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二、「誠心館」
石田流剣術、「誠心館」の師範石田貫一郎は、理心の紹介ということもあって清治郎を快く迎えてくれた。その日は丁度稽古日ではなく、道場には彼等三人だけである。
貫一郎が少し苦笑めいた笑顔を浮かべながら清治郎に言う。
「まぁ、今の世の中其程真剣に剣術を学びたいというものばかりでもないのだが、それでも私ともう一人居る師範代の林谷君だけでは手が回らなくてね。」
言うが、巌のような体つきに相反する如才ない笑みからすると、門人の多さは彼の人と為りに負う所も大きいのだろう、と清治郎は当たりを付ける。それを知ってか知らずか、貫一郎が続ける。
「理心君が認めるなら腕の方は確かだろう。流儀は?」
このような場合、他流のものが雇われて稽古を付けることも良く行われていた。ただの町道場とはいえ、誠心館は壁に掛かった札の数を見る限り、相当数の門人を抱えているようでもある。
「一応は、無外流を。しかしまぁ、我流と言ってしまっても差し支えはないかもしれません。」
苦笑する清治郎に、貫一郎がああ、構わないと手を振る。
「とりあえずはうちの師範代と手合わせを願おうか。」
そこに、いつの間にか席を外していた理心が面小手を付けて現れた。くすりと小さく笑うと、
「塾頭の青山理心です。一手お願い出来ますでしょうか。」
とぽかんとする清治郎に竹刀を手渡す。
清治郎が首を振りながら立ち上がった。
「さすがは剛さんの娘さんや。ヤットウの腕も立つんかいな。」
そういやちっちゃい頃から道場覗いたりしとったもんなぁ、となにやら感慨深げに呟きながら清治郎がそのまま竹刀を構える。
「防具は?」
訪ねた理心に、清治郎が苦笑する。
「ああ、かましません。」
ぴくん、と面の中で理心の眉がつり上がった。
女だからといって、手加減したりなんかしたら痛い目見せてやるから。
貫一郎も横合いから言葉を添える。
「本当にいいのかい、高尾君。」
「はい。」
ぴたり、と清治郎が青眼に竹刀を構えた。
理心も同じように中段に構える。
すっと貫一郎が腕を上げた。
「では、始め!!」
どうなったのか一瞬分からなかった。
けれど気がつけば、理心の面にはぱぁん、という音と共に竹刀が打ち下ろされていた。彼女が打ち込んだはずの場所には清治郎の影すらも見えず。一体彼がどう動いたのかすら、理心には見ることができなかった。
「一本!それまで!」
貫一郎の声にも驚きが混じっている。
「早いね。」
そのまま、動けないで居る理心に声をかける。
「理心君、まだ、勝負するかい?」
理解っている。この男は自分より遙かに強い使い手だ。ぶん、と一つ首を振って、理心は収まらない気持ちを振り払った。
「いいえ。」
貫一郎が嬉しげに微笑む。
「よし、じゃあ早速明日からでも来てくれたまえ。大した額ではないが謝礼も出せる。どうかね。」
「ほな、そうさせてもらいます。」
言いつつ、清治郎はちらりと理心を見た。やりすぎたか、とは思ったが、そう手加減してもいっそ悪いだろうと思ったのだ。気の強い理心のこと、怒らせてしまったか、と内心ヒヤリとする。
その後も、道場を出るまで理心は黙ったままであった。
日が暮れる頃、二人は誠心館を辞した。理心はにこりともしない。その後を所在なげにひょこひょこ着いて歩きながら、清治郎が声をかけた。
「理心さん、怒ってしもたんですか。年期の差ですがな。俺は物心着いたときから二十五年も剣術やっとるんですから。」
理心がぴたりと立ち止まる。目を丸くして振り返った。
「じゃあ、あなた二十五歳なんですか。」
言いながら、自分より二寸ばかり上にある清治郎の目線を見上げる。
「十八、九かと思ってた。」
これには清治郎がつんのめりそうになる。
「そんなん、理心さんと変わらへんのやないですか。」
「私、今年で十九よ。」
「ああ、女の厄ですか。」
「放っておいて。」
言いながら自分をしげしげと見つめる清治郎の無遠慮な視線に少し赤面する。十九といえば、子供の一人や二人居てもおかしくない年なのだが。
その思考を読んだように、理心が口を開いた。
「何か言いたそうね。言っておきますけど、母さんが病弱だからお嫁に行きたくないだけで、縁がなかったわけじゃないのよ。」
