満月奇譚




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 巻ちゃん空を見んかね、といきなり電話をかけてきた男は言った。

「空?」

 その時はたまたま家に居たので、ついと手近な窓の方に視線を向けたが、年季の入った隣の家の煤けた塀しか見えず、はー、と息を吐く。

 一体何事ショ、と言い放ってやってから次の言葉を待つと、いやね、月が、と続いた。

 月? と今度こそてくてく大きく切られたリビングの窓に向かい、そこから空を見上げる。しかし月など、見えるはずがなかった。

 それもそうだ、あちらが月が出ているような時間なら、こちらはまだ太陽が空の何処かに残っている。その位、空さえ離れている。

 なんも見えないショ、と言ってやろうかと思ったが、もう少しだけ電話の向こうの男に付き合ってやってもいいか、と思った。

 この頃は、音声だけなのは珍しいのだ。映像付きの方が、時間帯は限られるにせよ、なんだかんだずっとお安くて済む。まだ生活の殆どが親がかりの二人には、海外通話は躊躇われるものがあった。

 受話器越しに聞く声はそれだけに貴重に感じて、巻島はゆったりと携帯電話を持ち直す。

 中秋の名月だよ巻ちゃん、と男は問いもしないのに答えて寄越す。

 実家だと必ずススキと三方に乗せた月見団子を縁側に並べて飾ってね、うん、少し懐かしくなってね、と寮生活も三年目の筈の男は言う。

 そういえば、東堂の実家は歴史ある旅館だった筈だ。そう言うと、なに古いだけだよ、おんぼろだ、と必ず訂正されるが。

 まだ東堂の実家に行ったことはないが、ネットで検索した限り東堂の言い分は話半分以下に取って良いというのが巻島の意見だ。写真で見る限り、情緒も風格もある佇まいだったと思う。

 ただ、常日頃の東堂とはなかなか結びつかないが。

 巻島家は生憎そういう和風のイベントには割合に疎い家だったので、そうか、としか言えなかった。

 そこで、ふと気付く。受話器の向こうで、いつもよりかなり顰めている東堂の声の後ろで涼やかな音色がする。

「東堂、お前今、どこから電話してるショ」

 派手な虫の音が聞こえてくる。東堂は密やかに笑った。

「ああ、知られてしまったか。うん、月が、月があまりに見事であったのでね、こう、月見をしようと矢も楯もたまらずバイクに乗ったのだよ」

 お前馬鹿ショ、とため息を吐く。光景が想像ができ過ぎる。東堂はくつくつ笑いながら続けた。

ーーーーーハコガクの周りにはいいススキが多くてね、穂先が赤くて、切って帰ったら実家は喜ぶだろうなあ。

 それは、巻島の知らない東堂の姿だった。オメエ、何ショ、こんな遠くに離れてから、そんな風に小出しにしてくるなんて卑怯ショ、と思う。

 月に浮かれるのはウサギだけで十分ショ、と呟いたこちらの返しはどうやら秋風にでも散らされているようだった。

 暢気な男は団子が食べたいなあ、月見酒も乙だが、オレ達未成年だから、これはナイショな、と嘯いて、くつくつと喉を鳴らす。

 たったそれだけで、濃密な夜の空気が国際電話の回線越しに運ばれてくるような気がした。

 眩しいくらいの月光の下を、白いリドレーがぽうっと青白く輝いて、音もなく走る。

 虫の音も邪魔しないくらい、秋風の音も聞こえるくらい。一緒に走れば、静寂の中を案内して貰えるかのような。

 脳内で、一幅の絵のようなその光景が再現される。東堂のスリーピングクライム、森をも眠らせる、その静謐な、けれどもとんでもなく早い走り。

 想像しただけで、もう少しで巻島は叫び出すところだった。

(ああ、今すぐ車輪を並べてあいつと走りてえ)

 今夜、と衝動的に巻島は続けた。

「今夜帰ったら、オレもバイクで月見、するショ」

 まあ、ロンドンに月見団子とススキはないけどな、という続きは心の中だけで終わらせた。なにもなくても月はある。だったらそれだけでもいいだろう。

 電話の向こうの東堂は何故かとても嬉しそうに、お揃いだな巻ちゃん、と答えてくれた。

















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中秋の名月に初めて書いた東巻ちゃん。

 

 

 

 

 

 

 

 

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