四神の剣

-壱-



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一、「風来坊」



 東京は、快晴である。

 細い下町の路地に、一人の青年が姿を現した。むずかる赤ん坊をあやしに外へ出てきた若い母親が、青年の姿を認めてふと視線を逸らした。

―――この、文明開化の世の中に。

 明治二十一年、青年の長い束髪や、まるで浪人を思わせる格好はそこだけ時が止まってしまったかのように見える。


 同じ頃、その長屋からそう遠くない小さな家の前で、如何にも裕福な家の放蕩息子、といった感じの男が一人の少女に付きまとっていた。

「理心さん、おっかさんの具合はどう?ちょっとは良くなったかい?」
「あら、黒木さん。ええ、お陰様でまずまずというところです。」
 この理心と呼ばれた少女は、桔梗の花のような、とでも形容したらいいような姿の良い、瞳に凛とした光の宿る娘である。黒木が娘を上から下までじっと眺め回し、下卑た笑いを浮かべた。
「ところで、この間の話、考えてくれたかい?」
「何のお話でしたっけ。」
 理心の方はどうにもこの男が苦手らしく、返事もどこか余所余所しい。しかし黒木は構わずにやにやと笑いながら続けた。
「あたしのかみさんにならないか、という話ですよ。貴女も病弱なおっかさんを抱えて、町道場や内職の僅かな稼ぎじゃ食べていけないでしょう?」
 理心が黒目がちの大きな瞳で黒木を見上げる。
「お断りします。貴方が町のごろつきとの交際(つきあい)を絶って、私よりヤットウの腕が立つようになれば、考えてもいいですけれど。」
 小馬鹿にした答えに、黒木がむっとした表情を浮かべる。
「お黙んなさい、相変わらず口は減らないわね。ちょっと優しくすればつけ上がって。まぁいいわ。もう少しだけなら待ちましょう。」
「別に待って頂かなくても結構ですわ。」
 ぴくり、と黒木がまた眉をつりあげた。
「ヤットウの腕がちょっとばかり立つからっていい気になるんじゃないわよ。そんなだから「剣術後家(ヤットウゴケ)」なんて言われるのよっ!」
 理心はとうに相手にしない。黒木はぷいと立ち去った。それを見送り、ふぅと一つ息をついて、理心が家の戸に手をかけた途端。

「いやぁ、ごっつ気の強いお嬢さんやなぁ。」
 という声がかけられた。少し低めの、明るい声である。理心がついつられて振り向くと、そこには長い髪の毛を後ろで一つに束ねた、中背で細い体躯の青年が佇んでいた。

「誰ですか?貴方。」
 青年は屈託無くにっこりと微笑んだ。
「いや、この辺に住んではる青山殿ちゅう方の家を探しとったんやけど、たまたまお嬢さんがあの好かん男追い払うの見てな。」
 ついつい声かけてしもうて、と青年が人なつこい笑みを浮かべながら言う。理心が不審そうな表情を浮かべながら、戸惑うように答えた。
「青山なら…家ですけれど。」
「え、ええっ?!したらあんた、剛さんの娘さんか?!」
 青年が素っ頓狂な声を張り上げて、まじまじと理心を見つめた。


 理心の父、青山剛はちょっとした剣客で、存命時は警視庁に勤めていたのだが、先だっての朝鮮争乱の折り、短銃を持った暴漢を追いかけて待ち伏せる途中、運悪く道へと出てきた少年を庇い、殉職した。
 幸い、妻の幸枝がしっかりした女性で、裕福な家の娘でもあったので経済的な破綻は免れたが、それでも母子二人で細々と体を寄せ合うようにして暮らしている。



「青山殿のご内儀、お久しぶりです。私は昔、京都で青山殿が剣を教えておられた折りに、そこの道場で一緒に師範代を勤めていた者で、高尾清治郎と申します。」
 青年の言葉には所々上方の訛が入る。それが妙におかしくて、整った顔立ちのこの青年を柔らかく見せていた。理心に案内されて入ってきた青年に、幸枝が微笑んで覚えておりますとも、と呟く。
「よくいらっしゃいましたね。私は青山の妻で幸枝、こちらは娘の理心と申します。」
「ああ、もしかして昔よう道場に遊びに来てはったお嬢さんですか?大きいなって別嬪さんになってはったから、全然分かりませんでした。」
 青年が笑いながら言う。理心の方には、彼に見覚えはなかった。
 青年…清治郎が、ところで、と話題を変える。

