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4:蝶々の矜持
母屋の東堂の部屋に布団を一揃い置いてくれてあったが、寝間着に着替えた巻島は畳まれたままのその上にぼふんと倒れ込んだ。最早体裁もお行儀も構っていられないくらいには疲れていた。
「ああ……やっと……ゴールに入った気分……ショオ」
夕食を食べて一風呂浴び、ほかほかとした体が心地よくて、このまま眠ってしまいたくなる。とろとろと目を閉じかけると、ならんよ巻ちゃん、と肩に触れてくる掌さえも煩わしい。
掌の主は、相変わらずの真っ直ぐな声で巻島の覚醒を促してくる。
「せめて髪の毛を乾かさねばならんよ、山の中だ、明け方は特に冷える」
「ん、うー……」
オレは正論は大嫌いショ、と呟いて眉を顰めて布団にぐりぐり頭を押しつける巻島に、東堂は苦笑しながら寝てはならん、ならんよ、と言って巻島を引き起こした。巻島の身体は、脱力したままだ。
だらーんと東堂の身体に凭れ掛かってくるのは半ばふざけているのだろう。珍しく甘えてくる巻島に、東堂は密やかに嬉しそうに笑う。
「仕方ない、暫くじっとしていろ、オレが乾かしてやろうじゃないか」
「ショオ……」
巻島を抱えたまま部屋の隅からドライヤーを引っ張り出してくる東堂に、見つけた巻島がすかさず注文を付ける。
「そんな安物ドライヤー、髪が傷むショ! お前のピアノ線みたいな髪と一緒にすんな」
「安物って……。確かに安物だが」
どうしたら、とドライヤーと巻島を見比べると、相変わらず腕の中でくたくたしている巻島が、更なる指令を出す。
「オレの荷物にまともなのが入ってるショ」
ほれ、と顎をしゃくられて、東堂はオレが出すのか? と思いつつ、巻島を手放すと、指し示されたバッグに手をかけた。
「開けるぞ巻ちゃん」
流石に、巻島とはいえ人の荷物を開けるのは気が引ける。敢えて声に出すと、巻島はおーう、と軽いノリで答えてはくれたが、その後がいけなかった。
「ドライヤー以外に触ったら死刑ショ」
「……無茶を言うな!」
恐る恐る荷物を探り、なんとか見つけ出した高級そうなドライヤーを手にしてこれ見よがしに鞄の蓋を閉める音をさせ、東堂は今度は東堂のベッドに凭れてうつらうつらし始めている巻島をもう一度抱え起こした。
全身筋肉で出来てるクライマーの肉体がどれだけ重いか、巻島は分かっているのか分かっていないのか、と折角汗を流したのにまたうっすら汗ばみ始めている己を顧みながら東堂は思う。巻島の身体も温かい。せめて巻島だけで湯冷めしないように、と東堂は巻島の身体を迷った挙げ句再び己のベッドに預けて、自分はその前に膝立ちになってドライヤーを構えた。
「乾かすぞ、巻ちゃん」
「うむ、苦しゅうないショ」
巻島からはそんな人を食った返事が寄越される。どうやら東堂はとことんこき使われることになったらしい。東堂ははあ、とため息を吐いた。
「このサービス代は高いぞ、なんせ山神が直々に……」
「つべこべ口を動かす前に手を動かすショ、寝ちまうぞ?」
「……何故そんないばりんぼなのだね、巻ちゃん……」
全く、と言いながら東堂は巻島の高級ヘアドライヤーの電源を入れた。てっきり会話も出来ないくらいの風が出ると思って正面に回り込んだのに、拍子抜けするくらいに柔らかい音を立てて温風が吹き出てくる。殆ど音がしないことにさすが高級、と妙な感心をしつつ、巻島の緑色を基調とした複雑な色合いの髪を指示されるままに乾かして行く。
「どうだった? うちの感想は」
会話が出来るのをいいことに、乾かしながら尋ねると、色々面白かったショ、と返事が返ってきた。
その後で、ふと巻島の視線が上目遣いに東堂を見上げてくる。
