『今までと、これからと…』 |
「じゃあ…、な」 「うん、お休み」 さくらマートの店先で、和也と愛子は同じような表情で、佇んでいた。 時刻は深夜。ほぼ住宅街と言っても良い場所に位置する路上には、人の気配はまるで無い。シン、と静まり返っている。フランスから帰国したその足で、飛行機の遅れがあったりと些細なトラブルに巻き込まれて、図らずもこの時間になってしまった。 和也は愛子を自宅まで送り、自分もまた久しい実家に戻るところである。 和也が単身フランスに渡り、愛子がそれを追い掛け、そしてワールド杯…。実質的に、二人は約2ヶ月異国の地にいた事になる。 そしてまた、その間、決して離れる事の無かった二人は、ほんの僅かでも距離を置く事に戸惑いを覚え、素直に内心の感情を表に出していた。 けれど。それを断ち切るように和也は背を向け、自宅へと続く路上へ、一歩、足を踏み出す。 愛子は黙ってそれを見送る。 言葉はいらなかった。 もちろん、幼馴染みであるが故の事もある。幼い頃から常に行動を共にし様々な体験を共有した二人であるが故の。そしてまた、今の二人には、それ以上の何かが繋がっていた。 今まで、ぼんやりとして、当たり前すぎて意識する事のなかった『何か』。それが今は、ハッキリと分かる。理解し、受け入れている…。 「なあ、愛子」 「…? なあに?」 和也は立ち止まり、一瞬、瞑目した。再び目を見開いたとき、微かな決意の光が瞳に宿っている。上着をはためかせ、ぐるんと振り返った。上着のポケットに手をのばし中を探りつつ、また、引き返す。 いきなりの和也の行動を理解しかねて、愛子は首を傾げていた。 「これ…、やるよ」 「?」 差し出された和也の拳の中。 それは小さく、光源の少ない路上、和也の手にすっぽりと納まって、差し出されたものが何なのか、すぐには判別できないでいた愛子だったが。 「???」 黙って和也は愛子の手のひらに、それを乗せた。ゆっくりと、自分の手を退ける。 「………え!」 手の上のそれを見た瞬間、愛子の思考は真っ白くなった。慌てて、和也の顔を見上げる。彼の表情は、伸びた前髪と闇にまぎれて見えなかった。 「え…? え…?」 言葉らしい言葉も発せず、ただただ震える指先をもどかしく、愛子はそれ…小さなビロードの箱…を開ける。 現れたのは、夜空に点る月明かりを精一杯に吸い込んだ、青白い幾重もの複雑な輝き。プラチナの鋭いフォルムを優しく包み込み、なお凄絶に艶やかに存在を主張する自然石の貴婦人。 ダイアモンド・リング。 腕の良い職人が、端正込めて造作したのだろうそれは、決していやらしく無い程よい大きさのヘッド・ストーンを優雅な曲線であしらっていた。 「和也…?」 押さえられない喜びを満面に、和也に囁きかける愛子。 それを機に和也は、ひとつ大きく息を吸い込むと、ようやく愛子の目を見返した。 「ホントは、向こうで渡すつもりだった…。なかなかチャンスがみつかんなく て…」 赤面し、湯気をたててしまいそうなほどに、彼の身体中の血液が沸騰している。 後頭部をガリガリと掻き、それでも、何とか言葉を続けようとする和也を、愛子は見つめて待つ。 「その…、なんだ、あのアルゼンチン戦でさ…」 「…またあ?」 突然サッカーの事を口に出した和也に、愛子は呆れる。前にも、これとそっくりな状況があった。 ぷううっと顔をしかめた愛子を、和也は手で制する。そして、続けた。 「ダミアンと、PKでやり合ったあの時な…。 ホント言うとチームが勝つ事も、ダミアンとの事もどうでも良くなってたんだ、俺…」 「え?」 和也とダミアン…アルゼンチン代表、ダミアン・ロペスとの深い因縁。 2人のサッカーが、これからもきっと、唯の好敵手で終わる筈の無い事を、ワールド杯、そしてあの試合を目撃して愛子は悟っていた。それ程のものを、和也はどうでもいい、と言う。彼の告白に、愛子は呆然とする。 和也は言った。 「見ていて、欲しかったんだ」 絶体絶命のあのフィールドの中で。 何万と言う熱狂に渦巻いた人々の中、見上げた先にいたのは、彼にとって誰よりも、何よりも大切なたった一人の存在。 「ボール止めてかっこいいトコ見せて、そしてもう一度…、俺の事を見て欲しかった」 「和也…」 ハーフタイム。 残酷な別れを経て、偶然にも再会した二人の間にあったのは、壊れかけた堂々回りの互いの想い。 愛子は、憔悴していた。和也を大事にするあまりに、いつのまにか負担になりつつあった心を持て余して。とうとう、和也の事を考えるのも、見るのも嫌だと泣いて訴えた彼女。後半戦はもう見ない、そう言って彼女は会場から姿を消した。 その場に残され、それでも闘い続けるしかなかった和也。 (いつも自分のそばにいてくれた存在が、失われてしまう…?) すぐには理解できず、混乱する彼には、彼女を自分の元に止める他の手段は思い付かなかった。とにかく、目の前を飛んでくるボールを止めて、スーパープレーを彼女に見せて。 もう一度…、自分に振り返ってくれることを願うしか。 「恐かったんだ。お前が、俺の前からいなくなるのが。…でも、あの時…、俺はどう言えばいいのか分からなかった。だから…」 和也の告白に、フ…、と彼女は息を一つ吐き出す。 「…私ってば、じゃあ、見事に作戦にはまっちゃったんだ」 「へ?」 苦笑とともに、愛子は和也を見返す。 「…私ね。