◇ARCHIVES◇




すっかり落ち着いた生活を送っていた筈だった。だから、おかしいと思ったんだ、あの頃の夢を見るなんて。

 ガリガリに痩せ細った細い手首に、無数のチューブやコードが絡みついている。その内何本かは細い血管の中に突き刺さり、血を抜く物となんの薬物が入っているか分からない薬物を注ぎ込む物に分かれている。
 コードの先には電極があって、頭の剃られたところに止められていたり、心臓の上に当たっていたりする。
 そんな状態で、点滴の台の滑車をがらがら言わせて走りながら、アムロは懸命に逃げていた。体力がないので冷たい金属の棒を杖代わりにして、入院着のままで、裸足で。

(ダレカ)

 声を上げちゃいけない、「奴ら」に気付かれてしまう。アムロは慌てて口元を抑えた。ぺたぺたというリノリウムの上の足音がやけに響く。

(ダレカタスケテ)

 悲鳴を唇に血が滲むほどに噛み殺し、逃げる。見つかったら、また変な薬を飲まされる。
 どうせ僕なんかニュータイプなんだからって、実験動物と同じだからって、シナナキャいいからって、頭がぼうっとする変な薬。何もかもするのが嫌になって、死にたくなるような薬。

(鎮静剤だ! 気分をローにするような薬を飲ませておけば、逃げようなんて気力は起こらないさ)

 ぐにゃりと視界が歪んで、四方八方から伸びてくる手に抑え付けられる。白衣を着た真っ黒いマネキン人形のような影が近付いてくる。

(タスケ、テ)

 あの薬は嫌。なんだか人間じゃないものに変えられてしまうから、あの薬は嫌。ぜったいにいや。



―――たすけて。



「う、うわああ!」

 がばっと飛び起きて、アムロは胸元を鷲掴みにした。ぼたぼたっ、とシーツの上に汗が落ちる。ぐっしょりと濡れた身体に張り付いた髪の毛を掻き上げる気力もなく、アムロは整わない呼吸を落ち着かせようと必死になっていた。

(夢、夢、今のは夢だ、アムロ・レイ)

 現実ではない、ここはシャイアンじゃない、連邦軍でもない、ネオ・ジオンだ。
 はぁ、と腹の底に溜まった澱のような空気まで吐き出すような息を吐くと、ふと手首が視界に入って、アムロはぶるると身震いをした。
 この手首に何度も刃物を押し当てようとしたことも、銃口を口に突っ込んで引き金を引こうとしたこともある。でも、どうしても最後の所で、アムロの精神は生きることに縋り付いた。
 人間扱いなんてされない、実験動物か器具のような日々。身体を裏返すようにバラバラになにもかも調べられ、それぞれはラベルを貼られて、きっと今も実験棟の冷たいロッカーの中に仕舞ってあるだろう。

 あの頃のアムロ・レイの欠片達は。

(もしも、俺が)

 アムロは着替えようとベッドから出ながら、不意に頭の中に蘇ってきた昏い考えに己を浸した。

(もしも俺に、今のシャアほどの力があったなら、あの忌まわしい過去なんて、研究所ごと潰してやれるのに)

 そうして、あの頃の自分を救いに行くのだと、シャイアンから脱出したころには思っていたのに。着ていた汗で張り付くタンクトップを脱ぎ捨てながら、アムロはがり、と爪を噛んだ。
 闇の中では琥珀色の瞳は上手に光の粒子を拾えずに、しんと静まりかえった室内で、アムロは闇の直中に一人きりで居るような感覚を味わう。

(だって、あの頃の可哀相な俺を救ってやれるのは、知っている人間は、俺しかいないんだから)

 アムロ・レイの死体を迎えに行く想像をしていたアムロの思考は、しかしながら突然のノックの音で破られた。びくっと竦み上がるアムロの目の前で、微かな音を立ててドアが開く。

「どうしたのだね? 酷く、…うなされているような気配がして、胸騒ぎがしたから覗きに来たのだが、起きていたのか、アムロ?」









―――――『メロウナイト』:雨野とりせ



※この文章はあくまでサンプルです。内容は予告無しに変わることがあります。








*back*