「始さん。…竜堂、始さん。」
名前を呼ばれ、長身の青年が振り返る。
相手の姿を見て、大きく瞳を見開いた。…次いで、目を細めて微笑む。
濃紺の瞳に煌めく光りに、心臓がどきんどきんとうるさいくらいに鳴った。
青年は長い足を動かして、彼女の側へ歩いてくる。
「どうしたんだ?茉理ちゃん、えらく他人行儀じゃないか。」
その言葉に、そうね、家族よりは他人になりたいわとは言えない少女はただ微笑む。
「ええ、…お願い事があって来たの。」
ショートカットとセミロングの中間程度の髪の毛を揺らし、
茉理と呼ばれた少女が整った顔に真剣な色を浮かべ、家族とも思う従兄弟の青年に告げる。
青年はああ、いいよ何でも言ってくれて、と安請け合いの言葉を発した。
その後で、ふと思いついたように彼女に尋ねる。
「そういえば茉理ちゃん、受験終わったところだろう?結果は?」
問われた少女は黙って微笑んだ。
「やっただけのことは出来たと思っているわ。」
「それなら茉理ちゃんなら大丈夫だな。」
間髪入れずに帰ってくる従兄弟の笑顔付きの返事に、茉理は苦笑してならいいけどね、と頷く。
その後で再び真剣な表情に戻って、青年に切り出した。
「で、ね、始さん。私、もし合格したらお祝いに欲しいものがあるんだけれど、お願いしてもいいかしら?」
なんだそんなことか、と青年が胸をなで下ろす。
ここのところ大人の女性に少しずつ近づいて、周囲がさざめかしくなってきているこの少女の護衛役として、
保護者代理恋人偽装役で駆り出される頻度がここのところ随分高くなっていたので、
またその類か、と身構えてしまったのだ。
別に恋人役が嫌なわけではないが、始の方は一緒に出かけていると、
まるで本当に付き合いだしてでもいるかのような錯覚に陥りそうになる自分をここのところ発見して、
何とはなく嫌気が差していたのである。
ただの番犬であり忠犬ハチである始には与えられていない権利まで、うっかり行使しそうになる自分に。
始のそんな内心を知ってか知らずか、茉理が始の顔を見上げながら続ける。
「合格したら、ご褒美に…。」
「ご褒美に?」
何をねだられるのだろう、と青年はほぼ内定済みの就職先の俸給額を頭の中で計算しつつヒヤリとする。
「ご褒美に、……私を試験して欲しいんだけれど。」
「へ?」
始が思いもよらぬ茉理の発言に、つい間が抜けた声を上げる。
長い受験をやっと抜けて、始に何の試験をして貰いたいというのだろう、この従姉妹は。
「試験て…なんの?」
尋ねたとき、自分はきっと随分間抜け面をしていたのだろうな、と後になって始は回顧するが。
とにもかくにも、このときの記憶にはこの後彼が生涯忘れることの出来ない劇的なシーンが付随していて。
「…あのね、始さんの……になる試験。」
茉理が口にした言葉は折悪しく吹いてきた北風によって一部吹き消されてしまったが。
風下にいた始の常人を超えていい聴覚は、全文をほぼ正確に捉えることができた。
けれど。
「え、……ええ?!」
聞き取った文章の意味を飲み込めず、始がこの青年にしては珍しく焦った表情を浮かべる。
「ま、茉理ちゃん、それ…君…。」
「じゃあ、約束ね?」
茉理は同じ言葉は二度繰り返すことはせず、少し頬を染めて足早に逃げていってしまった。
残された青年の頬の辺りも、走り去った彼女と同じ色に染まりかけている。
照れ隠しのように、誰に対してというのではなくぼそぼそと呟いた。
「……まいったなぁ、試されるのは俺の方だと思っていたんだけど。」
サクラサク、開花前線はもうすぐ側まで迫ってきていた。
END
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