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※この先には映画「どろろ」の著しいネタバレがあります。
心臓を、取り戻した。父の因縁を断ち切るのと引き替えに。
どきどきと鳴る鼓動を確かなものとして噛み締めながら、百鬼丸は相変わらずどろろを道連れに旅を続けていた。残り二十四体の魔物の手がかりを求めながら旅をしている内に、二人はある寂れた村に立ち寄ることになった。
「なんでぇ、なんだかしけた村だな」
「……どうやら、秋祭りの最中のようだが」
呟いた百鬼丸は、その村中の静かさに眉を顰めた。神を祀る神事の幟が並び、村の中は祭りの準備が出来ているようだが、まるで葬式の前のようにしんと静まりかえって、村人自体が息を潜めているようなのだ。
「なんか変だなぁ、祭りっていやぁ、もっと陽気に騒ぐもんじゃねぇのかい?」
どろろも不思議そうに言いながら、きょろきょろと辺りを見回した。暫く歩いている内に、百鬼丸がなにか見つけでもしたのか、急に早足で歩き出す。
「おい、アニキ?」
百鬼丸の様子を訝しみながらも、どろろも慌てて後を追って走り出した。
「どうした、何故にそんなに泣く」
村外れまで来たところで百鬼丸は立ち止まると、その先の木陰に声をかけた。すると大きな木の陰から、驚いたような表情で一人の娘が顔を出す。
「……誰!?」
「旅の者だ。村の様子がおかしいので、人の姿を探していた。あんたが泣いているのと、この村に人っ子一人の姿もないのとの間に、何か関係はあるのかい」
百鬼丸の問いかけに、娘が再び堪えきれないように泣き出す。その辺りでやっと追いついたどろろは、百鬼丸と娘を交互に見て顔を顰める。
「一体なにがあったんでぇ、アニキ?」
「それを今から聞くところだ」
村全体の重苦しい空気から、魔物の気配を嗅ぎ取った百鬼丸は、短く言うと娘から詳しい話を聞き出すべく頭の中で算段を始めた。
暫く後に娘から大体の事情を聞き取った百鬼丸とどろろは、娘の父親であるという、この村の庄屋の所に足を向けた。
娘の話によると、数日前に村に魔物が現れ、秋祭りの時に社に生け贄を捧げないと田畑を荒らし、手当たり次第に人を喰らうと告げ、殺されたくなければこの村で一番の器量よしを生け贄として寄越せ、と告げて消えたらしい。この村一番の器量よしといえば間違いなく庄屋の娘で、庄屋も村の人々の手前娘を差し出さない訳にもいかず、悩んでいるということであった。
得体の知れない流れ者である百鬼丸達を庄屋は最初怪しんだが、魔物を退治したいという申し出があったのだと娘が説明すると、藁にでも縋る思いなのか、百鬼丸とどろろを歓迎して屋敷の中に招き入れた。
「しかし、この村は豊かだな」
長年続いた戦で荒れ果てた土地ばかりを旅してきた百鬼丸が村の中を見て回った感想をふとそう漏らすと、庄屋は胸を張った。
「ここのところ、醍醐の殿様が若殿様に代わられて後、年貢の負担などがぐっと減りましてな……始めは金丸以上の鬼じゃと思うておりましたが、今では救いの神様に思えます」
「……そうか」
百鬼丸は弟の多宝丸の顔を思い出してふと笑顔を浮かべた。兄に留まって領主になって欲しいと懇願した弟だったが、やはり生まれながらに人の上に立つべく躾られている人間と、自分のような流れ生活しか知らない人間は大きく違うと思うのだ。
どことなく嬉しそうな百鬼丸の背中を見ていると、どろろは何故か自分までむず痒くなってきて、それを誤魔化すように殊更大きな声を張り上げた。
「あのさ、庄屋さん、おいら達、化け物は退治してやるからさ、その代わりたんとおまんま食わせてくれよ、頼むよ」
「おい、どろろ」
百鬼丸が窘めるような声を出したが、庄屋はいいですよ、と気安く請け負って居間に二人を通した。
「それでは、まずは一献どうぞ」
庄屋に酒を注がれながら、百鬼丸は魔物退治の首尾について話を切りだした。元々、百鬼丸は社交的な会話のできる質ではない。
「まずは魔物を誘き出したいので、祭りの日には予定通り社まで生け贄の入ったつづらを運んで欲しいのだが」
