『Swallowtail・Butterfly』

 

 

 ひらりひらりと。
 どこまでも伸びやかに空を舞わせてやりたいのに。
 見ているだけで、良かったのに。



「法師さま?」
 唐突に思考回路を破られて、墨染めの衣に身を包んだ青年がゆっくりと顔を上げる。
「どうしました?珊瑚。」
「いや、なんかあんまりにも上の空っぽかったから。今、かごめちゃんが言ったこと、ちゃんと聞いてた?」
「それは、」
 勿論、と言う法師の言葉を、ふうん、と疑わしげに退治屋の少女は聞く。
「私が皆の話を聞いていなかったことなどありましたか?犬夜叉じゃあるまいし」
「…弥勒、てめぇどーいう意味だ、それ。」
 しれっと言ってのける僧衣の青年に半妖の少年が青筋を立てて詰め寄る。
「まぁまぁ、犬夜叉!時間がないんだから。…じゃ、お願いね、弥勒さま!」
「…ちっ、遅れるんじゃねーぞー!」
 言ってくるりと向きを変え、かごめを背に乗せて半妖の少年が駆け去り。
「それでは、おらたちはこっちじゃ、雲母!」
 そう言いながら妖狐の子供が妖猫とともに高く舞い上がるに至って、青年が流石に少し戸惑いの表情を見せた。その顔を見て、珊瑚がやっぱりこいつなーんにも聞いてなかったな、と胸の内で呟く。
 先程まで、顎に手を当ててなにやら思い煩うような表情を見せていたのはどこのどいつだ、と思ったが、敢えて聞いてなどやらない。くる、と背を向けるとそのまま歩き出した。
「今日は山越えだからね、日が暮れる前にしのぎやすい所、早急に見つけないとね。あたしと法師さまは沢の方を探すよ。一刻経ったらまた、ここに集合。」
「…はいはい。」
 法師が苦笑する。この説明的な口調からするに、退治屋の少女は彼が話を聞いていなかったことなど先刻承知だったらしい。
「さっさと行こう?夜になってもうろうろしてて、変な獣や妖怪に狙われるのもやだし。」
「そうですなぁ。」
 しゃらん、と錫杖が音を立てる。法師が後をついてくる気配を感じて珊瑚は一つ、ため息をついた。
 何を考えていたのか、なんて聞けない。
 どうせ、茶化されるに決まっているから。
 本心をけして覗かせないこの法師はぬらぬらとまるで鰻のように自分の言葉をはぐらかす。
 掴んだら、最後。
 まな板に乗せて目打ちで突き止めない限り。
 いつかその余裕の腹の底かっ捌いてくれよう、と心には誓っているが、今はまだまだその時ではない。
「…で?」
「うん?」
 先程とは逆に弥勒に思考を破られた珊瑚が振り向く。
「この折角の二人っきりの一刻の間、しっぽりと何をしましょうか…」
「せんでええーっ!!!」
 がばっ、と腕を広げ迫り来る法師にあるまじき言動の青年に、珊瑚のカカト落としが命中した。


「珊瑚は本当に、手加減を知らない…」
「うるさい。」
「お茶目な冗談じゃないですかぁ。」
「やかましい。」
 ざかざか、と早足で獣道を下る珊瑚の後ろで、世にも情けない声を出しながら弥勒が頭をさする。
「馬鹿になっちゃったらどうしてくれるんです。」
「今以上に?」
「…珊瑚、お主はどうやら私に対する誤解が激しすぎるような気がするのですが…」
「坊主と役者は信用するな、ってのが婆ちゃんの遺言でね。」
 ひーどいひどい、ひどすぎるー、と歌うように言いながら後をついてくる法師を従え、少女はざく、と次の一歩を踏みしめた。

