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3:カンダタ・コンプレックス
一頻り忙しいのが一段落して、夕食時間が始まる少し前の頃、少し大きめの盆を持った東堂が、ひょっこりと座り込むのを我慢していた巻島の前に姿を現した。
ついさっきまであちこちに呼ばれて走り回っていたのを見た気がするのに、山神は文字通り神出鬼没らしい。
「巻ちゃーん、お疲れ様! お待ちかねの昼ご飯だ、温泉旅館のまかない飯だぞー」
戯けて言われ、巻島は頬を緩めた。
「……待ってたショオ」
正直、結構腹が空いていたので、巻島はまだ仕事を続けていた周囲の人たちに断ると、いそいそと誘いに来た東堂の近くに駆け寄った。
見ている限り、皆交代で休憩は取っていたので、東堂と巻島はほぼ最後の組のようであった。ゆっくりしてきていいよ、と残る従業員達に声を掛けられ、思わずぽんぽんと腰を叩いてしまう。
クハー、疲れたっショー、とぼやくと、巻ちゃん、年寄り臭い、と東堂には笑われた。余計なお世話ショ、と返しておく。
なんだか、体力的にはまだ余裕があったが、妙に気疲れした気分だ。巻島だって、立派なアスリートの筈なのだし、フィジカルもメンタルも弱くはないつもりだったが。
「裏に母屋があるから、そこで食べよう」
東堂は布巾の被せられた盆を手にして、巻島を誘う。同じように休憩に入るらしい着物姿の仲居の女性達が、表からは見えない場所にある休憩室らしいところへ入って行くのを見ていた巻島は、首を傾げた。
「その、ヨォ。……いいんか?」
実のところ、食事にしても休憩にしても、巻島としては東堂と二人だけの方が気は楽だった。食事をしているときくらい、他人に気を張って居たくはない。
まさか人見知りする自分に気を回してくれたのかと先に立って歩く東堂の横顔を見たが、東堂は逆にちらっと巻島の顔を見て頷いた。
「ああ、いいんだ。……その、家の者が行くと、彼等がゆっくり休めないだろう?」
だからオレ達はこっち、と先に立って歩き出す東堂の後ろ姿に、巻島は一瞬足を止めた。
イエノモノガイクト、という言葉の意味を二三回反芻して、そこでやっと意味が腑に落ちる。さっき東堂の母親が挨拶がてら巻島の仕事ぶりを覗きに来たときに、さっと走った緊張感だ。
東堂の母親が「女将さん」なら、東堂は「若さん」だったではないか。
(……そうか)
幼い頃から、そうやって家族に言い含められ、東堂は一人で食事を取って来たのに違いない。きっと、話題に混ざりに行くこともないのだろう。
若、と呼ばれる東堂の凜とした背中にしばし見惚れる。人の輪の中心にいるようで、東堂は本当は一人でも平気なのだ。
巻島には巻ちゃん巻ちゃんと犬の子のようにじゃれてくるし、箱根学園のメンバーにもウゼエ! 等と怒鳴られていたが、東堂の本質はむしろこちらだ、と巻島は確信を持った。あの日頃の構ってオーラを醸し出す東堂の方がフェイクで、こっちがリアルだ。
……なんとなく、東堂の人となりの形成過程が分かってきた気がした。巻島は小さく呟く。
「オマエ、確かにあのハコガクでトップ争いできるだけのことはあるショ」
少なくとも、人の上に立つのは向いている。部のまとめ役の一人であることは容易に想像が付いた。そういえば、総北の副部長になった田所も、豪放磊落に見えて実は濃やかで、その場に居るだけで他人が安心できるようなタイプだった。
(オレは、駄目かもなァ)
引き比べて己を顧みて、巻島は軽く首を横に振った。
人に優しくするのは不得手だ。他人のことを慮るのも。気なんて、全く利かないか利かせすぎて不審者になるか二つに一つだ。
東堂は、がちゃがちゃと喧しいようで、その実とてもフラットな人間だと思う。イレギュラーをこよなく愛する巻島が、たった一人憧れたスタンダードの権化が東堂だった。
嫌味なまでに走りも性格もストレートな東堂は、巻島がなりたくてもなれなかった存在に限りなく近かった。今更なりたいとは思わないが、それでも近くに居ると不思議に気に掛かる。
他人とは違うと思われたい、という強烈な自意識を、巻島裕介は隠さない方だ。しかし、和して同ぜずを真っ直ぐ伸びた背中で具現している東堂を見ると、焦燥感を感じることもある。
それでも、巻島は巻島裕介であることを止めないとは思うのだが。並んで歩きながら、巻島はなんとはなし、少し前を行く東堂の、カチューシャで抑えられていない黒髪が、さらりと首筋を擽るのを眺めていた。
○◎○◎○
東堂の自宅は、外見こそ古めかしいが、入ってみると呆れるくらいに普通の家だった。数年前に内装だけ現代風にリフォームしたのだという。
「オレが小さい頃に風呂場で転んで頭を打ってな、それで水回りから改装することになったそうだ」