そこで出てきた魔物を退治する、と百鬼丸は庄屋に向かって提案した。
「それは、そうですな。……しかし」
庄屋が言葉を濁した。大事な娘を囮に使われて、万が一のことがあったら、という事なのだろう。
その心情は心を読まずとも百鬼丸には伝わったので、それもそうかと策を練り直そうとしたが、やはり肝心の化け物が出てきてくれないことには退治のしようがない。逃げられてしまっては元も子もないのだ。
それでも、庄屋の娘を連れていったとしても、怯えて失神でもされたら、足手まといになることこの上ない。
けれども、人形を仕込んだり男の自分が中に潜むのも、万一気付かれでもしたらと思うと万全を期したい百鬼丸には躊躇われた。一瞬でも生け贄に化け物の意識が全て向いてくれたら、その時が退治する機会なのだ。
「なんかいい知恵はねぇかな……」
呟いたその時、ふと百鬼丸の視線が物珍しそうに座敷の中をきょろきょろ見回すどろろの姿の上に止まった。
「……娘さんが危険だと思うなら、身代わりを連れて行こう」
「身代わり、ですか」
身を乗り出す庄屋に、そうだと百鬼丸が微笑んで、連れの名前を呼ぶ。
「どろろ!」
「え? 呼んだかい、アニキ」
名前を呼ばれて振り向いたどろろは、人の悪い笑みを浮かべる百鬼丸と、その向こうで不安そうな顔をする庄屋を見て、一体なんだと首を傾げた。
百鬼丸の提案を聞いて、どろろは思いきり飛び上がった。
「え、お、おいらが女の格好? バカにすんなよ、なんでおいらが……!」
「男の中の男なんだろう、どろろ。だったら、女を助けてやるのは当然なんじゃないのか」
「なんだと!?」
「そんなこともできないようじゃ、お前の言う「男の中の男」ってのも大したことがないな」
些か意地の悪い表情を浮かべながら百鬼丸に言われ、どろろは正直に噛み付いた。
「な、なんだと? バカにすんない! おいらは男の中の男、天下の大泥棒、どろろ様よ!」
「だったら、決まりだな」
手筈を、と庄屋に言う百鬼丸に、どろろは慌てた。
「お、おい、アニキ、おいらまだやるなんて一言も……」
「男は決まったことに二言はないものだぞ」
「……そーかよ!」
百鬼丸にぴしゃりと言われ、どろろは拗ねたようにそっぽを向いてしまった。そのどろろに、庄屋に呼びつけられた村人が躊躇いがちに声をかける。
「あの、湯の用意をさせますので、風呂に……」
「風呂!? 冗談じゃねぇぞ!」
ぎょっとしたように逃げようとしたどろろの襟首を、すかさず百鬼丸が捕まえる。
「駄目だ、そんな汚い庄屋の娘がどこにいるんだ」
「ば、ばっちくて悪かったな!」
「さっさと生け贄らしく綺麗に清められてこい」
そのままずるずるとどろろを引きずったまま、百鬼丸は村人の案内に従って辿り着いた湯殿にどろろを放り込む。
「アニキ、おいら本当に風呂は苦手なんだよ!」
「苦手もなにもあるか、変装するんだ、諦めてゴシゴシ洗い流して来るんだな」
嫌なら俺がひん剥いて流してやろうか、と言われ、どろろは慌てて湯殿の扉を閉めた。
「ったく、男だと言い張る割に妙なところを恥ずかしがるんだからな、あいつも」
苦笑した百鬼丸は、後のことを村人に言い置くと、庄屋と詳しい手筈を打ち合わせるために湯殿を後にした。
一人、湯殿でどろろは途方に暮れていた。一応着ていたものをのろのろと脱いで、下帯まで外して体に湯船から汲んだ湯をかける。
「あち! ちきしょ、湯になんか、赤ん坊の時から入ったことねぇっていうのによ」
文句を言いながら、用意されていた手巾でどろろは半ば自棄のように体を擦り始めた。
湯から上がると、再び服を身につける前にどろろが身代わりを勤める庄屋の娘に申し使ったという女が現れて、どろろを娘の部屋に案内する。部屋の中に広げられた着物を見て、どろろは目を見開いた。
「うへぇ、これを着ろっていうのかい」
「はい、この度はお助け頂きまして、本当にありがとうございます」
年若い綺麗な娘に丁寧に頭を下げられ、どろろは満更でもない気分で、照れ臭そうにへっへ、と鼻の下を擦った。
「いいってことよ」
「腰巻きをつけるのを嫌がられて、それは大変だったのですよ」