「しかしまあ、オメエ割と真面目に手伝いしてんだな」
「……割とは余計だろう、巻ちゃん」
東堂の文句は聞こえないふりで、巻島は温泉やっぱり気持ちいいなあ、とうっとりしたように呟いた。東堂が自慢げにそうだろう、と身を乗り出す。
「だから、温泉入りたい放題だと言っただろう?」
ちなみに、東堂家の母屋の内風呂が、そもそも源泉から引いてきた掛け流しの温泉だったのだ。巻島はすっかり疲れも忘れて堪能させて頂いた。確かに入りたい放題に嘘偽りはない。
「聞いたけど、自宅の風呂とはネェ。すげえ羨ましい。オレここんちの子になりたいショオ」
むしろ、居候して風呂場に住む妖怪かなんかでもいい。妖怪温泉蜘蛛男の出来上がりである。はー、と息を吐く巻島に、今は巻島の後ろ髪を乾かすために背後に回り込んでいる東堂が笑った。
「いいとも! ではオレが巻ちゃんのご家族のために巻島家の息子に立候補しようではないか」
「あー、お前オレんちの親に気に入られてるかんなぁ、ヤベエショ……」
トレード成立しそう、と笑いだす巻島に、東堂はやっと乾かし終えたドライヤーのスイッチを切った。ふわり、と広がって居た巻島の玉虫色の髪の毛が、元の位置に納まる。まだ少し熱を孕んでほかほかしているその一房に、東堂は満足そうに指先で触れて仕上がりを検分した。
「やはりこの美形はドライヤーを使わせてもひと味違うな!」
そんな事を言いながら巻島のドライヤーを丁寧に鞄に仕舞いなおす東堂に、巻島は東堂のベッドに寄りかかりつつ、言ってろヨ、とだけ返した。
「まあ、オレはトレードでも構わんよ。巻ちゃん、意外に向いてそうだしな」
続いてそんな事を言う。正直、今日の働きに関しては点数すら付ける気になれなかった巻島は眉を顰めた。
「……何が」
「それは……」
言いかけて、東堂が急に押し黙って周囲の気配を探るようにする。ざわり、と部屋の外に人の気配が増える。東堂の家族も帰ってきたようだった。
いかん、と呟き、東堂が焦ったように立ち上がる。突然弾かれたように動き出した東堂を、巻島はぽかんとした顔で見つめた。
「とう、どう……?」
その呼びかけには、何かに追いかけられているような焦った表情が返される。
「やばい、巻ちゃん、起こしに来る前に寝るぞ」
「へ? へ??」
状況が分からなくて狼狽える巻島に、東堂は巻ちゃんが遊びに来てるなんてそんな面白そうな状況、うちの家族が見逃すわけないだろ、と突拍子もない事を言い出す。
「うちの家族は喧しいからな、オレと違って。明け方まで与太話に付き合わされるぞ」
プライベート丸裸にされるぞ、好きな子の名前まで言わされるぞ、それでもいいのか巻ちゃん、と脅すように言われ、巻島も震え上がる。
東堂の家族は東堂の家族らしく、人当たりは良いが押しは強い。あれが複数で巻島一人に好奇心を向けてくるとしたら。
ぱたぱたと足音が近づいてくるのに、巻島は慌てた。東堂より喧しいとはそれはどういうことだ。逃げようにも、まだ布団も敷けていない。東堂はといえば、素早く部屋の灯りを消し、既にベッドに潜り込もうとしている。
急に、湯冷めでもしたように巻島も焦りだした。東堂は既に敵前逃亡を決め込んでいるようだ。巻島を人身御供に差し出すも厭わないような姿勢に、オメエはオレのライバルなんじゃねえのか、薄情もんショ! と腹の底で黒髪の男を詰る。
「狡いショ東堂、一人だけ!」
「オレはさっさと布団を敷けと言ったぞ、巻ちゃん!」
東堂は取り合わない。確かに部屋に入ったときから布団を敷いて寝ろとは言われたし、いつまでもぐずぐず東堂にじゃれていたのは巻島だが。
(それは初めて泊まりに来た非日常で浮かれてる範囲内ショー!?)
