◇真っ白でいるよりも◇




「ボクの前に道はない。/ボクの後に道はできる。……そないな詩、どこぞにあったな」

 どこで聞いたんやったっけ。呟いて曇天を見上げる。

 朽木ルキアの処刑の日の払暁は、あの真冬の夜と同じ様な鈍色の色彩をしているように、男には感じられた。

「何をしている、行くぞ、市丸」

 ぼんやり佇む男の背中に苛立った硬い声が飛ぶ。どうやら、さしもの生真面目な盲目の死神も緊張を隠せないらしかった。

「へーい。東仙隊長さんはせっかちやね」

 くつり、と喉の奥で嗤い、羽織の裾を払って歩き出す。

 潜んでいる血の臭いが籠った四十六室の部屋にも、そろそろ嫌気が差して来ていた所だった。

 血の臭いは嫌いな方ではないが、時と場合による。腐臭にまみれた四十六室の血糊になど、何の興味も無い。

 それに、何人もの人間が、真相究明の為に動き出している。特に、日番谷冬獅郎率いる十番隊の動きは目覚ましい。

 もっと、と心の中だけで男は思った。脳裏に、鮮やかな金色の色彩が翻る。

 もっともっと、真実に迫ればいい。他でもない、彼女の手が己の全てを暴いてくれるのを、自分は待っているのだから。

 その果てに、乱菊が自分を選ぶ僥倖までは、高望みし過ぎだろうが。

 そんな想像を繰り広げていた最中、子供の頃と全く同じことを自分が考えていることに気付いて、ギンは些か憮然とした。

 あのときも、乱菊を、独り置いて行く事に躊躇いは無かった。

 むしろ躊躇ったのは、その事によって自分の存在が彼女の中から消えてしまう事だった。それだけは嫌だった。

 この世の中で自分には乱菊しかいないと決めたのだ。どんなに身勝手な理屈でも、自分も彼女の唯一になりたいと願った。

 ならば、消えないように自分自身の存在を彼女の中に刻み付けて行こうと思った。その為の手段は、まだ少年だった彼の中にはそれほど多くの選択肢は無かった。

 時は熟したのだ。……あらゆる意味で。





 初めて彼女と口付けをした日、夜が明けて、自分の身体に感じた違和感に、ギンはぎょっとした。

(な、なんやこれ)

 慌てて彼女を一人残して寝床を這い出し、身の始末を付ける。

 下半身にこびりついた白い液体がなんであるかは、理解できない年齢でもなかったが、それでも、病気にでもなったのかと一瞬思ったくらいだ。

(嘘やろ、ボクは、そないにまで……?)

 昨日、彼女を心ごと手に入れた、と思った事がそれほど迄に己に作用したのかと苦笑したくなる。

 人気が無いのをいい事に、以前に乱菊と水浴びをした清流まで走り、着物を洗いついでに身体も隅々まで擦り、冷水で火照った肌を冷やした。

 秋口の早朝の川水は芯から凍り付きそうな程冷たかったが、それが返って気持ちいいくらいだった。

 心身ともにさっぱりして小屋に帰ると、心地よい、としか形容できない桃色の霞がかかった夢の向こう、ギンの佳人は未だ、粗末な寝具にくるまって、目覚める気配はなさそうだった。

 近づいて手を伸ばし、指に絡み付くしなやかな金糸の髪を梳いてやる。

 そのまま、その金色の髪の毛を眺めながらぽつんと呟いた。

「ボクなぁ、もうキミを抱けるんや」

 キミを泣かしてきた、「男」と同じもんになってしもうた。

 寂し気にギンは呟いた。子供はまだ神の内だと言うけれど、ならばギンの存在はもう神の手から零れ落ちてしまったに違いない。

 ふと、自分はこんな風に彼女に触れていいのか、と思った。自分が触れた所から、乱菊が薄汚れてしまう気がして、躊躇いを覚えた。

「……乱菊」

 静かな声で名前を呼び、ギンはいつの間にか焦がれて仕方の無い存在になりつつある少女の穏やかな寝顔を、朝の穏やかな光の下で、いつまでも飽かずに見つめ続けていたのだった。





・・・・・・・・・・・・














―――――『魂のいちばんおいしいところ』:雨野とりせ



※この文章はあくまでサンプルです。内容は予告無しに変わることがあります。








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