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1:月夜の蜘蛛の巣
何かの折に泊まり込みでの練習を提案されて受諾して、巻島裕介は、いつがいいと気負い込んでいう相手に向けて、スケジュールを見つつ、時期的に年の瀬を指定してみた。
ゆっくりできるんじゃないかと思って提示された筈の巻島のその日付は、じきに苦い声で潰される。いやね、巻ちゃん、と電話口の向こうの男は言った。
『暮れと正月は無理だ、家の手伝いに帰らないと殺される』
だから、その前後にならないかと東堂尽八は言った。
家の手伝い、の言葉に、巻島はしばし瞬きをした。生まれてこの方、巻島にはほぼ縁が無かった単語だ。母親にちょっと力を貸して、と言われて高いところのものを取ってやったり、簡単な片付けの手伝いをするのと、東堂の口調は根本的に違うように思えた。
遅れて、東堂の個人情報が脳裏で弾ける。実家、といえば、東堂は確か、箱根の。
「あー、そういや、オマエん家、旅館だったなぁ」
そうだった、何かの折にそんな話を聞いた気がする。普段、自転車以外の話は余りしないし、東堂は多弁な割に自分のプライバシーはべらべら明かさない方だから、思い出すのに時間が掛かってしまった。
ううん、と少し弱ったような、それでいて誇らしそうにも聞こえる声が返事をした。そうか、と巻島は思う。しかし、東堂が手伝わなくてはならない程、そして少しも抜け出せない程の忙しさなのだろうか。その辺が今ひとつぴんと来ないでいると、東堂が話を続けた。
『冬休みに入ると即効だ。このときばかりは自転車もなにも関係ない』
東堂家の家長による、帰って来ないと即援助打ち切りの強権が発動されるらしい。自転車に好きに乗せて貰っている代わりに、頼まれたときはちゃんと家の手伝いをする。安いものだよ、と東堂は話を締め括った。
へぇ、と巻島は心の中だけで感心する。巻島には、ぴんと来ない話だ。そもそも、何かを買って貰うのに、親に対価を求められたことなどない。それは、成績やある程度の素行は求められるけれど、東堂が言っているのはもっと違う話の気がする。
なんか、家族総出で商売してるって感じでそういうのもイイネエ、と巻島は笑った。なんとなく興味が出てきて、珍しく巻島の方から話の接ぎ穂を続ける。
「へえ、なあ、つうことは、冬休みは部活出ねえの」
まさかなぁ、あのハコガクで、と思いつつ問うた質問には、さらりと肯定が返ってきた。
『うむ、幸いにしてロードはオフシーズンでもあるし、部員には山神は冬眠したと言っておいてくれと……おい、なぜ笑う!』
「いや、スリーピングクライムの最終形がソレかよ?」
けたけたと巻島はひとしきり笑い、楽しそうショ、と付け加えた。東堂が珍しく弱ったような声を出す。
『楽しそう……巻ちゃん、オレは真剣に次のシーズンも自転車のペダルを回せるかの瀬戸際の勝負に挑んでいるというのに』
「大袈裟ショ。第一、オメエに温泉宿の仕事とか勤まってんのかヨ?」
『出来るとも! 家の手伝いもできないような趣味なら辞めてしまえと言われるのでな、これはこれでオレだって結構必死なのだよ』
「美人の湯治客に鼻の下伸ばしてる図しか想像できねえショ」
想像できない、とにやにやしつつ言いかけて、木造の趣のある旅館の中できびきび立ち働く、法被姿の東堂を一瞬思い浮かべた。
あれ? と心の中で首を傾げる。なかなかいいかもしれない。箱根には家族で行ったこともあるが、思い出の中の町並みはどこか漠然としている。あの中に東堂の家もあったということなのだろうか。
巻島の勝手な脳内想像を察しでもしたのか、むう、と東堂が押し黙る気配がする。しばしの沈黙の後、いきなり東堂の口調のトーンが変わった。
『言ったな、巻ちゃん。なら確かめに来るか?』
「ハ?」
東堂の言葉の意味が分からずに、巻島は何度も瞬きをした。ついでに手にしていたペリエを、グラスからストローでちゅひーとすする。
「東堂、何を言ってるショ?」
冗談かと思って聞いてみたが、東堂の方はそうではなかったらしい。
『手伝いに来てみるか? 温泉旅館』
バイト代は出るぞ、と言われて巻島は再び瞬きをする。バイト、とはアルバイトのことか。こちらも、巻島にはとんと縁が無かった単語だ。
『巻ちゃんも、一緒にどうだね。勤労の汗は尊いぞ。その様子だと、どうせアルバイトもしたことないのだろう?』
今度は巻島が口をへの字にした。東堂は基本的に勘が良い。図星だ。