本当にこの男どうしてくれようか。東堂は薄暗くなった部屋の中、頭から毛布を被る姿勢に入っている。巻ちゃんお休み! また明日! と言い放たれて巻島は狼狽える。
(どうする、どうするショ裕介ェ……)
言う間に、尽八、起きてる? という声が聞こえる。もうここまで来たら、毒を食らわばなんとやら、だ。巻島は腹を括った。
「東堂」
「うん?」
顔を寄せ、囁き声で名前を呼ぶ。東堂からはくぐもった返事が返ってきた。その東堂の耳元に、更に言葉を注ぎ込む。
「オレとお前は仲良しこよし、ってことでいいなァ?」
「へっ……? うえっ!?」
言い放ちざま、巻島は問答無用で東堂のベッドの上掛けをはぐり、中に素早く潜り込んだ。東堂が明らかに動揺した声を上げる。
「ちょ、巻ちゃん!?」
「やかましい、つべこべ言わずに詰めるショ!」
ぐいぐいと奥に押しやられ、東堂は観念したように布団を半分明け渡して目を閉じた。巻島も彫像のように息を殺す。
巻島の家のベッドはセミダブルだが、東堂のベッドはシングルだった。そう大柄でもない巻島と東堂だが、やはり二人同時に入るときつい。
互いにくっつくほど側に寄り、体温を感じる。ほかほかとまだ芯に温泉の温かさを保つ身体は、直に嘘でもなくとろりとした眠気を疲弊した身体に誘った。
「尽八ー? 巻島君?」
からりとノックもなく部屋の引き戸が開いた。どうやら、東堂の姉のようであった。巻島にも女きょうだいがいるので、こういうとき、彼女たちがいかに悪びれずにいきなりドアを開けるかには身に覚えがある。
こっちの気まずい場面にぶち当たったらどうする気ショ、と思うが、その時はきっと口を極めて非難されるだけだろう。全く納得いかない話だ。
東堂の姉は、畳まれたままの布団と、明らかに二人分の質量でもこもこに盛り上がったベッドを暫く見比べていたようだが、状況を理解したのかふう、と息を吐くのが聞こえた。
「あら、二人とも寝ちゃったのね、つまんない」
そんな言葉の後で、ふふっ、と小さく笑う声がした。
「仲良しなのね、可愛い」
その声が耳に入った瞬間、いや可愛いはないショ、というツッコミを巻島は全力で耐えた。東堂も同じ事を思ったらしく、ぴくっと腕が震えるのを感じたので、大人しくしろ、と言うようにその手を探り当てて握り込む。
東堂が、更に緊張したように身体を固くした。
「お父さん、尽八もう寝てるわ、起こすと可哀想よ」
そんな事を言いながらドアが閉められ、軽い足音と共に東堂の姉の気配が遠のくのを感じ、巻島だけでなく東堂も深い息を吐いた。
あーもう驚いたショ、と二枚重ねてかかっている毛布の一枚を自分の方にたぐり寄せながら巻島はぼやく。
「……流石オメエの家族。夜襲まであるとは思わなかったショ」
「どういう……意味だね」
言いながらもじもじと巻島に握り込まれた手を東堂が動かすので、落ち着けというようにもう一度力を込めた。ぴくりと東堂の肩が震える。
「巻ちゃん……」
どこかしゃっくりでもするような、詰まった東堂の声が耳に届いた。しかし、その頃にはもう巻島はとろとろと眠り始めていた。
東堂の、高校生男子二人を受け止めるには確かに手狭なシングルベッドさえどうでも良くなってきた。少しでも面積を確保しようと、東堂の方に擦り寄る。東堂はじりじり後退っているようだったが、とうとう壁に当たったらしく、困惑したような唸り声が聞こえた。
ナイトキャップ被る余裕なかったな、髪の毛広がったままになっちまう、とちらりと脳内で思ったけれど、動くのも億劫だった。
