Swallowtail・Butterfly…U

『a nervous,insomniac person』

 

 

 世の果てのような漆黒の衣の中、絡め取られた蝶々はゆっくりと瞳を閉じてゆく。
 飢えて、眠れない。


「…オン、ソハハンバ、シュダ、サラバタラマ、ソハハンバ、シュド、カン…」

 轟く印言。印を結ぶ両手。良く通るその声は、滝の爆音にもかき消されず冴え冴えと周囲に響き渡ってゆく。
「なぁ、弥勒の奴、なにしてるんだ?」
「…さぁ?修行じゃないかしら。」
「修行〜〜?!」
 あいつがぁ?というニュアンスを言外に滲ませて、半妖の少年が顔を顰めた。どうやら彼にとって弥勒法師と修行という言葉の間には億千万の隔たりがあったらしい。
「犬夜叉、いくらなんでも失礼だってば。」
 くすくすと笑うセーラー服の少女が、
「ねぇ、珊瑚ちゃん?」
 と隣に腰を下ろす小袖の少女に振る。
「え?…ええ、ああ、そうだね。いくら法師さまが破戒僧だって言っても一応法力あるし…あれで最低限の修行くらいはつんでるんじゃないの?」
 これまた失礼な言いぐさだが、噂の当の本人は滝壺で滝に当たっているので咎められるはずもなく。なのに、その珊瑚の台詞に反応したかのように、法師は薄く瞳を開けた。唇は動いているが、心は上の空だ。

「…オン、サラバタタギャタ、ハンナ、マンナノウ……」

―――――まだまだ、修行が足りませんなぁ。
 胸に燻る、恋の埋み火。彼の心に火を熾した少女を視界の隅に認めて、安心したように瞑目する。
―――――どこいらへんが、精神統一になっているのやら。
 滝壺の冷たい流れに身を浸すより、珊瑚の姿を一目見た方が余程落ち着くとは。大した修行の成果だ、と苦笑する。

 先日、山の中で珊瑚と二人きりになった。
 魔が差した、としか言いようがない。山道で体勢を崩した彼女を受け止め…るだけだったはずがそれだけでなくなってしまってそのまま腕に閉じこめ…なのに。
 意に反してうっとりしたように、彼に身を預けたままの珊瑚に、酷く狼狽して。突き放すように、冗談にして誤魔化した。いつものように鉄拳ではり倒されたとき、残念でありながらも安堵したものだ。
 自分を想う、仄かな感情に気付いていなかった訳ではないのに。
 いやむしろ、知りすぎるくらい熟知していたのに。…彼女を先に見初めたのは、自分なのだから。
 恋を仕掛けて、仕掛けた恋を拒否して。
 我ながら、屈折している、と思う。けれど。右腕に穿たれた呪いの証を消すまでは、誰も側に近づけないと心に決めていたのもまた真実で。
 その狭間で、これほど心を揺さぶられるとは思いもしなかった。
 彼女の、存在に。

『様ぁねぇな、俺はいったい、いつから…』
 こんなに、弱くなった?
「…タタァギャト、ドハンバヤ、ソワカ…」
 精神を落ち着けるための印言が白々しく空回る。自問しても始まらないのに、何度も同じ事を胸に問う。
 結局のところ、あまりにも千々に乱れる思考に、これ以上は滝になど当たっても無駄なことだ、と判断して修行を中断し、ざばさばと水から上がる青年の目前に、白い手巾が差し出された。
「これは、どうも…」
 有り難く受け取って、顔を上げる。目の前に現れる、彼の煩悩の相方の容。
「…珊瑚。」
「寒そうだねぇ。よくやるよ。冷たくないの?」
 唇蒼くなってるじゃない、と指摘されて弥勒が苦笑する。
「そこはそれ、」
 心頭滅却すれば、と続ける法師を少女が疑わしそうに凝視する。
「…煩悩が多すぎるんじゃないの?法師さま?」
 いつもの、軽口の筈だった。なのに、真実を的確に抉られた男がつい、過剰反応する。
「そんなことはありません!」
 口調の鋭さに、思わず珊瑚がたじろぐ。
「…そんな、つもりじゃ。」
 返事もせず、最早法師は無言で手巾を使う。取り残された形になった珊瑚はのろのろと体を起こし、仲間の方へと戻っていった。弥勒が軽く舌打ちする。
「俺と、したことが…」
 彼女に対しては、どんどん取り繕えなくなってくる。このままでは、いけないのに。 ―――――一体全体、俺はどうなってしまうんだろう?
 胸に浮かんだ疑問に、彼は答える術を持っていない。