襦袢一枚のどろろの横で、どろろをここまで案内してきた女が娘に言いつける。
「なんか、スースーして気持ち悪いんだよ」
「しかし、おなごの下着は腰巻きと決まっております」
びしっと言い渡され、決まり悪そうなどろろに向かって、娘は再び頭を下げながら言った。
「私のために申し訳ありませんが、宜しくお願いします。私の着物を広げておきました、どれでもお好きなものにお召し替えくださいませ」
「えーっと、……そんなこと言われてもなぁ」
どれもこれも同じに見える、と躊躇するどろろに、それでは、と後ろの女が意気込んだ声をかけた。
「私共にお任せ頂けますか、お嬢様の身代わりならば、それに相応しく着付けをさせて頂かなければ」
「えっと、……じゃ、お願いしちまおうかな」
ほっとしたようにどろろは言ったが、次の瞬間にはそう言ったことを早くも後悔する羽目に陥ってしまった。
■ □ ■ □
「お待たせーっと」
すっかり支度を終えたどろろがどすどすと庄屋達の居る座敷に戻ってくると、百鬼丸はそちらに視線も送らないままに遅かったな、と言った。百鬼丸の視線は妖怪が出るという社の見取り図に注がれている。
「いや、風呂なんか赤ん坊の時から入ったことなかったからさ、手巾で擦ったら面白れぇように垢がボロボロ取れてよ、愉快になってきたんで全身擦ってるうちに、なんか時間が経っちまって」
「……一応は見られるようになったか?」
言いながら百鬼丸が顔を上げると、目の前で庄屋が妙な顔をしている。一体なんだといぶかしみながら百鬼丸はその視線の先を追って、同じように大きく目を見開くことになった。
百鬼丸達の視線と沈黙をどう取ったのか、どろろが得意げにふんぞり返って腕組みをする。
「どーよ、完璧な変装だとおもわねぇか? 庄屋の娘さんの着物を借りて、化粧もしてもらったんだよ」
言われて、百鬼丸はぎこちなく頷く。
「あ、ああ、……そうだ、な」
「おうおう、なんだよアニキ、妙な面ぁしてんな? そんなにおいらは別嬪だったかい?」
どろろとしては、からかうつもりで言った台詞だった。如何に洗い流そうと化粧をしようと、自分のようなもともと見窄らしい容姿の者が、そう大した美女に化けられる訳でもない。
「まぁ……まぁ、ってとこだな」
百鬼丸は視線を逸らしたまま、どろろに対する返答をぼかした。
「……こりゃ驚いた、お侍さんのお連れさんは、小僧だとばかり思っていたが、えれぇ別嬪だったんですな」
しかしながらどろろに対する答えは、代わりに傍で見ていた庄屋の息子から発せられる。
「は?」
どろろは正直に訳が分からない、という顔をして首を傾げたので百鬼丸は思わず深い溜息をつきたい気持ちになってしまった。
普段から男か女か分からない格好をしている上に、言動も全く男そのものに育っているどろろがどれほど着飾った所で精々女装の男よりは少しマシ程度にしかならないだろうと高を括っていたのだが、娘盛りというのは恐ろしいものだ。汚れを洗い流し、髪も洗って結い上げて綺麗に着飾ったどろろは、予想に反してそれなりの娘ぶりに見える。
「どうなることかと不安に思っておりましたが、これならば化け物も惑わされるやもしれませんなぁ」
暢気にそんなことを言って手を打っている庄屋の向かいで、百鬼丸は今度こそ深い溜息をついた。どうも、思っていたのとは随分違う展開がこの先には待ち受けていそうな、そんな嫌な予感がしたのだ。
■ □ ■ □
その夜、百鬼丸が案内された部屋にのこのこと一緒に着いてきたどろろに、百鬼丸が渋い顔をした。
「どろろ、お前は次の間で休め」
言いながら並べて伸べられた布団を一組隣の部屋に押しやる百鬼丸に、どろろが食ってかかる。
「なんでぇ、アニキ変だぜ? いつも一緒に寝てんじゃねぇか、今更なんだよ?」
「今更でもなんでも、今夜はその白粉臭いのが気持ち悪いんだよ」
百鬼丸はそう言った後で、お前が座敷で寝るのなら俺は次の間で寝る、とあくまで別室を主張した。
「……アニキがそこまで言うなら仕方ないけどよ、どうしたんだ? 魔物も怖がらねぇアニキが、白粉の匂いくらいで」
