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冷やしあめの器を手にしたまま、珍しく所在なさげにしていた利劔のことが気にならないではなかったが、薄蛍も珍しく腹を立てていた。
橋を渡り終えてしまっても、珍しく人目を気にせずに止まらず歩き続ける。
(利劔様ったら、鈍感にも程が在るんだから)
思いながらざかざかと怒ったような大股で歩いて、角を幾つか曲がった後でふと足を止めた。
そっと振り返ると、普段ならちゃんと近くに居てくれる利劔の姿が無い。随分と、引き離してしまったらしい。
(……そんな)
その距離が、自分と利劔の今現在の心の距離のような気がして、薄蛍はただひたすらに哀しくなってしまった。
ひたひたと、波が押し寄せるように心の中を哀しみが満たして行く。
こんな気分は、妖人省が設立されてから……有り体に言ってしまえば、吉野葛利劔と出会ってからはついぞ覚えたことの無い類いのものであったので、薄蛍は狼狽えつつも、ぐっと拳を握ってその戸惑いに耐えた。
(困っていらしたのかしら、利劔様)
ことばがほしい、などと薄蛍が言ったから。だから、子供騙しの甘いものなど買い与えて、それで誤摩化そうとしたのかしら。
恨みがましいことを考える。この後一生、冷やしあめが嫌いになってしまいそうだった。
そんな風に考えて、薄蛍は益々自己嫌悪もない交ぜになった鬱々した気分に沈むことになった。
(いつのまにか、私はこんなにも欲張りになっていたんだわ)
利劔に好ましく思われるのが当然だと信じて疑わないような。
(イヤな、女……)
そんな女、利劔に好いてもらえなくても当然だ。
(だから、利劔様も愛想を尽かしてしまった?)
利劔の心がいつでも伝わるから、折に触れてちゃんと教えてくれるから。それに甘えて、胡座をかいていたのだろうか?
(でも)
ぎゅっ、と薄蛍は口唇を噛んだ。
約束を、言葉をねだるのはそんなに悪いことなのだろうか?
考えても、答えは出なかった。感情は納得しないのに、ただ、理性だけが間違っている、という可能性を告げてくる。
(……利劔様は軍人ですもの、ね)
将校は己の婚姻も自由にならない、と聞いている。利劔はその前途も揚々たる若将校で、引き比べ、所詮、己は半妖に過ぎない。
だから、利劔も好意は持っていても、それを公にすることは躊躇われるのかもしれない。
精一杯好意的に解釈しても、そこ止まりであった。他の可能性等、怖くて考えられない。
利劔に今突き放されてしまったら、それだけで薄蛍の薄い胸は張り裂けてしまいそうだった。
ぷるぷると首を降る。耳が小刻みに震えているのが分かる。
帰ったら、と震えて臆病な鼓動を刻み続ける胸を抑えながら薄蛍は一生懸命に心を落ち着けようとした。
帰ったら、利劔の前に出ても、普通にできるようにならなくては。
また、顔が赤いなどと言われないように。この胸に僅かに兆した疑念を、不審に思われないように。
狐狗狸さんを見つけても、きっと利劔は自分に愛の言葉など、囁いてくれないだろうけれど。
例え任務でもそんなことの出来るような人ではない。元々自分のものではないなら、手に入らなくても嘆かなくても済む。
(せめて、利劔様を困らせないようにしないと)
決心しながら、さて狐狗狸さんを探さなくては、と思い直して歩き始める。元来た道を引き返そうとした時、狭い路地を曲がって、息を切らした人物が姿を現した。
「薄蛍!」
「利劔、さま……」
思わず逃げ腰になってしまう薄蛍の前に素早く回り込み、探したぞ、と荒い呼吸を落ち着けながら利劔が言った。
「ごめんな、さい……。任務中、でしたのに」
そうは言われても素直に謝罪することも出来なかった薄蛍は、視線すら上げられないままにそんなことを口にした。
利劔が一瞬目を見開き、すぐに薄蛍の顔を覗き込む。
「薄蛍、俺に触れ」
「え、でも……」
目を合わせることが恐ろしくて、しどろもどろになってしまう薄蛍に、利劔がやや強引に促す。
「触れてくれ、頼むから」
促されて、おずおずと薄蛍が手を伸ばし、利劔の腕にそっと触れた。
(薄蛍)
利劔の、いつものひた向きに強い心の声が鮮やかに伝わってくる。
(俺は、言葉が足りないと、前に言った)
「はい」
(分かってくれとは言えない、想うだけでは充分ではないと考えるお前の気持ちも分かる)
「い、いいえ、そんな……」
そこで、ちかり、と薄蛍の頭の中に総角の顔が浮かんだ。なぜ、と一瞬本当に不思議に思ったが、すぐに自分の思考ではない、と思い当たる。
利劔の顔を見上げると、珍しく僅かに視線が逸れた。
(総角は、行動もスマートだし、女性の扱いにも慣れている。お前が心動かされたとしても、無骨な俺には止めることも出来ない……)
「!」
それが、利劔の嫉妬の感情なのだ、と気付いた薄蛍は、同時に先程利劔が距離を開けたのが、この感情を彼女に悟られたくなかったからだ、と知らされて軽い目眩を起こした。
そうして、一瞬で利劔が思い直して、彼女に全てを曝け出す決心をしたことも。
(自分は、こんなにも臆病な人間だ。不甲斐ない話だが。……お前に嫌われていたら、と考えると、当然用意するべき言葉さえ、形にできない……)
「えっ」
弾かれたように、薄蛍が顔を上げた。利劔は相変わらずの無表情だが、その眉が僅かに曇っているのを薄蛍は目敏く見つける。
「そんなことはありません、私が、利劔様を、きらう、だなんて」
「……薄蛍」
こんな迷ってばかりの男でもいいのか、と気遣うように伸ばされた手の平が、薄蛍の頬に触れた。
(いつか。お前に相応しい男になれたなら。お前はその時こそ、俺の言葉を受け取ってくれるだろうか)
「利劔、さま……っ」
ぽろぽろと薄蛍の大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。そのまま彼女は利劔の大きな胸にすっぽりと顔を埋めて、遂には泣き出してしまった。
「私、……もう少しだけ、自惚れても、いいんですか」
「ああ、お前はもう少し欲張りでも構わないくらいだ」
欲しがってくれ、と胸の内で囁かれて、薄蛍は目眩がしそうな幸福感の中で、ただ利劔の熱情に溢れる真心だけを感じ取っていた。
ことばなんて、もう、ほんの少しも必要ではなかった。
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+++END.
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