“Quelle”

 

 高杉和也がサッカーをするのは自分のためである。しかし、その「自分勝手なサッカー」・・・決してプレーが自分勝手なのではない、は彼の精神をギリギリまで酷使する。そのぼろぼろになった心を癒してくれるのは、決まって幼なじみの恋人であった。だから、その大事な恋人の声すら二十日以上聞いていない、という現在、少々機嫌が悪いこともあるかもしれない。・・・しかし。

「・・・逃げないでくださいよ、桜庭さん・・・」

「え?いや、わはは。あっちで筋トレしよっかなー、って。」

「・・・そんなにコワイっスか?俺の顔。」

「えー・・・と、うん。」

「・・・」

思わず絶句する。一人でいるとだんだん陰に籠もってくるので、チームメイトの桜庭を誘って自主トレに励んでいたのだが・・・この始末である。

 見学の女の子の黄色いラブコールさえ、癇に障る。女の声なんか、聞きたくもない、というのが正直な心境だった。

『和也。』

自分を呼ぶ柔らかな彼女の声を思い出してしまう。小さい頃からずっと一緒にいたはずなのに。声なんか聞き飽きているはずなのに。恋人同士になったこのごろでは、少し甘えた響きもかかり、記憶だけで煽られてしまう・・・というのは煮詰まっていた昨日の夜のことで、

『ホント、久々にしたよなー・・・自分でなんて。』

 なかなか会えなくても、近況報告は怠らないようにしていたし、最近はたまに彼女を抱くことで十分満足していたから。こんなに恋しい思いをするなど想像もしていなかった。

「ああ、愛子ちゃん、早く帰ってきてよう・・・」

 ここ二三日でどんどん負のオーラが濃くなるエースストライカーの姿に、そう願っているのは桜庭一人ではない。

 

 愛子の突然の出張が決まったのはひとつき前のこと。グラウンドレポーターとして結構売れっ子の彼女に局側は研修と称してスペイン出張を命じた。目的は、最近スペインに移籍した全日本の若き司令塔、騎場拓馬の密着レポートである。

『しばらく留守にするけど・・・浮気なんかしないでね。』

 ところがそう言い置いて旅立っていったきり、連絡がない。初日に無事に着いた、という電話があっただけである。そのときにはすでに後ろに拓馬もいて、悪いなぁ、嫁さん借りるでぇ、などと言う声も聞いたのだが。

 いくら何でも、遅すぎる。

 たかが一選手のレポート、十日くらいで帰ってこれるはずだと彼女も言っていたのに。浮気どころではない、和也はあらゆる意味で限界に近づきつつあった。

『拓馬がいるから、なんかあれば言ってくるはずだし。』

 拓馬は和也の良い女房役で、愛子との仲も一番近くで見知っているし、いろいろ助言をくれたりもしていた。今の和也に彼女と会えないことがどれだけ辛いかも、当然察することができるはずだ。しかし、その拓馬からも何も言ってこない。和也は、ここのところ癖のようになってしまっている深いため息をついた。

 

 夕食の時間、和也は食欲がなくて皿の中のものをつつきまわすだけだった。近くに座っていた今年入ったばかりの若手選手がテレビのスポーツニュースを見ながらぽつりとつぶやく。

「そういや、最近森口リポーター見ないッスね。俺結構ファンだったのに。」

 危険な発言である。他のメンバー達は桜庭だけでなく、ニークでさえびくっ、として和也の方を伺う。土黒が止めろ、と目で促したが、その若手選手は気づかず、更にこんなことを言いだした。

「そういやぁ、森口レポーターってW杯から『勝利の女神』なんて呼ばれてましたけど、みんなの、じゃ無くって決まったヒトがいるらしいッスよ。」

 どよーん、という効果音が似合っていた和也が反応してちょっと上向きになる。バンディッツのなかでも古株のメンバーは愛子が和也の恋人であることを知っているが、新人はほとんど知らない。それは俺だよおれ、という言葉が口元まで出かかったが我慢する。しかし、このすっとぼけたルーキー氏は続けてとんでもないことを口にした。

「幼なじみのヒトなんでしょう?・・・騎場選手。」

 今度は、食堂全部が凍り付いた。

 

