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真っ黒に焼け焦げた、元は人間だったかどうかすら判別の着き難い固まりをかぎ爪のある爪先で軽く蹴飛ばして、黒い翼を身に纏った青年は軽い溜息をついた。
「あーあ、折角手加減をしても、あれだけ爆弾を落とされちゃ、同じだな」
同時に地上に落下してくる途中で流れ弾に当たった不運な敵にそう呟いた後でくるりと踵を返して歩き出しながら、肩ごしに最後の一瞥を送る。
「どうせ人間にはもう戻れないんだ。同情はしてやらないよ」
青年は生憎聖職者だのなんだのとは相容れない存在であるから、その魂の救済を祈ってやることすらできない。むしろ、「彼」をそんな姿に変えたサリマンの方により近いのだから。
心の中でそう思いながら、青年は夜空を見上げた。
戦火で紅く焼け焦げた空はまだ鎮まるということを知らず、街のあちらこちらで火の手が上がっていて、空襲の警報も鳴り響いている。雨のように降り注ぐ鉄の塊に、青年は眉を顰めた。
「流れ星は、空が燃えてもあんなに綺麗だと思ったのに。爆弾てやつは本当に醜悪だな」
青年はそれらの光景を仰向いて眺め渡した後、軽く息を付いて背中の羽根を動かした。みしりと軋む身体に眉を顰める。いい加減限界が近いのだろう。意識の混濁も始まっている。ふと、ソフィーは無事に逃げ切ったのだろうかと思った。
「……まぁ、大丈夫か。僕をここまで追い詰めたソフィーなら」
苦笑する。守りたいものは君だ、などと言っておいて、守りきれなかったら恰好が悪いにも程がある。それでは、この戦いが終わっても颯爽と彼女の前に現れる訳にはいくまい。
まぁ、言った後少し照れ臭かったのもあって、逃げるように出てきてしまったが。
「本当の僕はこんなに情けなくて弱虫だけど、君はそれでもまだ、「愛している」って言ってくれるだろうか」
ハウル、とあの声で自分の名前を呼んでくれるだろうか。
そうしたら、あの魔法の声が呼んでくれるのなら、何度でも自分は戻ってこられる筈なのだ。ソフィーが自分自身を信じて、その強い心を惜しみなく自分に向けてくれれば。
「でもな、気を抜いたらおばあちゃんに戻ってしまうんだよな、まだ」
人生から逃げ回っていたハウルの家に、荒れ地の魔女とサリマンの使い犬まで連れ込んで自分を外に引っ張り出した癖に、あんなに無意識にハウルを引っ張り回してくれた癖に、自分は駄目だとまだ信じている節があるのだから気が抜けない。
「現れたときから、ライバルまで連れているし」
くすりと小さく笑って、やっぱり帰らないわけにはいかないとハウルは拳を握り締める。何かの拍子でカブにかかった魔法でも解けたりしたら大変なことだ。
マルクルはいつの間にかいっぱしの騎士きどりでソフィーを守ろうとしているし、カルシファーに至っては裏切り者と言ってやりたくなる。契約者は自分の筈なのに。
「うちの家族はみんなソフィー贔屓だから仕方ないな」
そう言う自分が一番甘くてソフィーに弱いのは自覚しているが。
「この戦争が終わったら、死ぬほど綺麗だって繰り返して、自信をつけさせてあげなくちゃ。あの臆病な灰色ネズミちゃんに」
プレゼントしたドレスにもまだ一度も手を通してくれていないようだ。うんとお洒落をさせて、町中を二人で歩きたい。絶対に似合いの二人だと、誰もが振り返って自分達を見るだろう。
ソフィーは恥ずかしがるかもしれないが、妹のレティーに会いに行こうと言えば拒みはしないはずだ。
その後で、魔法使いを廃業して花屋に専念してもいい。帽子屋よりもソフィーには花が似合っているだろう。
そうすれば彼女目当てに来る男も増えるだろうから、それは自分が魔法で追い払ってやらねばならない。まぁ、ハウルはどう想像しても用心棒よりは髪結いの亭主といった風情なのが少々頂けないが。
沢山の未来を想像して、ハウルはきゅっと口元を引き結んだ。
「……と、いうわけで、僕は死ねない」
がしゃり、と破壊された建物の残骸を踏み締めながらハウルは歩き出した。名無しの死骸に向かい、どうかあんたの元にもせめて安らぎが訪れますように、と呟く。
「さようなら。僕は君とは違う。僕はまだ、ソフィーの名前を呼べる」
例え人間に戻れず、倒れて朽ちようとも、呼べる名前がある。その幸せを噛みしめて、青年は漆黒の翼を炎上する夜空に広げた。
夜明けまでには、今暫くの時間が必要であった。
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