心自閑

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「山内伊右衛門一豊が家来、五藤吉兵衛一番乗り」

 伊勢・亀山城の巽櫓の城壁の上で、男はそう叫んで初めて息を吐いた。
 このところ、ずっとどこか詰まっていたような胸の内が、少しずつ一緒に吐き出されていくような気がした。
 寒中の外気が弾んだ息を白く形作る。兜が少しずれたことで、先程から汗が目に入りそうになっているのがやや不快だった。

「そうじゃ」

 敵も味方も、三つ葉柏の山内の紋が入った旗が翻った瞬間から、虚を突かれた様にひたりと押し黙っていた。吉兵衛が動くと、凍り付いたようだった刻もゆるりと動き出す。

「そうじゃ、儂は、功名が辻を、越えたんじゃ」

 無茶をするなと後ろで一豊が叫んでいた。一豊には新右衛門が付いている様子だ。確かに、老年の体はあちこち悲鳴を上げていたが、それ以上に気分が良かった。

「なんのこのお役目、儂以外に誰が殿に捧げられましょうぞ」

 鎧の胴の上から胸を抑える。意識しての行動では無かったが、聞こえるはずもないかさりという音がした気がして眉を顰めた。果たせぬ約束のことなど思い出しても仕方がない。まずは、この敵陣で生き残って後のこと。
 それだけを思い、吉兵衛はぎりりと刀を握り直した。味方が登ってくるまで、今暫くはこの城壁の縁を守り通さねばならなかった。



 かたん、と乾いた音がして、茶碗が割れた。
 その音に驚いて、たきは夕餉の支度の手を止める。亡き父親が生前大事に使っていたその茶碗は、先日吉兵衛が尋ねてきた折に使ってより、出したままにしてあったのだが。

「どうしたことでしょう、罅が入っていた訳でもなかったのに」

 口に出して呟きながら、たきは不意に胸の内になにやら不吉な思いが込み上げてくるのを自覚して、少しよろめいた。竈に手を突いて揺らぐ体を押し留め、弱気になる己を叱咤する。

「合戦にお発ちなされる度にこのような情けない様子では、吉兵衛様に笑われてしまう」

 今日たきの元には、再び山崎の山内家の屋敷に帰るようにという千代からの文が届いていた。山内家の古参の重臣でもある吉兵衛の妻となるからには、色々と教えておきたい事などもあるので、この文を受け取り次第に宇治を立つようにとある。些か気は早いが、既に花嫁衣装まで用意してあるという。
 文の内容に、たきは驚き、そして小娘のように華やいだ気持ちになった。あの無骨な吉兵衛が、伊勢への出陣までのあの短い間に、そこまで話を通しておいてくれたのかと思うと、不意に涙が零れてしまいそうになる。
 御方様のご厚意に甘えて明朝にでもこの家を後にしようと、手が震えないように割れた茶碗を片付け早々に床に就いたが、その晩、たきはなかなか寝付くことができなかった。



 一豊がようやっと敵陣を切り開いて駆け付けたときには、吉兵衛は既に虫の息であった。しかしながら、かき抱いて名前を呼ぶと、うっすらと目を開け、にやりと微笑むだけの心の余裕が、今の吉兵衛にはあった。

「殿、功名を」
「天晴れじゃ、吉兵衛。見事一番乗り、儂も鼻が高い」

 吉兵衛は答えなかった。殿は相変わらず甘い御方だと思う。敵陣の最中で自分などに気を取られている場合ではない、新右衛門はどうしたのだ、と口が滑らかに動いたなら怒鳴りつけていただろう。

「さあ、参ろう。参ろうぞ、さあ、吉兵衛、共に参れ、共に参って儂の城の天守に立て」

 泣くまいとしている一豊がおかしくて、吉兵衛は笑った。瀕死の家臣を鼓舞しようとするだけの度量がやっとついてきたのか、それとも昨夜の吉兵衛の説教が功を奏しているのかは知らないが、一豊のこの真っ直ぐなところを、家臣達も、なによりも千代が好いていた。

「一国一城の主になり、」

 叶う、ことなら。
 一豊ならば、なによりもあの千代がついているのならば、必ず我が殿は一国一城の主になれるであろう。叶うことならば、それを一緒に見届けたくもあったけれども。
 妻を亡くし家の跡目を継ぐ子もなかったが、何も戦場に留まらずとも、後添いを貰い、家督のことは弟に託し、穏やかな余生を送る道も確かにあったのに違いないが。
 それでも、儂にはこの生き方しかできなんだ、と吉兵衛は深く満足げに息をついた。
 霞んでいく視界の向こうの歪んだ一豊の顔を見ながら、吉兵衛は不思議に心穏やかであった。我が殿は、功名が辻を立派に越えられた。越えさせたのは他でもない、吉兵衛であった。それだけで、大丈夫としての命冥利に尽きる、と笑ったままで目を閉じる。

 許せ、たき。

 心穏やかなままで死ねる儂を許してくれ、と、未練もなく黄泉路へと旅立ちながら、男はそれだけを残していく女に詫びた。








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+++END.

 

 

功名が辻、吉兵衛さんとたきさんの話。
幸せになってもらいたかった・・・(泣)

 

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