芯から温まっている身体、ドライヤーで東堂に髪の毛を乾かされるのも気持ち良かった。戦力になっているとは言い難かったかもしれないが、仕事をしたという達成感が重い疲労を連れてくる。
ああ、でも、と意識が途切れる前に巻島は思った。
やっぱり最高なのは、こいつと峠を競った後の達成感だな、と。勝っても負けてもあの全てが満たされる具合は何物にも代えがたい。
もぞもぞと東堂が居心地悪げに動いているのは分かったが、もうベッドから出てやる気はなかった。繋いだままの東堂の手を離すのも面倒で、別にいいショ、このまま一緒に夢で勝負しようぜ、と呟いてくあ、と欠伸をする。
完全に暗闇に落ちる前に、東堂と自転車で走りたいなあ、と思ったのだけは、記憶に残っている。
○◎○◎○
翌朝、隣の人間が動く気配で巻島はうっすら意識を浮かび上がらせた。
「……もう、起きるのか、ショ……?」
寝ぼけて声が掠れている。まだ、外は暗いような気がしたが、布団の中はほかほかと温かい。本当はまだ目覚めたくはなかったが、仕事だ、起きなければ、と身体を覚醒させる前に、肩に掌が置かれてまだいいから、と耳元で囁かれた。
「とう、……どう?」
昨夜、一緒に寝ていたはずの男の名前を呼ぶ。巻島の側に居るのは、東堂を置いて他ににあり得ない。そうだ巻ちゃん、と気配は巻島に向かって言った。
「オレはちょっと朝食の手伝いに行ってくる。巻ちゃんはそのまま寝ていていいぞ」
「でも……」
東堂が仕事に行くのに、オレも、と思うが、起床予定時間より前の眠りが深い最中に起きてしまったのか、身体が動かない。
おこして、と呟くと、寝ていろといったろう、と柔らかく窘められる。
「でも」
「いいから」
「てつだい……」
引っ張れ、とでもいうようにゆっくり上がる巻島の右手に、東堂は少し笑んだようだった。気配で察した巻島が何か言うより先に、巻ちゃんが別の布団で寝ててくれたらもっとそっと抜け出せたんだけど、と呟くのが聞こえ、こればかりは如何ともし難かった、起こしてすまんね、と続く。
「俺は家のものだから、覗きに行くだけだから。朝飯、持って戻ってくるよ」
そこまで聞いて、慣れない労働に気疲れが先に立っている巻島はもう一度重い瞼を閉じた。
イエノモノダカラ、という一言に甘えてしまう。巻島は客人だ、まだそこまで踏み込んでこなくていい、ということだろう。
「ン、わかった……」
「行ってきます、巻ちゃん」
ちゅ、と耳元付近で軽いリップ音が聞こえた気がしたが、もう瞼は上がらなかった。東堂が何をしたのか反芻することもできない。いってらっしゃい、と反射のように届けた言葉に、行ってくるよと酷く嬉しそうな返答があったのだけは覚えている。
(全く、巻ちゃんが大胆なのだか鈍感なのだかさっぱり分からんよ。オレを捕らえて放さないのは、そういうところなのだろうな)
そんな東堂の言葉を聞いたような気がするのは、夢かうつつか。オメエが人のこと言えた義理かよ、と返してやりたかったが、とにかく瞼を上げるのすら億劫だった。
そのまま、次にアラームが鳴って、東堂がワッハッハ、朝飯だぞ巻ちゃん、起きろ! と今度はけたたましく声を掛けに来るまで、巻島は目覚めなかった。
○◎○◎○
しゅるりと黒いネクタイをシャツの襟に回す。前に回してノットを作る。制服で慣れている行為の筈なのに、気が引き締まる気がする。真横に佇む人影も、鏡のように同じ行動を取っているのが視界の端に見えた。