「いや、別にそんな。」
言いかけて、先日彼女に絡んでいた男が言っていた『剣術後家』の言葉を思い出す。
俺は勝ったもんの、あの腕前でこの性格やもんなぁ。並の男はそら歯が立たへんやろ。
「何をにやにやしているの、気持ち悪いわねぇ。」
理心が不審そうな表情で清治郎を見上げる。
「いや、何でもあらしません。」
「何でもなくてそんな緩みきった表情になるのかしら。どうせろくでもない事考えていたんでしょう。」
さぁ吐きなさい、と詰め寄られ、清治郎が首を振る。
「いや、ほんまに、」
自分を負かした男に対しても早速この態度である。なんでもありません、と言いさして、清治郎はとうとう笑い出してしまった。何がおかしいのよだから、と憮然としていた理心も最後にはつられて苦笑する。
「まぁ、いいわ。早く帰りましょう。遅くなると母さんが心配するもの。」
「は…」
返事をしかけて、清治郎がぴたり、と立ち止まる。理心が振り返った。
「どうしたの。」
「五、いや、七人、か。流石に東京ともなると、妙なもんが徘徊しとるなぁ。」
理心の問いかけには答えず、清治郎が呟く。なにが、と問おうとして、理心もふと立ち止まった。
なにか、人の気配。
そして、悪意のようなざわめく空気。
ぞっと理心の肌に粟が立つ。
「な、誰…。」
「あたしですよ、理心さん。」
悪意は、人の形をしていた。前方にゆらりと黒木が姿を現す。その両の目は、異様なまでにぎらぎらと光りぬめっている。今度こそ、理心の体が総毛立った。
その彼女を庇うように、清治郎が一歩前に出る。だが、がさがさという音と共に、二人の回りを同じように目をぎらつかせた男達が取り囲んだ。
ふん、と清治郎が微かに小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「肥大しきった欲につけ込まれたんやな。まぁ、頭足りんような男やったもんな、そいつ。」
黒木は清治郎など意にも介せず、低い声で唸る。
「その、女を渡せ。」
「悪いな。そういう訳にはいかへんのんや。」
清治郎に譲る気配はない。そのままだらんと垂らしていた腕を懐に突っ込み、呑んでいたらしい匕首を取り出した。
つい、と理心の方に視線を送り、少し微笑みを浮かべながら言う。
「理心さん、これから何があっても驚かんといてください。理心さんならでけるでしょ。」
同時に、匕首の口を切った。理心が瞠目する。
柄には、在るべき筈の刃が無かった。
と、次の瞬間にはそこに細い刀身が出現する。長さは、普通の二尺三寸刀くらいだろうか。どう考えても懐に入れられる長さではない。理心が不審に思うより先に、清治郎が口を開く。
「このお嬢さんには手ぇ出させへんで。恩人の娘さんやし、何より。」
ひゅっ、と空を切る音を立てて刀を構える。
「お前ら程度の小妖怪の餌には勿体ない別嬪さんやからな。」
黒木は口の中でなにやらぶつぶつ呟いていたが、カッと目を見開くと、爪を立てて襲いかかってきた。口からは涎を垂らし、獣じみた声を上げる。悪鬼のようなその形相に、さしもの理心も足が竦んだ。正気を失う、等という問題ではない。
清治郎が、腰を落とした。
最初の一人を横なぎに払い、続いて返す刀でもう一人を切り上げた。強い、と理心はまずそのことに気を取られる。たちまちの内に三人が斬り伏せられたところで、ふと気付いた。既に帯刀が許される時代は終わっている。いくら向こうからかかって来たとはいえ、斬り捨て御免と事情が許す訳がない。
その瞬間、一番近くに倒れていた男の腕がぴくりと動いた。思わず視線をそちらに動かすと、男は死んではいなかった。傷口もないし、血すら流れていない。
最後の一人を袈裟懸けに斬って捨てた清治郎が、彼女の視線に気がついた。
「中に取り憑いとった奴を斬って捨てただけです。」
血振るいするように刀を振ると、刀身は再び消え失せる。再び柄だけになった匕首を懐に突っ込むと、清治郎は彼女を振り返った。
「いけますか、理心さん。怪我とかあらしまへんか。」
言いながら微笑む。端正な顔からはちょっと想像できない戯けた口調に、理心の緊張が一気に解れた。詰めていた息を一気に吐き出しながら、強張った笑みを浮かべる。
「ええ、なんとかね。ところで。」