まあ、祖父母もその方が楽だしなあ、と言いながら東堂は綺麗に磨き込まれたダイニングキッチンのテーブルに盆を置いた。
「他人丼だけど、喰える?」
言いながら、味噌汁の入っているという椀を配る。巻島は一も二もなく頷いた。
「なんでもいい、腹減った……」
東堂が冷蔵庫から冷やしたお茶を出してくる間に布巾を取り避けた巻島は、丼にてんこ盛りになっている中身に目を輝かせた。空腹なので余計に旨そうに見える。
「旨そうっショ!」
いそいそと椅子に座る巻島の前にグラスを置いてストローを添えながら、東堂は微笑む。
「あまりに忙しいとカレー地獄に陥るがな。まあ、一年生の作ったもんだし、期待しないでどうぞ」
「いちねんせい」
聞いた瞬間の巻島の脳内には、部活の後輩達の姿が浮かんだのだったが、巻ちゃん今誤解したろ、と即東堂に言われる。
「板場のな、新人のことだ」
巻島のした想像には、東堂の修正が入った。巻島の脳内をうろうろしていた手嶋と青八木が、真っ白な白衣に着替えて再登場するが、その辺が巻島の想像力の限界であった。
「へえ」
その手のことはドラマくらいでしか知識のない巻島はぱしぱし目を瞬かせる。ちなみに、漫画は読まない方だった。
挙げ句料理系も一切しないので、巻島の料理系に関する知識は下手をするとその辺の女子より格段に低いと思う。
「あれショ? 花いちもんめみたいな……」
ついこないだまで母親が再放送で見ていた料理屋が舞台の番組をあげると、流石に東堂は知っていたようで、暫く目を瞬かせた。
「なんというか、意外に古いな巻ちゃんも」
古いと言われた巻島が抗議の声を上げるより先に、まあなあ、普通はそんなもんか、と呟いた東堂は手を合わせていただきます、と言ってから箸を取った。自然に右手、左手、と持ち変えられる一連の動作は流れるように美しい。
利き手だけで箸を持ちかけた巻島は、なんとなくそっと東堂の真似をして箸を取った。箸の持ち方だけは幼い頃に喧しく言われたので、綺麗に持てている自信はある。東堂に礼儀がなっていないとは思われたくなかった。
ただし、手にしているのはお互いに色気のない大盛りの丼飯だが。着いて来ている味噌汁で少し箸先を濡らして食べやすくして、東堂は丼を口に運び始めた。
巻島も、同じように食べ始める。食べ出すと空腹を思い出して、暫くはお互い無言で白米を掻き込んでいた。
丼の中身があらかた無くなって一息ついたところで、東堂がグラスを口にしながらなんとはなく話を再開する。
「ハコガクではオレの実家なんて知らない人間も多いし、あんまり目立たないからいいけれども。昔は夢を壊すなと言われたりもしてなあ」
自転車を始めて、オレは本当に良かったと東堂はしみじみと言った。巻島の中で、また東堂の話のピースが繋がらなくて散漫に散る。
「夢?」
うむ、と東堂は重々しく頷いた。もう一度口を開いたときに、ああ、これは話を繋げてくれる気だなと分かったので、巻島は黙って続きを拝聴することにした。
巻島が大人しく聞きの体勢に入ったのが意外だったのか、東堂はそんな巻島をしばし見つめた後、ふとゆっくり瞬きをしてから言葉を発する。
「……なんでもな、温泉旅館の息子ともなると、毎日時代劇のような生活を送らねばならぬらしい。まあ、仕方がないがな。天は俺に三物を与えた上に、この美形に相応しい生育環境まで用意したのだ」
何を言い出すかと思えば、相変わらず口数だけは多い男だった。
「クハ、何ショ、それ」
相変わらず東堂はおかしいとつい吹き出してしまったが、東堂はなぜかそんな巻島をゆっくりと見た。
「やはり、いいな、巻ちゃんは」
「ハァ?」
ご丁寧にストローを差してくれたので有り難くそれを使って茶を飲みながら、巻島は首を傾げた。完全に東堂の言葉の意味が分からない、という顔だ。
「いいよ。……オレは巻ちゃんのそういう所が好きだな」
しみじみと言われて、巻島はもう少しで飲んでいた茶を東堂の顔面に吹き付けるところだった。盛大に瞬きをする。こいつは一体何を言い出すのか。
唖然とする巻島を余所に、さあ巻ちゃん、食い終わって休憩したら、夜の部だぞ、と東堂は急かす言葉だけを口にしたのだった。
聞いていた巻島は、東堂になにか話の大切な根幹部分を誤魔化されたような気がしたが、東堂が今語りたくないというのならまあそれでもいいかと肩を竦めて食べ終わった器を流しで洗い始めた東堂の所に持って行った。
「いいけどヨ、いつかちゃんと言えショ」
気持ち悪ィだろ、なんだよいつもは自信満々の山神の癖に、と耳元で言ってやると、東堂は暫く黙った後で、だから好きだと言っただろう、と独白くらい小さな声で呟いたのが聞こえた。
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