「何さ、馬鹿法師。ちょっとからかっただけじゃないか。」
 まだ収まらない胸の内を吐露しながら、珊瑚は夜を越す為の薪を集めに出かけていた。いつもならこんな力仕事には犬夜叉なり弥勒なりが同行するのだが、今回犬夜叉は明晩模擬試験とやらのかごめを送るために出かけており、弥勒は弥勒で珍しく珊瑚と二人きりになるのを避けている風だったので、一人で来るはめになったのだ。
 一応、なにがしかの後ろめたさを感じてはいるらしい弥勒から
「あんまり遠くへ行くんじゃありませんよ。日が落ちるまでには帰ってらっしゃい。」
 という有り難いお見送りの言葉を頂いたのだが…
 その他人行儀な態度こそが更に珊瑚の怒りを助長するものだとは、あの鈍感法師は気付かなかったのだろうか?
「あんななおざりな心配なら、してくれなくて結構だよ、全く。」
 結局、付いていくと幼いながらに騎士道精神を発揮してくれた七宝をも無理矢理置き去りにして。半ば当てつけのように殊更一人で出かけてきたのは珊瑚の意地。
「大体、八戒破りの堕落しきってる破戒僧のくせに法力を持つ有徳の法師だっていうこと自体、存在としておかしいんだあいつは!!」
 ぷりぷりしながら乾燥した木ぎれを腕一杯に集めた。…が、如何に珊瑚が力持ちとはいえ、女の腕で一回に抱えられる量には限界がある。
「雲母、これ、お前の背中に括るからさ、一回運んでくれないかな?あたしはもう少し拾いたいしここに残るから、置いたらすぐ帰って来るんだよ。いいね?」
 にゃあ、と妖猫が承諾の返事を返す。背に木束が括り付けられるや、雲母は弾丸の如くいっさんに駆けだしていった。
「…まったく、どこぞの助平法師よりよっぽどか心配してくれているよね、雲母は。」
「…そのどこぞの助平法師というのは、もしかして私のことで?」
 がさがさ、と背後でした物音と人の声に、ぎくりとして珊瑚が振り返る。そこには、苦笑を浮かべた当の弥勒が立っていた。
「な、何しに来たのさ、法師さま!!」
「いや、おなごを一人で山中に薪拾いに行かせるのは何事だ、と流石に七宝にどやされましてな。」
「改心して付いてきたっていうのかい?」
「左様です。…さて、さっさと集めて帰りましょうか?」
 言うなりかがみ込んでせっせと木ぎれを腕に集め始める弥勒に、珊瑚はどこか呆然としたように頷いた。