言った後で、どろろは僅かにはっと息を呑み込んだ後、些か申し訳なさそうな調子で続けた。
「……そんなに変だったかい?」
「なに?」
どろろの言葉が分からずに、寝支度をしながら首を傾げた百鬼丸に向かって、どろろは恐る恐る尋ねた。
「だから、おいらだよ。女の格好なんてしたことがねぇからよ、皆が似合うって言ってくれたから、そんなつもりでいたけど……やっぱりおいらじゃ気持ち悪いかい、はっきり言ってくれよ、アニキ」
どこかしょげたようにぼそぼそと言ったどろろに、百鬼丸は弾かれたように顔を上げ、慌ててどろろの言葉を否定した。
「馬鹿いえ、そんなんじゃない!」
「だったら、なんで?」
どうして、と重ねて尋ねられ、百鬼丸は遂に観念することにした。ばつが悪そうな顔で、小さい声で気持ち悪いっていうのはそういうのじゃなくてな、と続ける。
「おかしいんだ、お前がこっちに来ると、この間戻ってきたばっかりの心臓がよ、変にきゅーっと痛くなっちまうんだ。きっとその白粉の匂いがいけねぇんだ」
百鬼丸の打ち明けた話に、どろろがまんまるの目を見開く。
「そうかぁ? だって、塗っているおいらはなんともないぜ?」
困り果てたような百鬼丸の言葉にどろろは首を傾げ、それじゃあ白粉を落とそうか、ときょろきょろと手巾を探した。
「アニキに悪いから、おいら白粉を落とすよ」
「ばか、折角綺麗に塗ってもらったんだ、そのままでいろよ、勿体ねぇ」
百鬼丸はどろろを止めると、そういう訳で俺はこっちで寝るから、と次の間に伸べられた布団に横になった。
「お前もさっさと寝ろ、明日は忙しくなる」
「分かったよ」
こちらに向けられた背中を見ながら、どろろは自分も寝ようとして、思いついたように帯を外そうと帯締めを解き、帯を外して着物も脱ぐと、襦袢姿で布団の中に潜り込もうとした。しかし、その衣擦れの音を聞いて、居心地が悪そうに百鬼丸が起きあがる。
「あのな、どろろ……」
「なんだ、寝てなかったのか、アニキ」
そのどろろの声のする方をとても直視できず、百鬼丸はああ、と短く返事をした後で、再びごろりと横になった。ここまで心臓がどきどきと音を立てて鳴るのは、本当に自分がどこかおかしいのではないかと不安になりながら目を瞑って眠ろうとする。こんな調子では、満足に魔物と戦えるのかも心許ない。
暫く寝ようと足掻いた後で健やかな眠りを諦め、百鬼丸はどろろに向かって背中越しに話しかけてみることにした。
「どろろ」
「……アニキ、まだ起きてたのか?」
「ああ、まぁな」
驚いたようなどろろの声を聞きながら、百鬼丸は話を続けた。
「お前、なんで綺麗にしてちゃんと娘らしい格好をしないんだ?」
百鬼丸のその言葉に、どろろが不満げに鼻を鳴らす。
「アニキおかしいよ、おいらは男なんだぜ?」
それも男の中の男、と戯けたように言うどろろの返事を静かに聞き、百鬼丸は言った。
「だが、女にもなれる、……そうなんだろ、どろろ」
「……」
今度はどろろは返事をせず、ぷいと百鬼丸に背中を向けて寝返りを打った。
どろろにも分かっていた。自分が男であり続けるためには、不足のある体であることを。少しずつ体が娘らしさを帯びそうになると、一切風呂に入るのを止め、川で行水をすることさえ最小限度に留めることにしたのだ。不潔にすればするほど、どろろに興味を抱く男は居なくなった。
今日風呂に入って身に染みついた垢や汚れを全て洗い落とし、分厚い壁を失って、一番心許ない思いをしているのは、他でもないどろろだというのに。華やかな女物の下着や着物にどこか浮き上がりながらも、僅かにささくれ立つ神経に触る事ばかり言う百鬼丸が苛立たしくて、どろろはまぁ、そうだな、と言った。
「でも、俺は男にしかならないぜ」
言いながら、どろろは胸に抱えていた母親の言葉を続けた。どうせ人の心の読める百鬼丸には既にばれてしまっているだろうが。
「おっかあに言われてんだ、おっとうのような本当の男に出会ったら、女みてぇに泣いてもいい、女になっていいってな」
ふん、と得意そうに鼻を鳴らして言ったどろろは、しかし次の瞬間絶句することになった。
