夕飯、今日は何が食べたい、と隣からのんびり聞いて来るギンが、自宅近くの商店街の方に足を向ける。
時々は、こんな風に帰りがけに一緒に買い物をして帰っていたらしい。
着ていると威圧的で目立つから、と脱いだ隊首羽織をぽんと腕に預けられ、乱菊は大人しく彼の後ろを着いて歩いていたが、行きつけだと言う魚屋でも八百屋でも彼女の方が店主から気安く声をかけられ、その度に驚くことになった。
「キミ、人気もんやったからなあ」
訪れた魚屋で、今日は蜆がいいからちょっと持って行け、と袋入りの貝を渡されて目を白黒する乱菊に、ギンがそう言って笑ってみせた。
よく二人で買い物に寄っていたのだという。美人で快活で、食べるのが好きで会話が好きな乱菊は、商店街の店主の皆様の間でも、ちょっとしたアイドルだったそうだ。
「夕食のお使いだけは、キミに頼むこと多かったわ、ボクも」
そんな風に付け加え、幾つか夕食の為の食材を仕入れると、届けておいてくれ、と頼んでギンは店を出た。
「まだ、時間早いし。ちょっと寄り道して帰ろか」
な、と言いながら先に立って歩き出すギンの後を、戸惑いながら追いかける。
隊首羽織を着ていない黒衣の死覇装姿の男は、乱菊の記憶の中の市丸ギンと輪郭がぴたりと合致して、やっとギンの後を追っている、という実感がなんとはなしに胸に浮き上がって来た。
「どこに行くの?」
「ん、ええとこやで」
ギンはそれだけしか言わなかったので、それ以上は聞かなかった。
代わりに、長身の背中をしみじみと見上げる。この背中は、幼い頃からずっと追いかけて、追いかけ続けて、それでも手の届かない存在だった筈であった。それなのに。
(とうとう追いついちゃった、んだ。……あたし)
それを証拠に、乱菊の歩調が緩むと、ギンの足も遅くなる。立ち止まると、彼も乱菊を待ってくれる。
それが、一人ずつ別々ではなく、二人で同じ道を歩いている、何よりの証拠だ。
(夢、……ほんとに、夢だったら、どうしよう)
くらり、と目眩を起こしそうになった。実感の湧いて来た現実は、乱菊にとっては余りに都合が良いもので、想像さえ追いついて来ない。
本当に、どうしよう。心の中で乱菊は呟いた。記憶の中のギンは、副隊長の腕章がとても似合う黒衣の青年死神だった。
その頃だって、ごくごく稀にであったが、道などで姿を見かけると、視線だけを送って、俯いて擦れ違って、ドキドキして頬を赤く染めていた筈だった。
(でも、……)
改めて、胸の鼓動を抑えながらギンの横顔を見上げる。
青年期の甘さが削げた輪郭、落ち着いた知性を感じさせる、それでもいつも楽しそうに笑っている口元。
記憶よりもゆったりして柔らかな四肢の動き、体捌きの優雅さ。
今の、隊首羽織をふわりと羽織っている姿も確かに似合っているが、そこには確かに過ごして来た年月が降り積もっている。相応の落ち着きと品格がそこには存在している。そう思うと、自然と頬が赤くなった。
(これだけの人が、伴侶に選んだのが、あたし)
一体、どんな風に選ばれ、どんな風に彼の手を取ったのだろう。記憶が無いことが、こんなにもどかしいと思ったのは初めてだった。
(……正直にいうと、怖い)
ずっと幼い憧れを抱いて来た相手が、突然素敵な大人になって現れ、ボクの花嫁はキミや、と言われる気分を想像してみたらいい。
そこで感じるのは歓喜よりも先に恐怖だ。一体、どれだけの努力をして彼の隣に並んでいたのだろうと思うと、空恐ろしくなる。
手入れの行き届いた身体だって、山程の身を飾る衣装だって、つまりは彼に併せようと必死だったに違いない。
そんなことを考えていると、突然ギンが足を止めた。
・・・・・・・・・・・・・
―――――『It's Only A Paper Moon』:雨野とりせ
※この文章はあくまでサンプルです。内容は予告無しに変わることがあります。
|