 大人げなかった、とは思う。
 けれど、本当にもう、二人きりになると、何を叫び出すか分からなくて。
 自分はそこまで切羽詰まっていて。
 そんな思いになど、きっとこの少女は気付いてすら居ないだろう。
 薪となるような木ぎれを指先で乾燥しているかどうかを確かめつつ拾い集めながら、弥勒は胸の内でそっと呟く。珊瑚にはいい加減なことを言ったが、本当は彼女が行ってしまってからその方角を余りにも心配げにちらちら見守っていたのを小狐に見とがめられ、
「そんなに心配するくらいだったらさっさと後を追わんかー!!」
 という罵声と共にけたぐり倒されたのだ。
 七宝一匹、騙せないようではこれから先、どうなるのか、と反省することしきりである。
「しかし珊瑚の奴、もうちょっとしおらしくてもいいんじゃないのか…」
 躊躇いもせず一人でさっさと出かけていくし。追いついてみると案の定、自分に対する悪態付きの真っ最中だし。
「都合は良かったけどよ…」
 とはいえ、淋しそうな表情でも浮かべられていたらそれこそ自分を抑える自信がない。矛盾しているとは思うが、憮然としつつもそこだけは認め、次の木ぎれに手を伸ばす。掴んだ枝が以外と太かったのでいったいどのくらいあるのだろう、と思いながらぐい、とそれを力任せに引っ張った。
「あ、痛っ!!」
 視界の外から悲鳴が聞こえて、慌てて弥勒が顔を上げる。
「どうした、珊瑚!!」
「取ろうとした枝がいきなり動いて…」
 見れば、先程自分が引っ張った枝の先は珊瑚の足下まで続いたらしく、丁度同じ枯れ枝を掴んで居たところに彼が引っ張ったものだから、珊瑚は掌を擦ってしまったらしい。
「!、す、すまない珊瑚。考え事をしていてお前が掴んでいることに気付かなかった…」
 傷を、と言われて存外素直に掌を差し出す珊瑚。傷を改めて、弥勒が顔をしかめた。
「血が出てるじゃありませんか…直ぐに洗わないと。」
「ああ、大丈夫だよ。舐めときゃ治るっ…。」
 言ってから、しまった、と唇を噛んだ。この男なら、
『じゃあ私が舐めて差し上げましょう!』
 くらいのことは言いかねない。
 もし言われたらば何と返してやろうか、と思わず身構えた珊瑚だったが、意に反して法師は辛そうに眉を顰めただけだった。
「そうもいかないでしょう…傷口が膿でも持ったらどうするつもりですか。只でさえ、武器を持つ利き腕なのですから。もうちょっと大事になさい。それに、おなごの柔肌に傷でも残ったらどうするつもりですか。」
 諭すようにそう言うと、左手で彼女の細い手首を掴んだまま残る手でがさがさと腰の辺りをまさぐった。
「ちと、しみますが我慢しなさい。」
「な…?い、痛いっ…!!」
 取り出されたのは竹筒に入った酒で。弥勒はくい、と器用に歯で栓を引き抜くと、彼女の傷口に思い切りよく中身を振りかけた。
「痛い、法師さま、痛いってば…!」
「酒には傷口が膿むのを止める作用があるのです。子供じゃないんですから大人しくしてなさい。」
 ぴしゃりと言いかえされ、珊瑚が口を噤む。子供、と言われたのが気に障ったらしく泣き言は漏らさないが、切れ長の瞳で弥勒をじっと睨み付けている。そんな彼女の様子を横目で窺いながら、法師は懐から真っ白な裂を取り出してぐるぐると掌に巻いた。
「…近くに川でもあればもっと良かったのですが…まぁ、取りあえずこれで我慢しておいて下さい。帰ったら、かごめどのの薬でちゃんと手当てをしましょう。」
 ぽふぽふ、と即席包帯の上から手の甲を軽く叩く。
「……ありがとう、法師さま。」
 決まり悪げにぼそぼそと言われて、弥勒は微笑んだ。
「いいえ。お前が存外そそっかしいのは先刻承知ですから。」
「何よ、それ。」
「しっかりしているように見えて、案外抜けていますからなぁ。以外と子供っぽいですし。」
「失礼な!あたしのどの辺が…!」
「ほれ、そんな風にムキになる辺りが。」
「……。」
 心底悔しそうに自分を睨む少女を見ていると、ふつふつと悪戯心が沸き上がってくる。
「全く、一体珊瑚の夫となる人は、どのように徳を備えた御仁なのでしょう。」
「…そーいう法師さまの奥さんになる人も菩薩様みたいな人じゃないと勤まらないと思うけど?」
 ジト目で切り返されても怯むこともなく、弥勒は胸の前で手を合わせる。
「おやおや、珊瑚はよくご存じですな。」
「何をさ。」
「私の好みの女性が、菩薩様の様にたおやかで観音様の様に美しい女性であることを…」
「言ってろ。」
 ぷい、と呆れたように顔を逸らす少女に、すっかり調子に乗った法師が続ける。
「まだまだ、お前はお子様ですねぇ。そんなことでは男が寄りつきませんよ。」
「別に、寄ってきてなんて頼んでない。」
「そのように意地ばかり張っていると、一生恋も男も知らないままお婆ちゃんですよ、勿体ない。」
「…あたし、お子様じゃないってば。」
 ふい、と静かな調子で反論され、弥勒は一瞬次の言葉に詰まる。その瞬間を狙ったかのように、珊瑚が次の台詞を吐いた。
「別に、男を知らない訳でもないし。」

