◇My Dear Butler◇




 鼻を刺す異臭に、思わず深い溜息をつきたくなった。軽い頭痛を覚えたのも気のせいではあるまい。

「おはようございます、御前」

 明るい声と共に、ぱりっとアイロンの当たった新聞紙が手元に差し出される。それが昨日までのシャアの一日の始まりの筈だった。しかしながら、どうやら今日からはそんな平穏で完璧な日常は望むべくもないようだ。

「……これは一体、なんのユーモアだね、アムロ」

 低い声で言いながら、シャアはぺりり、と新聞紙を剥がしてアムロの前に翳した。先程からやけに焦げ臭い匂いがするな、と思ったらそれはこの新聞紙の所為だったらしい。新聞紙の中央には、アイロンで空いたらしい、見事な穴が存在していた。

「あ、ばれてしまいましたか……すいません、不注意でアイロンを当て過ぎてしまいまして」

 殊勝に頭を下げる青年を見ながら、シャアは深い溜息をついた。ばれない訳がないだろう、と思う。こんなもので本当に執事の大役をこなせるのかと思うと、正直眩暈がした。

 アムロ・レイはシャア・アズナブルの家の新米執事であった。使用人としては父の代から使えているが、執事としてはまだまだ短い。

 無論、シャアの屋敷は大きな家なので、執事も若輩のアムロ一人ではなかったが、一体、家令であるブライト・ノアはどういうつもりで彼をフットマンから昇格させたのかと思う。アムロは執事としてはかなり若い方だ。彼の父親がシャアの屋敷の執事として長く勤め上げて居たことが理由だとブライトは言った。アムロの父であるテム・レイが不慮の事故で亡くなったことによる、異例の抜擢だ。

 もっとも、シャア自身はアムロの事は、執事としてシャアに使える前からよく知っていた。先の戦争でシャアが士官として従軍した際に、丁度学校を卒業した所で徴兵されたアムロは、シャアの元に部下として配属されていたのだ。勿論、華麗な軍功と上流階級の出自がものを言って佐官クラスまで出世していたシャアとは接する時間は殆ど無い筈だったが、シャアは同郷で昔馴染みでもあるアムロを見つけ、副官に据えて身の回りの世話を全て任せることにしたのだ。その時の卒のない働きが記憶に残っていたため、シャアは今回の人事にも敢えて異議は唱えなかった。

 ところが、蓋を開けてみれば、休暇を過ごす別荘に来て、アムロともう一人の使用人だけしか居なくなってからこちら、アムロの仕事は失敗続きだ。戦場できびきびとシャアの身の回りの世話に立ち働いていたあの頃が嘘だったのかと目を疑いたくなるのも道理だった。

 まぁ、確かに街の屋敷に居たときは沢山のメイドも従僕も居たから、彼等を統括するバトラーであるアムロが一々些細な仕事に手を煩わせる事もなかったであろうが、それにしても従僕上がりのアムロ自身も一通りの仕事はこなせるだろうし、だからこそブライトも今回の休暇に彼を連れて行くことで納得したのだろうに。

 シャアは深くなる眉間の皺を気にしながら溜息をついた。

「新聞のことはもういい、紅茶を頼む」

 スィートウォーターの経済界に特に不穏な動きがないことを祈りながら、シャアは未練がましく大穴の空いた新聞紙を開いた。幸い、穴が空いているのは三文記事の部分のようで、株価の動き位はどうにか追えそうだ。明日からはいっそ新聞にアイロンを当てさせるのは止めにしようか、しかしそれでインクは乾くのだろうかと、そんなことを考えながら真剣に紙上で株価の数字を追っていると、カチャカチャと軽い食器の音が聞こえてきた。

「御前、お茶が入りました」

 銀のトレイを捧げ持ったアムロが部屋に入ってくる。

「そこのサイドテーブルの上に置いておいてくれ」
「かしこまりました」

 言いながら、ティーカップを手にしたアムロの口から、「あ」という声があがった。避ける暇もかわす間もないまま、夜着の上にガウンを纏っただけのシャアの膝の上に、カップごと紅茶がひっくり返される。

 次の瞬間にシャアが思ったのは、どうやら紅茶を淹れるのにも失敗していたようで、えらく温い紅茶だったのが不幸中の幸いだったな、ということであった。



 本当に申し訳ありません、とぺこぺこ頭を下げるアムロの給仕で朝食を終え、アムロが食卓を片付けるのを待って、着替えるためにクローゼットに立ったシャアの後を着いてきたアムロが、チェストの中を改めながら口を開く。

「御前、今日のお召し物ですが」
「……君はいい、着るものは私が自分で選ぶから」

 言いながら、シャアは改めてアムロの服装を見て思わず溜息をついた。一般に、執事は主人を引き立てるために決め過ぎないのが通例となっているが、アムロの恰好は流石に時々耐え難いと思わせるものがある。シャアは、クローゼットの中から一本のタイを取りだしてアムロの胸に当てた。

「アムロ、君の今のシャツにはこのタイの方が合うだろう、これを締めたまえ」

 シャアの言葉に、アムロが慌てて手を振って申し出を辞退する。

「これは御前のタイじゃないですか、自分には不相応な品です」

 慌てたのかやや砕けた口調になるアムロにシャアは眉間に皺を寄せ、厳しい声を出した。

「君にそんな恰好をさせていることの方が余程私の恥だ、つべこべ言わずにそのタイを外せ、今すぐだ!」

 世の中では、執事が主人の着る服を選ぶものだと言うが、本当にそうなのか、一度議会の上院で一緒のガルマ・ザビにでも聞いてみようかとシャアは真剣に思った。それとも、シャアの家が特殊なのだろうか。そういえば、アムロの前の執事で父でもあるテム・レイも、決して服の趣味はいいとは言えなかったような気がする。

 外しただけではなく新しいタイをアムロの胸元に結んでやりながら、これではどちらが主人なのか分からない、とシャアは再び軽い眩暈を覚えた。シャアの今回の休暇は、なかなかに先行き不透明なものになりそうであった。別荘に連れてきている使用人は、アムロの他にはコックを一人だけだった。陽気な中年の女は腕の方も確かで、都会の喧噪を離れ、静かで充実した時間を過ごせると思っていたのに、とシャアは些かがっかりする。

 無論、アムロも一生懸命やっているようなので叱りつけるつもりはないが、それにしても此程に失態を重ね続けるようでは、やはりもう一人連れてくれば良かったか、と考えざるを得ない。

「……カミーユ・ビダンも連れてくるべきだったな」

 アムロのネクタイを結び終えながらシャアが何気なく洩らした一言に、何故かアムロが敏感に反応した。

「御前は、カミーユ・ビダンがお気に入りでしたか?」

 やけに真剣な声音で問われた問いに、そういえば執事は男性使用人の統括権も持っていた、と思いだしたシャアが、カミーユの株を上げてやるつもりで口を開く。

「そういう訳ではないが、ついこの間まで彼が従者だったからな。君が執事になって私の身の回りのこともすると言ったから君だけにしたのだが、こうもミスが続くと考え直したくもなるというものだ」
「以後は気を付けます」

 口唇を噛み締めながらアムロは言い、シャアは気にも留めずにそう願いたいものだな、と返事をした。











―――――『拝啓、階段ノ下ヨリ』:雨野とりせ



※この文章はあくまでサンプルです。内容は予告無しに変わることがあります。








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