誰にでも見える形で僕の不幸は身体に痕を刻み込んでいった。
身体の内側を病に浸食されるのは、どんな気分か知っているかい?
焦燥感と不快感の続く日々。
絶望も、長いこと続きすぎると麻痺してただの重い倦怠感になる。
起きて体を動かして呼吸して食事をして眠って、そんな行動と同じように、
「死」というものへの諦観がある。
そういうおかしな人格の形成と共に、僕は大人になった。
ひとと違っているとか変わっているとか、言われないのがまだしもましだったのかもしれない。
「天才だ」とひとからはよく評された。
だけれども、僕自身は生まれてこの方そういう風に思ったことはない。
この、硝子のように扱いにくい天賦の体。
持てるものは全て使い尽くさないと常人と同じようには動けない体。
僕はただ、いつの間にか、自分の持つ力というものを
ほぼ100%に近い形で出力する術を身につけていたに過ぎない。
そうしないと、とてもやっていかれはしないから。
大きくなって、大人に近づいて、体の能力が初めて他人と同じになると、
自分の持つ力を集約できることは、僕にとって大きな武器になった。
そうして、『硝子のエース三杉淳』は誕生したのだ。
僕にしてみれば、そんな、単純なこと。
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僕の病には大きな難点があった。
発作だ。…これが、何時来るか分からない。来たときに適切な治療や投薬が有ればいいのだが。
そうして、気がつくと僕は僕の体をカバーするために側に人を置くようになった。
いや、適切に言うなら「居てくれるようになった」と、言うべきか。
とにかく、僕にとっての青葉弥生は、初めはそういう類の人間であったことだけは間違いない。
病気のことを知られ、発作のことを知られ、
前でポーズを取っても仕方がないのでいっそ甘えてしまうことにした。
彼女にも、不安を胸に抱えて見つめているよりは側で全てを知っている方が安心です、
と言われたことを理由にして。
キャプテンは、頼ることを覚えてください、と幼いながらの言葉で言われ、
ついつい意味なら知っているよと軽口を返して泣きそうな目で睨まれたこともあった。
何もかも、幼かった。…と、思う。
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いつの間にか、「マネージャー」が「弥生」に変わり、妙な気安さが生まれた頃には、
僕は弥生の事を無意識に独り占めしていたのだと思う。
側にいないと、妙に落ち着かないような。
だけれど、僕には余人はおろか、弥生の前ですら決してしない行為が一つだけあった。
衣服を着替えることは、例え両親の前でも潔しとしないのが、僕の頑ななまでの決定事項だった。
サッカーというスポーツを生業にするんだから、
人前で着替えるチャンスなんかそれこそ幾らでも有るのだが、出来うる限りスルーした。
幸いなことに、僕のオフィシャル向けのプロフィールとか性格やなんかは、このことを上手くカバーしてくれていた。
スカしていると言われようがお高く止まっていると言われようが、何でも良かった。
硝子の心臓のエースは、いつの間にかその玻璃の乱反射で己の実像を隠すことを覚えていた。
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軽い発作を、起こしたのだったと思う。
あのときのことは必死だったから、肝心なこと以外は余り細かいことまで良く覚えていないから。
例えば。
振り払われて、大きく見開かれた弥生の目。とか。
彼女は、苦しそうな僕を見かねて楽になるまで襟元をくつろげようとしただけだった。
「触らないでくれ!」
叫んで、腕を払いのけていた。苦しい息の下、それでも咄嗟に取った行動が彼女を傷つけたのかと知る。
「…すまない。」
「いいえ…。」
呟いた彼女は、要らない事をした、と後悔しているようだった。
生憎、その場面では言ってやれるほど僕にも余裕がなかった。
そうではない、と。
携帯していた薬を即座に弥生が飲ませてくれていたお陰で、程なくして僕の体は悲鳴を上げるのを止めた。
段々に呼吸の大本が落ち着いてくると、
今度は、物理的な痛みとは違うものがそこを刺しはじめる。
弥生の暗い表情は、いつしかそれだけ僕に対しての影響力を持ち得るようになっていた。
僕が彼女の手を振り払った理由は、馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいくらいに下らないもので。
装飾用の硝子を彼女に対して一枚割ったところで、それでどのくらい変わるものだろう。
いつか何もかもさらけ出さなくてはならないのなら、その相手は、弥生がいい。
そう、決めた。
弥生がそれでどう思うかを考えないのが僕の凄いところだと後から思ったが、
あのときはもう、弥生に伝えることで頭がいっぱいだった。
本当の心を捧げれば、何かが変わる気がした。
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ゆっくりと断続的に気怠さを訴え続ける体を起こし、弥生を手招きする。
「弥生、…見ててくれないか。」
言いながら、僕は上着を脱いで、ボタンに手をかける。弥生が驚いたように腰を浮かした。
「ちょ、淳…?!」
「大丈夫、変なことをしようとか、そういうのじゃ、ないから。」
弥生を目で制して、ボタンを一つずつ外していく。
状況が違えば、随分と色っぽい行動だっただろうが。
事務的に、機械的にシャツの前がはだけて行くに従って、胸元が大きく露出していく。
はいていたパンツからもシャツを引っ張り出し、一番下までボタンを外して、大きく前を広げる。
彼女が、息を飲んだ。
「淳。」
「…びっくりした?」
弥生が大きく目を見開く。そりゃそうだろう。
遠征に行こうが旅先だろうが、決して人前で僕が服を脱がない理由がこれだった。
胸の中央に縦一文字に入る、長い傷。
それは、昔その中央の臓器を胸を切り開いて治療したその痕でもある。
男だから傷痕が有ろうとなかろうと大したことはないのだが、
羞恥心よりも見栄よりも、その後で向けられる同情に満ちた視線や驚きが鬱陶しかった。
だから、なるたけ人には見せないようにしていた。
断罪や反応が欲しかった訳じゃない。
ただ、知っておいて欲しかった。
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それまでずっと黙っていた弥生が、ぽつんと言葉を落とした。
「なんだか、畑を耕した後みたいね。」
「畑?」
「うん、そう。耕して、種を撒いた後みたい。」
言いながら、弥生は少し微笑んだ。
「きっと、いつか花が咲くわ。」
素っ頓狂な彼女の感想に一瞬呆気に取られ。
僕は思わず吹き出した。
「それは、想像すると相当シュールだよ。」
「やだ、想像しちゃ駄目じゃない!例えよ、例え!」
真っ赤になる弥生をはだけたシャツの胸元に抱き寄せながら、僕は笑った。
彼女は焦って逃げようとしたけれど、関係なくその柔らかい体を傷痕に押しつけた。
もう、全然痛くなどなかったのだから。
ただひたすら、笑い続けた。
きずあとなど、何でもないことのように、ただひたすらに。
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彼女への「甘え」が「恋」に変わったのは、きっとあの頃の話だったに違いない。
一生消えない傷痕は今も僕の体に残り。
ひとつ変わったのは、時々花が咲かないかとそこを覗き込んでいる自分が出来て。
そうして彼女は、僕の隣にいる。
end.