「ばっ・・・何馬鹿なこといってんだよ、そんな話聞いたこともないぞ。」

 一番に石化から回復した土黒があわてて叫ぶ。騎場とは元々チームも一緒だったが、決してそんなことはなかったと。しかし、新人の方もムキになって言い返してきた。

「いや、結構確かな情報なんすよ。俺のねーちゃんがあの二人の本条高校での後輩なんですけど、当時からすっげー仲が良かったって・・・たいてい一緒に帰ってたっていうし、文化祭でベストカップルにもなったって。」

 拓馬と、愛子が・・・?そんなことは、知らない。

「騎場選手、女性には冷淡なのに彼女にだけは、優しいって。」

 止めてくれ、それだけは、

―考えないように、してたのに。

 幼なじみの愛子。アルゼンチン留学の空白。「ずっと一緒に」居た訳じゃない。

―森口さぁ、髪切ってたよ。おまえのこと、忘れようとしてんじゃねえ?

 電話で友人に言われたときは、笑ってごまかした。行くなと言われても手を離したのはこちらから。帰ってきた自分を、彼女は以前のように迎えてくれたけれど。その間最も彼女の近くにいたのは。

―拓馬だけは愛子を好きにならないなんて、どうして信じていたんだろう。

 友人を疑わしく思う自分に吐き気がした。しかし、和也はもう妄想を止められなかった・・・

 

 ガチャーーーーン!!!ガタッ!!

 派手な音を立てて粉々になったグラスが落ち、和也の座っていたイスが倒れる。全員が、おそるおそるそちらを伺うと、和也は割れたグラスを力一杯握っていた。どうやら握りつぶしたらしい。ぼたぼたぼたっ、と血が机に落ちる。

「・・・俺、」

 席を立った和也がその状態で振り向いてにっこり笑う。が、目がコワイ。

「ちょっと用があるんで、国際電話かけてきます。長電話になるかもしれないッスけど、いいですか?」

 その場にいた全員がぶんぶんぶん、と首を縦に振った。

『高杉が切れると、手が着けられないからなぁ・・・くわばらくわばら。』

 誰にも聞こえないように、桜庭がぼやいた。

 

 拓馬の宿舎の電話番号は以前にエアメールで教えてもらっていた。手紙の山を全部ひっくり返して探し出す。うじうじ悩むのも埒があかないし、第一自分らしくない。

「えーと。001・・・」

 心配なら直接確かめてみりゃいいじゃいか、愛子がどうしているのかを聞くだけだ、何にも不安なことなんかないさ、考えすぎだ、と自分に言い聞かせているが、指が多少ふるえている。おそるおそる受話器に手を伸ばしたとき、機先を制して電話が鳴った。

「はい、バンディッツ東京宿舎ですが・・・」

 電話の前にいた和也がとっさに受話器を取る。

「おお。オマエが一発で電話とるやなんてめずらしな。」

「・・・拓馬!!」

 電話は当の騎場拓馬からのものであった。何でも、スペインのかの地方では、ここのところ電話線の大工事が行われていて、ニッポン放送のクルー達は電話もできず、足止めをされまくったあげく昨日やっと撮影を終えて帰っていったという。

「今日中には成田に着くと思うんやけどな。オマエが心配しとるとおもて。森口も無事に帰ったから心配すなや。」

「別に、心配なんか・・・」

「嘘つけぇ。森口がおらんと煮詰まってくるくせに。ホンマは森口にかけさすんが一番なんやろけど、電話復旧したんついさっきでなぁ、飛行機に遅れてまうよってな、先帰したんや。ちょこーっとうちのチームメイトに言い寄られたりしとったけどまあ、あいつ身持ち堅いから何もあらへんかった。先報告しとくわ。」