「青山殿は今どうしておられます?」

 問われて、幸枝が目を伏せる。
「二年前、他界いたしました。」
 清治郎が目を見開く。
「な…なんやて?!」
 母に代わり、理心が口を開いた。
「子供を庇って、暴漢に撃たれたんです。」
 がくり、と清治郎が項垂れ、混乱したように視線を彷徨わせる。
「そう、でしたか。どうも、なんや辛い思いさせた様で…すんません。」
 いいえ、と幸枝が首を振る。

「ところで、高尾様は主人にどのようなご用で?」
 いやはや、と清治郎が苦笑した。
「一つ所に落ち着いてようおらへん性質でして、あちこち浪々としとったんですが、お恥ずかしい話ですが丁度東京に着いたところで路銀がのうなりまして。」
 照れたように頭をかく。
「どっか働き口を探そうかな思た時に、たまたま青山殿の事を思い出したんですわ。」

 このように、当て所のない旅をする人間は、行く先々で当座の路銀を稼ぎながら生活するものであった。清治郎がでも、と言いながら立ち上がる。
「理心さん、かな。すんません、青山殿に線香だけあげさせて貰えますか?そうしたら発とうと思いますんで。」
 理心が流石に驚いた顔をする。
「なにもそんなにお急ぎにならなくても、今日一日くらい。お金もないんでしょう?」
「なに、そないご迷惑おかけするわけにもいきません。金が無いならないで、どないでも過ごしようはありますんで。」
 さっと立ち上がって出ていこうとする清治郎の後を、引き留めるわけにも行かなくて困ったように目で追っていた理心に、ふいに幸枝が声をかけた。

「理心、たしか石田先生のところで剣を教える方を探していたとか言っていなかったかしら。」
 理心が驚きながらも頷く。
「え、ええ。」
 彼女は死んだ父と石田貫一郎という剣客の道場で剣を学び、今では師範代を任される程の腕前で、門弟達に稽古を付けていたのだが、父が死んでからというもの、生活費を稼ぐために博学の父親から学んだ英語を生かし、洋渡りの本を翻訳する内職を始めたため、以前のように思うようには道場へ行けなくなってしまっていた。それ故に貫一郎は理心に代わる使い手を捜していたのだが、明治九年の廃刀令以来、剣術は撃剣など、ただの娯楽への道を辿る一方で、代わりのものはなかなか見つからなかったのだ。
 幸枝が頷き、清治郎を振り向く。
「それでよろしいですか?高尾様。」
「あ、いや、それは、しかし。」
 清治郎も理心と同じく驚いた顔をする。

 しかも畳みかけるように、幸枝が
「理心、父様のお部屋に高尾様をお通しして使っていただきなさい。」
 と有無を言わせぬ口調で言ったものだから、清治郎は驚きを通り越して硬直して口も利けない。理心はその彼を奥の一室へ押し込んでから、流石に母親に向かって非難がましく問いかける。
「お母さん、あの人を家へ居候させる気なの?どうしたの、急に。そりゃ悪い人じゃなさそうだけれど…お父さんやお母さんの昔の知り合いになんだけど、あんな浪人崩れみたいな人…。」
 幸枝は、ちょっとだけ笑って見せた。
「いいのよ。お父様が生きていらしてもきっと同じ事をなさったと思うわ。あの方はね、理心。」
 そこで言葉を切る。

「多分、今この国で一番強い人よ。」

 貴女を守れるくらいにはね、理心。

 後の言葉は声にはならなかった。理心は不審そうな面もちで、奥を見やる母親に聞こえないように呟く。
「あのぼへっとした上方訛の男がねぇ。」

 その日は、何事もないままそのまま暮れていった。





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続。

 

 

日記で連載していましたが、オリジナル始めてしまいました…。
ドツボと呼んでください。リライトしまくりながらなので
コレでノート一ページ分くらい。
書けているのは3〜40ページ分くらい(爆)
道のりは遙かに遠いです。

 

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