けると、そこには…

「ねぇ、なんかもっとこう…演出とか無いわけ?」

 このド天然ボケ男…と愛子が脱力する。そこには小さなダイヤモンドの指輪が輝いていた。渡しそびれているうちにシーズンが始まってしまい、本人がすっかり存在を忘れてしまったらしい。和也が照れ笑いしながらそれを左手の薬指にはめてやる。

「…で、一応さぁ、入籍だけでも先にしとかないかと。シーズン始まるの冬だろ?あっちに行くのはどうやっても夏頃だからな。」

「随分、唐突になっちゃうね。」

「俺は愛子さえいいなら今すぐでも良いんだけどさ。」

 お前の番組が夏前に全クール一応終了、って聞いたから、と和也は続ける。それまで名字変わったら、拙いんじゃないかと思って。

「婚姻届だけでも、出しといちまおうと思ってさ。来年イタリアにいっちまったらそんな余裕無くなりそうだし。」

「…ん。」

「…もしかして、イヤだったか?」

 おずおずと和也が聞いてくる。全くアンタは、自分の都合しか考えてないんだからホントに。と文句の一つも言ってやりたかったが。愛子は苦笑した。

「……すごく、嬉しい。」

「そっか。」

 和也が目に見えて安堵の表情を浮かべた。ついで、満面の笑みを見せる。

「よろしくな、奥さん。」

「…!!」

 病院の夜は、まだまだ長い。

>>END