「そしてそれは、俺のことなのか」
「……っ」
百鬼丸に問われ、どろろは言葉に詰まった。そうだ、百鬼丸は心が読めるのだ、自分が先程の台詞を言いながら誰の顔を思い浮かべたのかなど、手に取るように分かったに違いない。
安易に心を読ませてしまった自分を恥じて、どろろは頭から布団を被ってくぐもった声を出した。
「知るかいっ!!」
「どろろ、おい」
百鬼丸が起きあがってきた気配がする。掛け布団の上から体を揺さぶられたが、どろろは頑として顔を出すのを拒否した。
「だとしても、アニキには関係ない事だろ?」
「関係ないって、お前な、……」
「だってそうだろ、おいらが男だと、なにかアニキに不都合でもあるのかい」
言われて、百鬼丸は正直に言葉に詰まった。
「いや、それは……ないが」
「そうだろ、だったらそれでいいじゃねぇか」
「しかし、お前が俺の前では女で居たいというのなら、俺だってそんな風に女の着物を着たお前を見るのは、吝かじゃない」
「白粉の匂いで気分が悪くなるのにかい」
「いや、それは」
一体どういう風に言い表せばこの半端な想いが形になるのかと困惑する百鬼丸の前で、元々気が長くないどろろの方が先に痺れを切らした。
「言えよ、アニキはおいらに女になって欲しいのかよ! それによっちゃ考えてやってもいいぜ、どうなんだよ!」
「俺、は……」
布団の中から怒ったような顔で睨み付けられ、百鬼丸は綺麗に言葉を失った。暫くどろろは黙ったまま困惑の表情を浮かべる百鬼丸を睨んでいたが、やがて諦めたように溜息を着いて再び布団の中に潜り込む。
「とにかく、アニキが決めるまで、おいらは男だ、いいな」
「……分かった」
自分が申し出た一応の現状維持に百鬼丸が微かに安堵の溜息をついたのを聞き逃さず、どろろは何故かこの上なくむしゃくしゃした気持ちで目を閉じ、眠りについた。
■ □ ■ □
翌日、社に身代わりの生け贄として運ばれたどろろは、魔物が現れてつづらを開け、自分を喰らおうと向かってくるぎりぎりまで化け物を引きつけ、立派に囮の役目を果たした。
隠れていた物陰から百鬼丸が飛び出てくると、どろろは後は任せて自分は必死にその場から逃げだした。着せられている絹の着物は着心地は最高だが汚しはしないか、裾が大きく割れないかと気になって動きづらいことこの上ない。
「ちくしょう、こんな格好じゃ、アニキの手助けもできやしない」
やはり普段通りの服装に越したことはないと舌打ちをしながら、どろろは安全な場所まで逃げると、百鬼丸はどうなったかと後ろを振り向いた。
巨大な蛇のような化け物と、百鬼丸は今正に対峙しているところであった。ぴんと刃のように張り詰めた眼差しは、獲物を捉えて決して離さない。右手に仕込まれた妖刀がぎらりと妖しい光を放ち、左手には醍醐の領地を出るときに弟から贈られたという大刀を握っている。
どろろは息を飲んだ。今まで、百鬼丸と化け物達との戦いの時、どろろは傍観者というよりも助太刀をしているような気分が強かったが、こうやって全くの傍観者、しかも守られる側に徹してみると、異形の化け物相手に一歩も退かない百鬼丸の姿はなんとも頼もしいものに思える。
「なんだよ、……悔しいじゃねぇか」
それでも、昨夜百鬼丸が女である自分を持て余したことが脳裏に浮かんできて、どろろは何故か込み上げる悔しさに唇を噛んだ。男でも女でも、百鬼丸と一緒にいられるならば今まではそのどちらでも良かった筈だったのだが。
「ちきしょう、アニキ、がんばれー!!」
どろろは胸の中のもやもやを全て吹き飛ばすように大声で叫んでいた。その声援に応えるように、百鬼丸は右手の仕込み刀を一閃させ、見事に蛇神を斬り倒してみせた。
蛇神の四肢が宙に四散し、暫く経ってから、百鬼丸が作り物のままの方の足を押さえて苦しみ始める。無くした部分が帰ってきたのだ、とどろろは慌てて百鬼丸に駆け寄った。
「あ、アニキ……」
恐る恐る声をかけるどろろに、百鬼丸が歓喜に満ちた表情で立ち上がった。
「どろろ、良くやったな! お前のお陰で随分楽に倒せたぞ」
