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―――まずは硫黄と水銀。
頭の中で声が聞こえた。
―――錬金作業中は火を絶やしてはならない。
それはありません。何故なら俺は。
「”焔の錬金術師”、ですから。」
『宇宙の幾何学的構造論的和声学的心理学的天文学的調和』
「三次方程式を産み出したのは?」
「タルタリアのフォンタナ。…常識でしょう?」
「じゃ、クザーヌス…。」
「…『神はすべてが神において在るという意味で全てを包蔵し、かつ神自身が全ての中に在るという意味で全てを展開する。』、…ねぇ、もういい加減にこの不毛な議論を終わりにしたいのですがね、私としては。…夕食にしませんか?」
幼稚な知識ばかり聞いてくるんじゃないと溜息をついた。国家錬金術師が数学の初級以下の歴史に通じていない訳がない。
だからインテリの女は嫌いなんだと内心うんざりしたが、生憎本日の『デート』のお相手は彼女に決まっている。
所謂、『難攻不落のお局』である。ヒューズ中佐に紹介された。
さっきから甘い会話にもならずにもう半時間近く数学談義。…プリンキピアでも読んでおけ、と流石のロイ・マスタングもいいとこ限界が近づいていた。
だがしかし、彼女を落とすことが出来るかどうかを賭けているのだ。そう簡単に退くわけには行かない。せめて夕食の約束だけでも取り付けなくては、とロイは取って置きの笑顔を取り繕った。でなくてはヒューズに飯を奢った挙げ句にあいつの嫁自慢だか娘自慢だか惚気倒しだかよく分からない話に付き合わなければいけない。
それだけは、とロイは崩れかかった顔面の表情筋を引き締める。まさに地獄の責め苦ではないか。それを思えばド素人の女性の知ったかぶり攻撃など、大したことは。
「テオフィストウゥス・ボムバスト・フォン・ホーエンハイムをどう思われます?」
「パラケルススですか…偉大な人間だと思いますよ、医師としては。トゥリア・プリマの思想は有効だったとは思いますけれどもね。」
ああもう、わざわざ本名で呼びたいか、通称で言えばいいのに。
―――今日の夕食は、実に砂を噛むような物になりそうだった。
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「ああ、くたびれた。」
翌日、執務室のデスクに腰を下ろした一発目にそう言うと副官にじろりと冷たい眼差しを向けられた。
「私としては一度で良いので執務でおくたびれて頂きたいものです。」
「何、これも政治活動の一環さ。社交という名前の、ね。」
トマス・ジェファソンも人間の活動の根元は社交であると言っているだろう、と言えば大佐のそれは度を超えていらっしゃいます、と一蹴された。
「それで、結局本日の夕食の支払い主はヒューズ中佐ですか、大佐ですか?」
挙げ句そんな風に突っ込まれ、ロイは益々渋面を深くする。
「…私だよ、悪いか。」
「それはそれは。」
「笑いたければ素直に笑っていいぞ、ホークアイ中尉。」
なんなら君も一緒に来るかね、と誘えばヒューズ中佐のお楽しみを取り上げたくはないですから、と笑って交わされる。
ああ、まったく。
掴み所がない女性だな、と思う。副官としては非常に優秀だし、頭もいいし事情も良く呑み込んでくれているし、何よりも美人だ。見目麗しいこと、ロイにとって、これは真理に次ぐ非常に大事な事柄だ。誰が日がな一日ハボックなんぞの顔なんか見て過ごしたいか。ついでを言うならアームストロング少佐のようなむくつけき筋肉男なんか御免被りたい。出来れば一生無縁でも良い。
そんな莫迦なことばかり頭の中で並べ替え作業をしていると、たまには換気もしなければ大佐、と呟きながら彼の副官が窓を開ける。
途端、ふわりと室内に流れ込んでくる冷えた外気。既に季節はひんやり肌を刺す。その中に混じる淡い香りを嗅ぎ分けられなくて、はてこれはなんであっただろうとロイが本格的にその特別製の記憶装置を探ろうとしたとき。
「あら、キンモクセイ。」
先手を打って窓枠に手をかけた彼女が呟き、ふふっと笑った。小さく。ふふっと。ゆるりと風も柔らかくなり、甘い香りの混じる空気がふわりとまとめ上げた彼女の金糸の髪の後れ毛を揺らす。
―――その、なんだ。
そこには正しく黄金が在ったわけで。
ロイはしばらく押し黙ってそれを馬鹿のように見つめ、急に立ち上がると彼女に向かって切り出す。
「ホークアイ中尉、ヒューズ中佐との約束は別にして、一緒に食事をしに行かないか?」
その言葉に、彼女は訳がわからないという風に首を傾げる。
「エイプリルフールは終わりましたよ、大佐。」
「いや、そうじゃなくて…。」
「それに、この間特別休暇も頂きましたし。」
「いや、だから…。」
上官が食事に誘うのなら慰安か褒美だろう。彼女の思考回路は綺麗にそう接続されたようだ。まぁ、ロイがそういう風に仕向けたところも多分にあるのだけれども。
「つまりだ…俺は君の中に錬金術の真意を見出したというか、なんというかその。」
益々分からない、という風に副官は真顔で上司の顔を見つめる。
「大佐、本日は雨ではありませんが?」
―――失礼ですが、頭の方は大丈夫でいらっしゃいますか?
「雨ではないのも分かっているよ、つまり、君の予定が空いていれば…。」
「空いては居ますが、ブラックハヤテ号に餌をやらなくてはいけないので。」
「いや、だから。」
「大佐、何かお話でもお有りなのですか?でしたら、今から人払いしてお聞きしますが…。」
「…違う。」
違う。どうしてそういう展開になるんだ、君の頭は。説明しなくても入り口くらいは分かるだろう?言いかけた言葉を呑み込む。これこそがリザ・ホークアイの面目躍如と言うところか。だからロイも彼女を副官にした。だけれども。
錬金術の作業中は火を絶やしてはならないのだ。…だったら胸の中で燃え上がっているこれはなんだ。
俺は錬成されている途中なのか。―――黄金は、彼女の方じゃないのか?
一生、マグヌム・オプスの真っ最中か。…勘弁してくれ。一体何処へ行き着こうとしているのだか。せめても『賢者の石』でも出来上がってくれればマシなのだが。
ふぅと軽く溜息をついてどっかりデスクの椅子に腰を下ろし、ロイは副官を軽く睨み付ける。理由がなければ彼の誘いにすら乗らない彼女に。
「君ほど強情な人間を私は知らないよ。」
「大佐ほど強情な人間を私は知りません。」
二人は思わず同時に呟き、その気の合い方がおかしくて同時に軽く吹き出した。
部屋の中はいつの間にか噎せ返るほどキンモクセイの香りで充満していた。ロイが窒息しそうなほどに。
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end.
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