―――――
――――――――

 沈黙が流れる。ややあって、珊瑚がおどけたように振り向いた。
「なーんてね、冗…」
「…冗談で済むかこの…!!!」
「きゃあ!」
 じゃらん。
 抱えていた錫杖を投げ出すようにして弥勒が少女を引き寄せた。
「ちょちょ、ちょっと、法師さま。」
「…心臓に悪い冗談、かますんじゃねーぞ……」
 呟かれ、いくら売り言葉に買い言葉とはいえ、先の自分の発言に少々の後ろめたさを感じながらも珊瑚が必死で抵抗する。
「そんな事、言ったって、…法師さまには関係ないじゃない!!」
 あたしが誰と何しようが、と続けてしまって、珊瑚は心底後悔した。
「…冗談じゃ、なかったのか…!?」
 射竦めるような眼光。見つめられて、珊瑚は恐怖さえ感じた。
「……じ、冗談、です…」
 ごにょごにょと呟く、その体に弥勒が全体重をかけてきた。ばさり、と藪の中に重なり合って倒れ込む。
「え?あ、ちょ、ちょっとちょっとちょっと!!!」
 狼狽する耳元に、弥勒が口元を寄せる。彼女は不覚にも頬が赤くなるのを知覚した。が。
「…確かめる。」
 ぼそり、と低い声がして、何を、と言い返すより先に、珊瑚の顔からざあっと音を立てて血の気が引いた。地面に押し倒しただけでなく、法師の手は飾り気のない小袖の裾を割って、彼女の足に直に触れようとしてくるではないか。
「ほ、ほほほほほほ法師、さまぁっっっっっっ!!!」
「大人しくしてれば、酷いことはしませんよ。」
「じじ、十分酷いってば!!」
「うるさい!」
 今やすっかりドスモード不良法師と化した弥勒の勢いは止まるところを知らない。じたばたと暴れても、所詮武器もない今の珊瑚が彼に力で敵う訳もなくて。すい、とふくら脛の辺りを軽く撫で上げられ、鳥肌が立つような感覚が彼女の背筋を這い上がった。
「いやあっ…!」
「……」
 目に涙を湛えてびくん、と身を縮こめる珊瑚に、流石に弥勒の手が止まった。
「…色気も素っ気もねぇな、おい。」
 呆れたように問いかける顔を、無言で睨み返すことしかできない。
「……」
「信じてやるよ。」
 言ってふい、と体を起こす。法師はしかし、口も聞けないで居る珊瑚の耳元にそっと耳を寄せ、追い打ちとばかりに囁く。
「次にこんな真似をしたら、容赦しませんから。」
 その甘やかな響きが、ようやっと珊瑚の体の呪縛を解いた。
「〜〜〜〜!!!!!こっの、」
 変態ど助平馬鹿法師ーーーーーー!!!と叫ぶ声にはしかしいつもの勢いはなく、弥勒はくすくす笑いながらよいしょ、とその体を引き起こしてやった。
「…仕方ねぇだろ。」
「…?」
 慌てて弥勒から距離を取り、着物の乱れを直す少女にくるりと背を向けながら呟く法師に、まだ涙目の珊瑚が不審な目を向ける。
「仕方ないって、なにがさ。」
 まさかあたしを襲うのが、じゃないだろうね、と噛み付くように言ったが。法師は困ったような忍び笑いを漏らしただけだった。
「…そうじゃなくて…」
「そうじゃなくて?!」
 じゃああんたは何のつもりであんな、と更に言い募る珊瑚には目もくれず、法師は錫杖を拾い上げて歩き始めた。
「そうじゃなくて、他の男になんか触られたくもねぇってことさ。お前はもう、」

―――――俺のものにするって、決めちまったんだから。

「……え?」
 言われた台詞の唐突さに、先程まで燃えさかっていた怒りの炎を吹き消された珊瑚が思わず聞き返す。しかし弥勒はそれには答えず、つ、と空を見上げた。
「おや、雲母が帰ってきたようですよ…?では、さっさと薪を拾い集めて帰るとしますか。夕餉が遅れると、また犬夜叉がうるさいですからな。」
「あ、うん、それは分かったけど、法師さま、今、なんて…」
「…今晩は岩魚の塩焼きで宜しいかな?確か好き嫌いはありませんでしたよな、珊瑚。」
「え、あ、無いけど…そうじゃなくて、」
「先程の枝はしかし大きすぎましたなぁ。折りましょうか、そうしましょう。」
「ちょっと、法師さま!!!」
 呼びかけにも関わらず、あくまで彼女の方を向こうとしないで、弥勒は逃げるように先程の枝の方へと立ち去ってしまう。取り残された珊瑚は、唖然としながらその様子を見つめるだけだった。空中から降り立った雲母が、頬を赤らめたまま放心状態の主の足下で心配そうににゃあ、と鳴く。
「今の、聞き間違いじゃ、ないよね…。」
 胸にそっと手を当て、さっきの暴挙も許してやっていいかな、などとさえ思う自分の現金さに、珊瑚は些か苦笑した。

 照れ隠しなのか気まずかったのか、夕餉と夜の準備どころではない、一週間分の備蓄はあろうかという程の薪の量を集めてしまっている弥勒に、珊瑚の方を見る勇気は勿論ない。
 いいえ聞き間違いです、頼みますからそういうことにしといて下さい、との彼の小さな訂正の呟きは、少女の耳に入ったか、どうか。
「くっそ、穴は風穴だけで十分だってのに…墓穴まで掘ってどうすんだ、俺……」
 結局の所、互いを隔てた距離の壁まで自分で粉砕した挙げ句に自爆した法師は、諦め気味に嘆息した。



 愛されたい、と願ったのはどちらが早かったのか。
 羽をもがれて、飛べなくなって。
 終焉の地は、きっと此処。


―――――了
 



>>END

 

 

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