多少きつい視線を清治郎に向かって投げかける。
「全部終わったみたいだから聞くけれど、なぁに、今のは。」
「何って。見たまんまですけど。」
きょとんとして清治郎が言う。理心が苛立ったように続けて聞いた。
「だから、何が起こったの、って聞いているの。」
「何って言われても。人間に妖怪が取り憑いて襲ってきたから、やっつけただけですけど。」
あっさりと言われ、理心が絶句する。清治郎が苦笑を浮かべた。
「信じられへんのやったら夢やと思て忘れた方がええですよ。どうせ、今みたいな思いすることなんて一生の内に何遍もある訳ありませんし。しかも、そこに退治でける人間まで居合わせる事なんて、ほんまに低い確率の出来事や思いますし。多分もう二度とありませんと思いますから。」
冷静に考えてみると確かにその通りなのだが。
「清治郎さまって、妖怪退治とかできる人だったんだ。」
言われた当人は苦笑して頷く。
「こないなこと出来たからて世の中渡っていける訳でもないんですけど、まぁ、一応。」
「どうして?」
「って、言われてもなぁ。」
清治郎が困惑する。物心着いたときからでけるんやもんなぁ、仕方ないでしょ、とだけ答えた。理心が質問を変える。
「そんなに珍しいことなの、妖怪が出るって。」
「ええ、普通は。妖怪やのうて、妖魔とでも言うたらええかもしれませんね、人襲うのは。それに。」
ちらりと理心を見て笑う。
「ようある事やったら、妖怪やの妖魔やのはお伽噺やとは思われてるはずがないでしょ。」
「あ、そうか。」
「まぁ、こういうこともあるんやなぁ、いうことで。理心さんが妖魔に恨みを買うような事がない限り、もう二度と起こらへんでしょ。」
「ないわよそんな覚え、今回だって。」
憮然として理心が答えると、清治郎が今度は声を立てて笑った。邪気のない笑顔に、理心もつられて顔を綻ばせる。清治郎が思いだしたように言った。
「あ、理心さん、今のことですけど。」
「言っても信じて貰えないようなことは言いません。それに妖怪憑きだって噂が流れて清治郎さまが折角手に入れた職を無くすのも不憫ですから。」
けろっとした表情で理心が返す。万事心得ている、という表情だ。清治郎が思わず頭を下げた。この娘は、ただ気が強いだけではなくて頭もいいらしい。
「お願いします。ここへ来て無職も困るんで。あと、「さま」はええですよ。そない大層な身分でもありませんから。清治で丁度ええくらいで。」
「はぁい。じゃあ、帰りましょうか。晩ご飯の支度もしなきゃならないし。」
「そういえば腹減ったかも。」
二人は家路を急いだ。東京は、川が多い。そのうちの一つの土手の上を歩く二人の姿を映して、川の水は流れていった。海へ、そのずっと先へと。
本当は、事態の根っ子は本当はもっと深いところに潜んでいた。ましてや、清治郎が青山家に顔を出すことを思い至った、というその出来事自体によって、家で待つ幸枝が腹に一物を抱えるようになったことなど、このときの彼等には全く思い当たるはずもなかった。
迂闊にも清治郎は気付かなかったが、理心の彼の力に対する冷静な態度にも理由が存在したのだ。勿論、清治郎の飄々とした違和感を感じさせなかったことも原因の一つだが、いくら理心が気丈な娘だと言っても、それだけで超常現象に慣れるはずもない。
取り立てて口にすることでもないと思ったので言わなかったのだが、幼い頃、彼女は何度も同じような光景を目にしたことがあった。父親である剛が、青く輝く刀を振るって、同じように瞳をぎらつかせたもの達と戦うのを。その光景は、理心の胸の中にしっかりと焼き付いている。
彼女の父親は、大きな家の一人娘だった幸枝と半ば駆け落ち同然に結婚していた。幸枝の実家は尚武の家系で、その風もあって理心自体も幼い頃から剣術だの柔術だのに興味を示したところも大きい。剛達は随分危ない目にも遭ったようだが、理心が生まれたその時、幸枝の実家は青山姓を名乗ることを条件に二人の仲を許した。
娘が生まれたのなら仕方がない、と。
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続。
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