ホントにさよならするつもりだったの、あの時…。和也の事大嫌いだって、心底そう思ってたんだから」 「あう………」 和也はがっくりと肩を落とした。 それを見た愛子は、今度こそ心からの笑顔を和也に向ける。 「でも、何でなのかな。自分でも良く分からないのに、また会場に戻って…。嫌いになるんだってそう決めた筈なのに…、なのに和也だけを見てて…。そうして、和也とダミアンの一騎討ちでしょ。あれ見た時、私…」 一旦言葉を区切り、和也の瞳を見つめた。 「変よね。大嫌いになった人を、また好きになっちゃった。それも、前に好きだった時よりももっと、比べ物にならないくらい…。それ位、あの時の和也が 『カッコイイ』って思っちゃのよね」 「愛…、子…」 「まさか、それを和也が狙ってたとは思わなかったけど。だとしたら、和也の作戦勝ちって事になるのかなあ」 愛子は、大事に大事に、指輪を取り出した。それを月明かりに翳してみる。 ダイアがチカリと、煌めいた。 「ねえ、和也。 これって…、いいんだよね? そーゆー意味に受けとっても?」 「…いいのか?」 「うん」 こっくりと頷く愛子。 和也は愛子の手から、指輪を取り上げた。 「ホントーに、いいんだな?」 「…あ、でも」 「!? 『でも』、何!???」 遠慮がちに首を竦めた彼女に、和也は目を剥く。 「和也がね、そーゆうの苦手なのは十分、分かってるんだけど…。でも、その…。ちゃんと言葉にしてくれると、もっと嬉しいかなあって、そう思って」 「こ、言葉かあ?」 てきめんに狼狽える和也に、愛子は慌てて手を振った。 「あ、でも無理しなくてもいいから。その、和也の気持ちは良く分かったし」 言って、彼女は指輪に手を延ばす。 ぱしん、と、和也は愛子の手首を捕まえた。 「和也」 「…そ、その…。俺と…、ずっと一緒に、いて欲しい…。俺を、見ていてくれ よ…!」 「和也…!」 絞り出された言葉に、偽りはない。それは、心からの願い。 和也は、指輪を愛子の指に落とし込んだ。それはするり、と滑らかに愛子の 薬指に納まった。 「ありがと」 左手を胸に抱き締め、彼女は密かに涙したのだった…。 *** それからしばらく無言の時が流れて。 愛子は、ふと顔を上げると、自分もまたごそごそとポーチをまさぐった。 「?」 内心はともかく、表面的にはいつもの彼女を取り戻していた。目指すものの場所は、分かっていたらしい。すぐに、それを取り出した。 「…何だ?」 黙っているのも気恥ずかしくて、和也は尋ねる。 愛子はそれには答えずに、取り出したものを眺めた。 小さな、袋。厚手の布で出来たそれは、しっかりと口を引き絞られていて、中に何か入れてあるらしかった。口を開けて、逆さにして、振る。ころり、と彼女の手に転がり出たのは…。 「指輪…?」 和也が、不思議そうな声を上げた。 自分の薬指にはまっている指輪と、それとを見比べながら、彼女は笑う。 「そう、指輪」 和也の目前に掲げられた指輪は、やはりプラチナの輝きを放っていた。だが、彼にもそれがごくシンプルな、女性が持つような品でないことに気付く。 「…これね、和也にあげる」 「はあ?」 そんな彼に構わず、愛子は指輪を押し付けた。 「いいから。あげるって言ってるんだから、もらってよ」 「愛子のを俺がもらったって、この指に入る訳ないだろ」 「入るわよ」 「へ?」 あっさりと言い返されて、和也は間抜けな声を出した。 「だってそれ、フリーサイズだもの」 それにしたって、限界があるだろう。そういう視線を愛子に向けてみる。 「…それね、和也のオバさんからもらったものなの」 「おフクロから!?」 「うん。その指輪ね、本当はオジさんのものなんだって、そう言ってた」 「親父の…」 だからこそ、こんな無骨なデザインなのか。和也は納得した。けれど、亡き父の…いわば形見のような『それ』がどうして愛子に…? 「オジさんがね、どうしてそれを大切にしていたのか、実はオバさんにも良く分からないらしいんだけれど。サッカーしていた時、お守りみたいにしてんたんだって。幸運を呼ぶって、そう言っていたらしいわ」 「幸運…ねえ」 「でね、オバさん、それを和也にあげようかと思ってたんだけどね。そーゆうの好きじゃ無いかも、ってそう思って。なら、私に、お守り代わりに…って。それで、くれたの」 そんな話は知らなかった。 父の形見。 初めて見る。 「だからね、これは本当は和也のモノなのよ」 言いつつ、愛子は和也の手をとり、左手の薬指に指輪をはめて渡した。 「ほら、大丈夫じゃない」 彼女の言うとおり、確かにぴったりだった。他に言い返す材料が見つからない。 「分かったよ。…もらっとく」 「よし!」 大きく頷いた愛子。 ふと気付くと。月がさっきよりもホンの少し、傾いていた。時計を見れば、早くも半刻、過ぎている。 「ヤベ。こんな時間になっちまったか」 「あ、ホントだ」 二人して顔を見合わせて、微笑み会う。それで十分だった。明日また会う事を約束して、その場を別れた。 和也の足取りは軽かった。 いつでも…、そしてこれからも。 今まで一緒に歩いてきた時間よりもさらに長い道を、二人で歩いていく事を決めたから。 さっきの様な寂しさは…、もう、無い。 おわり。
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