というか、と呟いて、東堂が息を深く深く吐き出した。恨みがましく、隣に立つ人物を睨め付ける。
「巻ちゃん、これは酷い、これは酷いぞ。年末だから留学先から里帰りしてくるって聞いて、嬉しがって千葉行きの用意をしていたオレの努力はどうなるのだ……」
しれっとした顔で、巻島は緑を基調にした玉虫色の長い髪の毛を纏めている。旅館の法被を羽織れば、とりあえずは完成だ。俄然浮かれてきた気持ちを静めるように、ゆっくりとゴムで毛束を束ねる。
「帰るショ千葉、これが終わったら」
というか、そもそも成田からだと巻島の家の方が遙かに近い。両親とも話は付いてるし、と巻島は続けたが、そういうことではない、と東堂は食い下がった。
「せめてクリスマスに帰省してくれよ、そうしたら、ちょっとでもオレも時間取れたのに」
可哀想なオレのリドレー、巻ちゃんと勝負したかっただろうに、と呟いた東堂の視線は明らかに部屋の隅に鎮座した愛車に注がれている。巻島はあっさりと東堂のその考えを否定してみせた。
「あ、それはねえ。ロンドンのクリスマス、体験してみたいショ。折角行ってんのに」
さっくりした巻島の言い分にがっくりと項垂れ、東堂はばさりとやや乱暴に法被を羽織る。
「巻ちゃんがオレだけに冷たい。なんで両親から巻ちゃんが来ることを聞かされてんだ、オレ」
ちなみに、巻島の両親も、箱根滞在の最終日一日だけだが泊まりに来るようだ。今年は息子を押し切ったらしい。巻島は、そのまま家族と一緒に千葉に帰る予定なのだそうだ。そんな予定まで全部両親から聞かされた東堂である。
(その頃には、一本くらい登れるかなあ……)
いじましくそんな事を考える東堂はといえば、巻島がくるのを聞いた瞬間、とるものもとりあえず帰省してきた。空港から直接訪れた巻島とほぼ同着で、箱根の駅で待ち合わせたというぐだぐださである。
「そりゃオメエ、今年もいらっしゃいってお招きされてたんだからナァ」
去年楽しかったし、なんせ温泉入りたかったショ、と浮かれながら自分も屋号入りの法被を着る巻島に、東堂はぼやいた。
「……お陰でオレまで出動だ、受験生だというのに」
まーきちゃーんひーどーいー、と歌うように呟く東堂に、巻島はクハ、と変わらない笑い方をしてみせた。
「じゃ、部屋でお勉強してるショ? オレだけ行ってくるからヨ」
バカを言うな、と東堂が即答する。
「そんなこと、出来るわけないだろうが。オレはこの旅館のアイドルだぞ。登れる上にトークも切れる、おまけにこの美形! 宿に来る女子が皆オレの登場を待ち望んでいるのだからな!」
ぶつぶつ言いながら巻島の服装をチェックする。ん、よし、と満足したように呟く東堂の変わらない真っ直ぐな黒髪を見ながら、巻島は微笑んだ。
昨年はどうなることかと思ったが、最終日までには仕事にも慣れ、また来たいと思うほどになってしまった。東堂は、自分が巻島に与えた影響を、果たして分かっているのだろうか。
(分かってねえよなぁ、そういうとこ、鈍感なのもいいとこっショ)
東堂に誇れるような自分自身でありたい。自転車だけでなく、巻島裕介という一人の男も、常に東堂に意識して貰えるように。
その事だけが理由ではないが、渡英するときに決心を押した理由の一つではあった。今年は、去年よりはもっとマシに自分と向き合えると思う。
昨年ほど、悔しい思いをして東堂の背中を見なくてもいいと思うのだ。
「では行くぞ、巻ちゃん」