ずる

「きゃあ!?」
「…っ珊瑚っ!!」
 足下の土が崩れ、危うく滑り落ちそうになった珊瑚を弥勒がとっさに左の腕を伸ばして受け止める。
「ったく、あぶねぇなぁ。どんな力込めて歩いてんだ、お前。」
「ごめん、ありがと。法師さま。」
 がらりと伝法な口調になる弥勒に、珊瑚が素直に謝る。まだおぼつかない足下、差し出された右腕にしがみつく。封印の数珠がじゃらり、と乾いた音を立てた。
「…外すなよ。」
 おまえは結構うっかりしていますからねぇ、吸い込まれますよ。
 からかうように言われて珊瑚がぷう、と膨れた。
「そんなことないよ!すぐ、起きあがるから…」
 数珠の下、手甲の部分を掴みなおしながら珊瑚の全体重が弥勒に掛かる。支えるのは何でもなかったが、自身の右腕を軸に引き起こされた少女の体、その顔が存外に接近して。
 柄にもなく、法師の心音が高くなる。
―――――こいつ、こんなに。
 睫が長かったっけなぁ、などと不埒な思考をさらり、と頬を撫でた黒髪が中断させる。ふわり、と鼻腔を少女の香りがくすぐった。そう言えば、先程自分が思考の海に捕らわれていたのも、元はといえばこの少女を想う心が原因ではなかったか。
―――――触れてはイケナイ、近づいてはイケナイ……!!
 くらり、と目眩をおこしそうになる。慌てて遮るつもりの理性を体が唐突に裏切ってゆく。
「珊瑚…」
「え?」
 くい、と支柱の筈の右腕を引かれ、そちらに推進力の付いていた体が均衡を崩す。倒れ込む、袈裟を纏った胸の中。なにするのさ、と言いかけた口は開いた形のまま凍りついてしまう。
 おずおずと、抱きしめられて。弥勒の袈裟からは焚きしめられた香の薫りと男の体臭が入り交じって立ち上り、色事に不慣れな少女の胸を落ち着かなくさせる。
「ほ、法師、さま…」
「…暫し、このまま…」
 切なげに聞こえるのは耳元で囁かれたからだろうか?ぴたり、と珊瑚が口を噤んだ。


―――――経った時間は如何ほどか、二人とも推し量る物差しを持たないまま。  やがて、僧衣の若者がゆるゆると体を離した。
「…すみませんねぇ、つい、あまりに心地良かったもので。」
 殊更軽い口調はいつもの如くはり倒せといわんばかり。だから珊瑚は察してしまった。彼の、本気を。
「若いおなごの体はやはり、格別です。いやはや、いい思いをさせていただきました。」
「…馬鹿法師。」
 呟いた言葉は非難の響きか、同情か。混ぜ返さなくても、いつもは真っ赤になって法師をどつきたおす少女が大人しくされるが儘になっていること自体、弥勒の態度が虚勢であると感づかれている何よりの証拠であるのに。
 なのに。
 法師は軽口を止めない。
 いつもは真っ直ぐな視線を逸らして。
 これが最後の砦だと。
 聞きとがめれば一瞬にして二人の間の均衡が変わると。
―――――選択するのはお前だ、と。
 言外に、そう告げて。


 正直、狡いと思う。期待させるだけさせておいて。
 決めるのは珊瑚。
 受け入れるのも珊瑚。
 彼女の心持ち一つに下駄を預けて、自分は境界を彷徨うまま。
 拒絶されるか、受け入れられるか…色恋には臆病な珊瑚にとっては、大博打も同じこと。負けてしまったら、きっと切なくて呼吸毎止まってしまうかもしれない。  考えるだけで、身動きが取れなくなるのに。
―――――もしかしたら、それすらも、計算尽くで。


 この男は、危ない。
 本能はそう告げる。
 嵌ったら、抜け出せない。弟のことも、仇のことも忘れてただ、溺れそうになる甘い激情。
 踏み出す一歩は不帰路への道だ。
 それなのに。


 くい、と袈裟の胸元が再び握りしめられる。弥勒が視線を落とすより先に、珊瑚がその中に顔を埋めて呟いた。
「たまには、あたしにもいい思いをさせてよ…」
 はぁ、まぁ…構いませんが、などと珍しく歯切れの悪い弥勒の声を聞きながら、珊瑚はひとりごちた。
―――――どうせ、もう、とっくに、帰れない。
 そんな彼女の心中を察したのか、否か。墨染めの法師の呪いに侵されていない左手は、殊更優しくその背を撫でる。
「今だけだから。すぐ、元のあたしに戻るから…」
「…ならば、俺もさ。今だけは…な。」
 恋だと自覚しているのに。お互い認めつつ、擦れあえない感情は、行き場をなくして降り積もり、いつしか底のない淵となって。時に奔流となって互いをかき乱すから。  こんな空白の時間が存在することになる、この矛盾。
『無かったことにしよう』
 それは万全の呪文などではない。只の欺瞞だ。
 知っていても、縋り付く。苦くて限りなく甘い時間。
「お前はいい、匂いがしますね。珊瑚。」
「…」
 くんくん、と髪の香りを嗅ぐふりをする彼を煩い、と叫んで殴るのは簡単だ。そろそろ日常の歯車を回転させよう、と誘う弥勒に、殊更意地悪く無言でしがみついてやる。微かに身じろいだ気配からすると、相当居心地が悪そうだ。次はきっと自分の尻を撫でに来るだろう。そうしたら、助平法師、と咎めて終わらせてやってもいいけれど。
―――――終わらせなかったら、どうなるんだろう。
 弥勒の手が、彼女の肩を強く抱いたなら。
 珊瑚の瞳が、彼を逸らさずに見つめたなら。


 さらさらと流れるせせらぎの音の中、青年と少女はどこか途方に暮れたように抱き合っていた。
 



>>END

 

 

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