部活部活に勤しみ、高価なロードレーサーも親に相談すればぽんと望むまま与えて貰える巻島には、確かにアルバイトの経験は無かったが、巻島自身が元々挑まれると受けて立ちたくなる質だ。
東堂の挑発的な口調に対抗するかのように、巻島はなるたけ不機嫌に聞こえるように声を出した。
「学生の本分は勉強ショ」
ハコガクはバイトいいのかヨ、と聞いてみると、家の手伝いだからな、と尤もらしいことを言われる。その後で、快活に付け加えられた。
『巻ちゃん、いいぞ、箱根は。冬場の寒さも乙なものだ』
巻島は思わず爪を口元に持って行きかけて思い止まった。
ヒルクライムの話をしていたと思う。それがなぜ、箱根、しかも温泉宿……というか東堂家でアルバイトの話になっているのか。
しかし、ざっくりとそう切って捨てるには、巻島の好奇心が既に疼き始めていた。見透かしたように、東堂は誘いの水を向けてくる。
『若い内の苦労は買ってでもしろというだろう』
「いや、お前今年幾つだ、っつーか……」
やや乱暴に緑を基調に染められた長髪を混ぜる。
「……本気ショ?」
この言葉に尽きた。
東堂は、自分が本当に彼の実家で某かの役に立つとでも思っているのか。自慢ではないが、巻島は箱入りで育っている。しかも、とびきりゴージャスでデコラティブな箱だ。観賞用にはいいが、実用に耐えるとは普通思って貰えない。
第一、苦労なんてロードバイク以外ではしたことがないし、する予定も今のところない。
なのに、重々しく箱根の山神は頷くではないか。いや、サウンドオンリーでしかないが、何となく分かる。想像は付く。ちなみに、映像的には想像だけでお腹いっぱいである。
『当然だとも』
こいつ今絶対ドヤ顔した、と舌打ちしたいような気分で思いながら巻島は切り出した。
「でもオレ、髪の毛緑ショ。これは流石にマズいっショ?……」
その位の常識は巻島だって持っている。タマムシタマムシと言いだしたのはそもそも電話の向こうの東堂だ。蜘蛛だっつーの、と思いつつも、アルバイトの面接では真っ先に落とされる自信くらいはある。
だが、東堂はなんだそんなこと、とでもいうように軽く笑った。巻ちゃんの髪の色は巻ちゃんの個性だからな、と続く。だから、オメエが一番最初に変な色だと言いだしたんだろうが、と言いたいのはぐっと飲み込んだ。
『なんだ、表も手伝ってくれるのか? 流石にそんなことはいきなりさせんよ』
主に雑用だ、髪の毛の色など誰も見ん、まして、オレの連れてくる人間だしな、と言われて巻島は胸を撫で下ろす。
気になるなら纏めて布でも手拭いでも巻いておけば、それで十分じゃないか、と東堂は続けてさらりという。
そうか、それもそうだな、と頷きかけて、巻島は自分が危うく東堂の術中にはまりかけていることに気付いた。
もう少しで口車に乗るところであった。こんなに勝負に軽々しくては、『山頂の蜘蛛男』返上である。
(危ねえショ、まんまと忍者の思うツボにはまるとこだったショ)
さて、どう断るかと思案を始めた巻島の耳に、そのとき、密やかに、静かに東堂の囁きがするりと忍び込んできた。
『温泉、入り放題だぞ』
巻島は言葉に詰まった。
ずるい、それはとてもずるいと思うのだ。巻島がこの世でこよなく愛するものの一つが温泉だと、あのカチューシャには教えていない癖をして、これだ。
(いやでも、そんな東堂の思惑にはまってやるなんて、そんなんで年末年始潰すとか、あり得ないショ)
初めてのアルバイト、気の置けない東堂の家で、そして温泉入り放題。胸がときめくが、軽率に返事ができるものでもない。
『うち、源泉あるから』
東堂はなおも普通に話を続けたが、聞いた巻島は今度こそ目を剥いた。源泉あるからって、それはすなわち、家に温泉が湧いているということか。
(それってなんて贅沢ショ!?)
なんでそんな大事な個人情報を今まで黙っていたのだ、東堂は。脳内の東堂のドヤ顔と源泉の文字が大きな天秤に掛かる。温泉。掛け流しの。そういえば、部活が忙しくて、温泉になど長らく入っていない。
「……」
ぐらり、と巻島の中で天秤が大きく傾ぐ。家に温泉が湧いてる、ってどういう状態か見てみてえし、これは好奇心好奇心、と既に巻島は言い訳を探す体勢に入っていた。
(好奇心は蜘蛛をも殺すって諺、なかったっけなァ……)
悔しいことに、電話の向こうでは東堂の悟ったような忍び笑いが聞こえる。
どうやら今回の会話のリザルトは、東堂の方に軍配が上がりそうな気配であった。
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