「・・・サンキュー、拓馬。」

「いや。おまえらとはもう長い付き合いやからな。」

 和也はふと、さっきのことを聞いてみたくなった。しばらく躊躇したが、結局口に出す。

「なぁ、お前と愛子が本条のベストカップルに選ばれたってホントか?」

 電話の向こうで拓馬が笑い出す。和也はとんでもなく情けないことを言ってしまったような気になって顔を赤くした。

「何や、オマエそれ誰に聞いたんや。」

「・・・後輩の新人。」

「あー、んで和也君は焼き餅やいとる訳や。・・・あれ、高三の文化祭で取ったらクラスに焼き肉食べ放題プレゼントの特典ついとってな、無理矢理出さされたんや。言うほどのことでもないから黙っとったんやけど、そーか、ド天然のオマエでもちゃんと嫉妬すんのやな。」

「な・・・なんだよ、その言いぐさ。俺は、ただ・・・」

 和也がすっかり恥ずかしくなってもごもごと反論する。拓馬が笑いを含んだ声で続けた。

「先言うとくけどな。俺が森口と恋愛することは、まず無いと思うで。・・・俺らは似た者同志やからな。」

「似た者?」

「そう。オマエの女房役ちゅうやつや。俺と森口の関係はオマエがおらな成り立たへんもんやからな。・・・恋までいけへん。」

 和也は、何か言い表しようのないショックを受けた。そして理解した。なぜ他人に言われるまで自分が二人の仲に嫉妬を覚えなかったのか・・・

―一人はフィールドで、一人は実生活で、自分を最も解ってくれる。

 その二人は、裏を返せば自分というプラス極で結びついた二つのマイナス極で、自分を通してだけ繋がっていて。互いに男、女として意識する関係ではなくて、だから拓馬が彼女を好きになることはない、と本能で感じ取っていたのではなかったのだろうか。

 ・・・しかし。わざわざ国際電話をかけてまで自分に愛子のことを報告とは。

―俺、甘やかされてんなぁ。

 拓馬と愛子と。親友と恋人と。フィールド上でも実生活でも一番頼れる友達と、自分のことを見透かしたようにやってきては心を癒してくれる女性と。まるで飛び立つ白鳥を見守る湖のように静かに自分を受け入れてくれるこの過保護な二人がいなかったら、自分はここまで自由奔放に生きていくことは難しかったろう。そんなことはとうに理解していたはずなのに。和也は一時の感情に突き動かされた自分が恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分だった。

「ま、ええ友達にはなれるやろけどなぁ。」

 俺にはそれよりオマエの方が大事やし。言外にそういう響きが含まれている。

「せやからオマエもつまらんこと心配しとらんとさっさと機嫌直せや。どーせ不機嫌モード入りまくって桜庭さん辺り泣かしとるんちゃうんか?」

「あう・・・」

 和也は一言もない。昔っからこいつにだけは頭が上がらないのだ。

「ま。もうすぐ会えるんやからそううじうじすんな。・・・ああ、そうや。久しぶりやからってあんまり森口酷使すんなよ。オマエ限度ちゅうもんを知らんて愚痴っとったぞ。」

 拓馬がげへへへ、と笑い、和也は真っ赤になって馬鹿野郎、と言い返した。

 

「・・・ったく、拓馬になんてこと言ってるんだよ、あいつ・・・」

 電話を切ってから和也がぶつぶつと呟く。勿論、からかわれただけなのは解っているが・・・まぁでも、ご期待には添えそうにもないよなぁ、なんせ、もう随分お預けだし。愛子だってこちらの状態を十分理解しているだろうから、覚悟はできてるだろうし。たとえできていなくたって、あの過保護な恋人が否やを言えるわけがない。

トゥルルルル・・・

 再び宿舎内に電話の音が響く。ついでだから、これも和也が受話器を取った。

「はい、バンディッツ東京宿舎・・・あっ!」

 和也の表情が一変する。とろけるような顔をし、声も一オクターブ上がった。

「そうか、今、何処?・・・成田?・・・うん、電話があった。拓馬から・・・ばぁか、そんなことするかよ・・・ちょっと待ってろ、そっち行く。」

 待望の、愛子からの電話であった。今夜は一緒に居られるんだろう、とかなんとかいって馬鹿!と怒鳴られながらも、和也はさっきまでが嘘のように上機嫌になり、電話を切って彼女を迎えに行くために走り出す。

―あの二人の掌の上で泳がされてるんなら、それでも良いか。

 この居心地の良い湖から出て行く気など更々ない和也であった。

 

                             ―了―