『道程』
男はゆっくりと階段を登っていった。
気力の萎えが全身を気怠く感じさせ、男の動作から普段の機敏さを消している。
・・・いや。
―――――儂は老いた。
男の名は受。商王朝最後の王である。
階段の上には藁が積んである。彼は今そこで自焚して果てようというのだった。
本当なら昨日までの戦に疲れ果てた体を引きずってまでこんな事をしなくても良いのだ。
ただ玉座に鎮座しておれば、明日にでも敵軍は彼を捕らえ、黙っていても彼と彼の王朝に幕を引いてくれるだろう。そう考えると、「王」の晴れの装束も玉の帯も、冠も何もかもがとてつもなく重く感じた。
だが。
―――――常に帝王に相応しい態度をお取り下さいませ。
しわぶきの声が耳の中で積もって、水音を立てる。
―――――わかっておるわ、太師。
男は一人の人物の顔を思い浮かべる。聞仲、という。商王朝に代々使えており、受王も幼い頃より彼に良く面倒を見て貰っている。
彼も、この戦の半ばで既に帰らぬ人となっていた。
―――――王の「徳」が地に落ちると、王朝は滅びます。
―――――お前もか、比干。
あの温和な顔の文官も死んだ。彼自身の手で死刑を言い渡したのだから間違いない。
望まれて、王位に就いたはずであった。元々彼は第三王子であったのだ。にも関わらず最高の位を手にしたのは王としての器量によるものである。
・・・はずであった。
彼も周囲もそう信じて疑わなかった。美貌、知性、武芸の腕前。どれ一つとして他人に負けたことはなかった。
全てを兼ね備え、拍手で王に迎えられた彼とて、父祖から受け継いだこの豊かな国を滅ぼす気など毛頭なかった。
―――――だが。
彼は拳を握りしめる。
―――――どこで、狂ってしまったのだろう。
現実には、ふと気が付けば彼の大事な人々が次々と居なくなっていくのだ。
―――――なぜに、皆儂を見捨てて行くのだ。
握った掌に力がこもる。王らしく振る舞おうとしたはずだ!!しかし・・・握りしめた手はすぐに力を失って垂れ下がった。
―――――儂が、至らなかったから、か・・・?
男は今初めてそのことに思い当たった。いや、実際には初めてではない。今までも何度か、そう思ったことはあったのだ。なのに。
―――――どうして、忘れてしまったのだろう。
そうやって抱いた心はすぐに桜の花の如く散っていってしまうのだ。彼は舞い落ちる最後のひとひらを受け止めたような気持ちになった。嬉しいような、悲しいような。惜しいような・・・その思考もすぐさま暗く沈む。
―――――儂が、悪かったのか?皆、儂が殺してしまったのだな。
姜皇后、黄皇后・・・優しく、美しかった後宮の華達。
・・・そして。
―――――ダッキ。
彼女は無事逃げおおせただろうか。周軍に捕まれば天下の悪女などと言われている彼女のこと、必ず殺される。
―――――もう、十分だ。大切な人間を先に逝かせるのは。
最早、彼には彼女しか残っていなかったのだから。
屋上が近づいてきたらしい。目の前に光が射してきた。男は思わず足を止めて目を背けた。
―――――眩しい。
太陽の光。フッ、と男の顔に笑みが浮かんだ。
―――――それでも、朕は王だ。
鹿台。自分が立てさせたこの壮麗な建物ほど相応しい死に場所があろうか?
―――――天よ、今商王朝を再び貴方の手にお返ししよう。
これは男の王朝だ。他の輩に幕を引かせるわけにもいくまい。そうして、商は永遠に彼だけの王朝になるのだ。
―――――朕が王なのだ。
背筋が伸びる。体の疲れも気怠さも、いつしか消え去っていた。残りの段数を数える。
―――――十一段か。二つ多いな。
更に二段登って立ち止まる。
―――――天子は、九段の階段を登るのでなければ。
衣冠の乱れを直し、正面を向いて。威厳を質し、またゆっくりと歩き出した。
最早何も考えまい。過去などもう自分には存在しないのだ。自分はこれから永遠の未来を手に入れるのだ。
―――――聞仲、比干、見ているか?朕は、真実商王朝の天子となれるのだぞ。
笑いがこみ上げてくる。笑うまい。
―――――天子には、威厳というものが必要だからな。
男は、光の中へと歩み去っていった。
<了>
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