巻島のそんな心など露も知らない東堂は、自分もぴしっと服装を整えて歩き出そうとした。その肩を、腕を伸ばした巻島が捕らえた。
「あ、東堂」
「うん?」
振り返って首を傾げる。そう長く会わないでいた訳でもないのに、何故か酷く懐かしい気がした。帰ってきた、と理由もなく思う。
「今夜もオメエのベッドに押しかけるから、半分空けとけよ?」
「へっ!?」
そう言ってやると、東堂は大きく目を見開いて何度も瞬きをした。当然客用布団は去年と同じように東堂の部屋に入っているが、実は去年もとうとう上布団しか使わなかった。
滞在中ずっとベッドを半分占拠され続けた東堂こそいい迷惑ともいえたが、文句があるなら自分が布団を使えば良かったのだ。
巻島は一応次の朝、布団敷くのは合宿の時くらいで慣れていないショ、ベッド貸せ、オメエのもんだから半分明け渡すなり全部明け渡してオメエが布団で寝るなり、好きにしていいぞという選択は迫ったのだ。かなり一方的ではあったけれども。
結局夜まで悩んだ挙げ句、悟りきった修行僧のような顔でオレだってベッドがいいと言ったのは東堂だ。好き好んで狭くても男同士詰めて寝る方を選んだ男の事など知ったことではない。斯くして、敷き布団の方は巻島滞在中のちょっとしたソファとしての役割しか果たさなかった。
また布団を使わないというのか巻ちゃん、と呟く東堂に、巻島は当たり前だろ、オメエとオレは仲良しこよし、と誰が聞いても胡散臭く聞こえるような表情と口調で言う。
「分かった、もう好きにしろ、どうせオレは巻ちゃんに振り回される運命なのだ」
やや開き直った体で言う東堂に、巻島はにやりと口角を上げてうっすらと笑む。
「あとよ、おはようのチューとか恥ずかしいことすんなら、いっそ頬は止めてくれショ」
「……!!??」
愕然として巻島を振り返った東堂の顔が、さああっとみるみるうちに赤く染まっていく。ま、まきちゃんなんで知って、ていうかえっ、頬じゃだめなのか、えっ、と動揺しながらぼろぼろと言葉を零すトークの切れ味がすっかり鈍った美形に、巻島はくつくつととても愉快そうに笑った。
「オレは中途半端なんは我慢できねえんだよ、天辺目指そうぜ、尽八ィ」
「待て待て待て巻ちゃん、天辺とはどこのリザルトの事なのだね!?」
主導権を握り損ねたまま上滑りしていく東堂の手を取り、巻島はその掌に軽く口付ける。今度こそ、東堂は限界まで目を見開いた。
「ま、ま、ま、巻ちゃん!? は、ハレンチだぞ!」
「アホ、あっちじゃ挨拶でももっとすげえ感じショ?」
「そ、そうか、巻ちゃんはイギリス帰りであったな……」
東堂は納得したように赤い顔を押さえていたが、巻島としてはおかしくて仕方が無い。例えあちらの国だろうが、男同士でこんなことはしない、普通。
(ま、勝負はこれからっショ)
慌てた蜘蛛は貰いが少ないってね、という巻島の呟きは、東堂には届かなかったようであった。
それもまたお約束ショ、と囁きながら視界にさらりと流れ落ちる緑色の蜘蛛の糸を見ながら、東堂は自分はもしかして、自分のテリトリーに囲い込んだつもりが捕らわれてしまったのだろうかと暫く考え込むことになってしまったのだった。
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+++END
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