「……へへ、当然だろう、おいらを誰だと思ってんだい」
素直に喜びの表情を浮かべる百鬼丸に、どろろは照れ臭いような気持ちでにっかりと微笑んで見せた。すると、その顔を見て百鬼丸が一瞬表情を変え、低い声でどろろの名前を呼んだ。
「おい、どろろ」
「なんだい、アニキ?」
早く庄屋の所に帰ってこの着物を着替えてしまいたいと、その時にはそればかり考えていたどろろは、次の瞬間百鬼丸に肩を掴まれ、自分の顔を見る百鬼丸が酷く真摯な表情をしていることに驚いて足を止めた。
「……アニキ?」
「なぁ、どろろ、聞いてくれ。俺は昨夜、散々考えたんだが……」
そう話し始める百鬼丸の視線が自分のまだ化粧をした顔や紅を差した口元などに注がれているのを感じて、どろろは急に逃げ出したいような恥ずかしさを感じて顔を背けた。
「なんだよ、その話ならもう終わっただろ」
「いや、終わっていない。お前、俺に決めろと言ったじゃないか」
やけに思い詰めたような口調でそう言われ、どろろは口を噤んだ。そのどろろを前に、百鬼丸はゆっくりと話し始める。
「お前が男で居てくれた方が、確かに旅は楽だ。女は足手まといになるからな」
「……分かってらぁ、そんなこと」
それでも、自分は女ではないと思い込んでいた筈なのに、いつの間にか膨れあがっていた女の部分がどうしようもなく胸を痛ませるのだとは言えず、どろろはふてくされた声を出した。
「だけどな、どろろ」
しかし、百鬼丸は続けて意外なことを言い始める。
「だけど、俺の戻ってきた心臓が、お前が女みたいな格好をしていると、酷く速く鼓動を打つ事がある……。最初は見慣れねぇものに驚いているだけだとか思っていたが、どうもそうじゃない、俺は」
そこで百鬼丸は一度言葉を切って、吹っ切った様な清々しい表情で微笑みを浮かべた。
「俺の心臓は、どうやら喜んでいるんじゃねぇか、ってふと、思ったんだ」
「喜んで、る?」
びっくりしたような表情で振り返ったどろろに向かって、百鬼丸ははっきりした口調で言い放つ。
「どろろ」
「なんだよ?」
「俺は決めたよ」
そう短く決意を口にすると、百鬼丸は改めてどろろに向かってその心情を告げた。
「俺がこの体全てを取り戻すまでに、お前も女になれるように頑張ってみろ」
「はぁ!?」
再び大きく目を見開いたどろろに向け、百鬼丸は悪戯めかした表情で笑いかけた。
「さぁ、どうするどろろ。俺はもう、半分以上は元の体に戻ってるぜ」
「どう、って……」
いきなりの展開に着いていけずに目を白黒させるどろろからあっさり離れると、百鬼丸は腕を元に戻し、庄屋の屋敷に戻って首尾を報告するか、と言いながら歩き始めた。どろろも慌てて後を追いながら、百鬼丸に食い下がる。
「待てよアニキ、じゃあ、おいらが女になったらどうするんだよ」
そのどろろの問いに、百鬼丸は何を今更という表情をする。
「知れたことさ、俺と一緒に来るんだろう? お前、俺の父さんに俺を頼むと言われていたじゃないか」
その言葉に、どろろは醍醐景光の最期の言葉を思い浮かべ、狼狽えたような表情になった。
「い、言われたけど、承知してなんかねぇ!」
しかし、どろろの焦ったような態度も気に留めず、百鬼丸はただ笑顔で繰り返すばかり。
「今更だな、今後とも宜しく頼むぜ、どろろ」
「そんな……」
「決まりだな」
百鬼丸はきっぱりと言い切ったが、拗ねたような表情で隣を歩くどろろが顔ほどには怒っていない、むしろ喜んでさえいることなど、無論人の心を読みとれる百鬼丸には先刻承知の事であった。
「アニキはほんっとに人が悪いや……」
どこか悄然として肩を落とすどろろに快活な笑い声をあげながら、百鬼丸は今は両方とも自分のものになった足でしっかりと大地を踏みしめ、未来へと向かって歩き始めた。その道程が一人きりではないことに、今更ながら感謝の念を胸に抱きながら。
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+++END.
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